幸村を送り届け上の空で帰宅した清正だが、自宅の惨状に夢心地もすぐに覚めてしまった。玄関は甲斐がやったのだろうか、靴がちゃんと並んでいて、おお珍しいこともあるものだ、と思ったのだが、リビングの戸を開けた瞬間に、清正の心は現実に強引に引き戻された。まず、部屋一帯が酒臭い。部屋に入って一番に目に入るのは、無駄に図体のでかい正則が床を占拠するかのように、大の字で高いびきをかいている姿だ。その腕は、窮屈そうな姿勢の三成の肩をがっしりと掴んでいる。無理矢理飲まされた挙句、酔い潰れてしまったと容易に想像ができて、この時点で既に頭が痛い。到底直視していられず、すっと目をそらせば、床に散らばる空き缶の数々。これは誰が片付けるのだろうか。きっと自分だ、自分しかいないのだろう。あああ、と内心呻いてしまったのは、きっと清正の心が弱いからじゃないはずだ。いっそのこと、現実逃避に走りたい。甲斐は一番マシな状態ではあったものの、おそらく朝起きたら身体が凝ってしまうだろう、ソファで縮こまって眠っていた。が、他の姿はない。長政たちは帰ったのだろうか、どこかで野垂れ死んでたりしないだろうか、とキッチンに顔を出せば、廊下に長政と後輩が折り重なるようにして眠っていた。眠ったのか、落ちたのかは、まぁ分からないが。この状態まで来ると、使ってもいいが綺麗に使ってくれ、という気持ちにしかならない。とりあえず簡単に片付けて、自分はさっさと寝てしまおう、とざっとキッチンを見渡せば、ダイニングテーブルの上に蓋の開いた状態で放置されているタッパーが嫌でも目に飛び込んできた。おい、これは俺がもらったものじゃなかっただろうか!と怒鳴り散らしたい気分だったが、今は酔っ払い共を相手にする気にもなれなかった。里芋の煮っ転がしは見事に食い散らかされており、もう数える程度しか残っていない。明日はお説教だ、と意欲を燃やしつつ、とりあえず残っている中から小ぶりのものを一つつまんで口に放り込んだ。流石三成が太鼓判を押していただけあって、冷たくても確かにうまい。素朴な味付けが、今日もろもろの疲れを僅かに軽くしてくれた。三成の口ぶりでは、どうやら幸村が作ったものらしい。いかにも親しげな仲を見せ付けているような三成に腹が立たないわけではなかったが、彼の強引さがあったからこそ、この煮物はここにいるのだ。正則の拘束から助けてやろうとは思わなかったが、清正は少しだけ三成に感謝して、タッパーの蓋をそっと閉めた。これは大事に食おうと、誰にも取られないように、野菜室の奥に押し込んだのだった。
海の中のこども
朝、目を覚ますと、アルコールを摂ったわけでもないのに身体がだるかった。この後に待っている面倒事が身体すら重くしているようだった。日曜の朝である。出勤時間よりかなり遅い時間帯だったが、清正以外はまだ夢の中だった。能天気なやつらだ、と毒づきながら、廊下や床に放置されている面々の横を通り、いつもの朝の支度にとりかかった。軽く朝風呂を済ませ、出掛けられる服装に着替える。その時点で既に9時ぐらいだったが、誰一人起き上がっては来なかった。残っているご飯と味噌汁、もらった煮物をタッパーごと電子レンジに押し込んでスイッチを入れる。その間に野菜を適当に千切ってサラダを作った。どうせ自分しか食べる者はおらず、見てくれを気にしない清正の料理はいつも大雑把だった。温まったご飯や味噌汁を取り出して、適当にテーブルに並べる。里芋の煮物をつまみながら、タッパーはすぐ返してしまおう、と今日の予定を組み立てた。三成や正則のせいで食べるのが早くなってしまった清正にとって、朝食はあっと言う間になくなってしまった。ついつい手を伸ばしたくなる里芋を夕食用にと残したのだが、数えられる程度の量から、三つだけに減ってしまった里芋を少々寂しく思う。それらは別の皿に移し替えられ、また冷蔵庫の奥深くに大事にしまわれたのだった。
11時にもなると、もぞもぞと皆が動き出した。正則はその中でも特に元気で、おそらく誰よりも飲んだだろうに、二日酔いの様子はなかった。気の毒なのは三成で、二日酔いでズキズキと頭が痛むところに、正則の大声をもろに浴びていた。
半覚醒のままではあったものの、一応は全員が目を覚ました頃を見計らって、清正は彼らをリビングの床に正座させた。説教は大事だ。ただ、彼らの場合は、どんな有り難い説法も右から左へ流れて行くだけなのだから、効果の程は望めない。それでも、我が家が悲劇の惨状に見舞われる羽目になった己は、言わずにはいられないのだ。
説教は一時間程続いたが、皆の腹の虫がぐうぐうと鳴き出して、しまいにはコーラスのように四方から聞こえるものだから、清正も説教を断念するしかなくなってしまった。
「もういい、お前らはさっさと帰れ」
と、不機嫌さ全開でそう怒鳴ったのだが、清正の言に従ったのは後輩と同級生のみで、兄弟のように育った例の二人(と甲斐)は、そのまま清正の家に残った。
曰く、
「お腹が空いたー、ご飯食べさせろー」
であったり、
「酒が抜け切っていない。運転できるか」
とのことだ。昼食は外食で済ませる気だった清正だ。もちろん、冷蔵庫にはこれといった食材もない。あの煮物を四人でつつくなど、そんな暴挙を清正が許すはずもなかった。
「俺は出掛ける。お前らも適当に昼飯食って、適当に酒抜けよ」
しっしと犬猫を追い払う仕草をしてみたものの、効果がないことなど清正が一番よく知っている。だが、ここできつく言っておかなければ、付け上がるのもこの二人なのだ。
「えー出掛けんのかぁ?」
「なら俺の車で寮まで送れ」
「お前ら、わがままばっか言ってっと、本気で怒るぞ」
「わーこわい。で、どこに行くんだ?」
清正がどれだけすごんだところで、二人が怯む様子はない。三人が三人とも、それぞれに顔に迫力があるせいかもしれない。
清正は舌打ちをして、
「おねね様のところだ」
と、言い捨てた。決めたのは今日だが、週一のペースの時もあるぐらいだ。別にねねは構わないだろう。出る前にねねに連絡を入れれば、それで済む話だ。
「お前もマメだなあ。よっしゃ、俺らも行こうぜ!」
「そうねぇ、久しぶりにご挨拶してくるのもいいかもしれないわ」
この夫婦は、こういう時だけ意見が合う。反対に、嫌な顔をしたのは三成だ。おそらくは、ねねに小言を言われるのを想像しているのだろう。正則が結婚して以来、顔を合わせればやれ結婚だ、やれ恋人だの話題に辟易しているのは清正も同じだ。ただ、それがねねを避ける理由にならないのが清正であり、マザコンと揶揄される原因なのかもしれない。
「お前も行くか。お前の車で行って、帰りは電車にしてもいいが」
「勝手にしろ。どうせ幸村に入れ物を返しに行くついでだろう」
三成はそう言うなり、よろよろと立ち上がってキッチンへと消えて行った。おおよそ、酔い止めの薬を飲みに行ったのだろう。見透かされている、と思ったが、彼の言に肯定もしなかった。ただ、三成以上に清正の想いを察知しているらしい二人が、こそこそとする会話が見事に清正まで聞こえていた。いや、きっと、聞こえるようにわざと言ったのだろう。
(いいわねぇ、青春ねぇ。相手が幸村さんだなんて、羨ましいわぁ)
(青いなぁ、清正!ようやく春が来ましたってか)
三成の車を一徳庵の駐車場に停め、清正は一人車から降りた。未だに二日酔いの頭痛が続いている三成は放置しておいても害はないが、元気がありあまるこの夫婦はいささか問題ありだ。すぐに戻るから大人しくしていろ、勝手に店に入ってくるんじゃないぞ、と怒鳴りつけてはみたものの、さて言うことを聞いてくれるだろうか。
「んな急がなくても、ゆっくり駄弁ってこいよ」
と、正則は言うが、このネタでからかわれるのは御免だ。
彼の口を、
「熱中症になりたいのか」
の、魔法の言葉で封じて、清正はようやく車から離れた。左手にはきれいに洗ったタッパーが、幸村が持ってきた時と同じ紙袋に入っている。駐車場には他に車が停まっていなかったから、客はいない可能性の方が高い。まず紙袋を手渡して、うまかったと礼を言って、それからいつもの菓子を注文する。脳内シュミレーションではたったそれだけのことなのだが、スムーズに言える自信がなかった。悩んでいても仕方がない、と意を決して暖簾をくぐった。ひやりと冷たい空気が顔にかかる。その先には、ディスプレイケースを挟んだいつもの位置に、幸村がいた。いらっしゃいませ、と頭を下げる声から仕草には、夏の蒸し暑さを忘れさせる爽やかさがあった。
「清正さん!昨日はありがとうございました」
そう先に声をかけたのは幸村だった。どう切り出せばいいのか躊躇っていたところに声をかけられ、内心ほっと息をついた。
「いや、その、俺の方こそすまん。ああ、そうだ、これ、ついでに返しに来たんだが、」
「あ、すいません。別に返していただかなくとも良かったのですが。わざわざすいません」
「いや、ついでだからな。その、うまかった。ありがとう」
「よかった。三成先輩はすぐわたしのハードルを上げてしまうんですから」
「もっと自信持っていいと思うが…。普通にうまかったぞ。言っとくが、これは世辞なんかじゃないからな」
それでも幸村はお世辞だと思ったようで、ふふっと笑いながら、
「今日はどうされますか?いつものとおりでよろしいですか?」
と、既に店員の顔になっていた。通っていた当初から、詰め合わせの内容は幸村に任せていたせいもあるだろうが、いかにも常連ですといった様子で対応してくれるところが嬉しい。この前まではそれすらも、ただの客と店員という関係でしかなかったが、そこから一歩進んでいることを実感して、少し照れくさかった。
「あー、今日は少し多めにしてくれ」
「三つ刻みで増やすことができますが?」
「ならいつもよりプラス六つで。組み合わせは任せる」
「はい、ありがとうございます」
眩しいまでの幸村の笑顔は、接客スマイルとは違って、どこか温かみがある。最初に訪れた時も、こういった勝手が分からずおろおろしていたところを、それはまあこちらが申し訳なく感じる程丁寧に教えてくれたものだ。店の接客スタイルというよりは、幸村の性格がそうさせたのだろう。今ならそれが分かった。
「今、お時間ありますか?よければ、そちらのスペースでお茶をお出ししますが」
そう言って幸村が、店の片隅に設置されている席を指し示す。時代劇でよくお目にかかる、赤い布が敷かれた長椅子だ。
「いつも忙しそうにされていますので、中々声をかけることができなかったのですが、折角こうしてお話できるようになりましたので、よければと思いまして」
忙しそうにしていたのは、ただこの店に不釣合いの自分が勝手に居心地悪くしていただけで、決して急いでいたわけではない。そわそわと落ち着かなさげにしていたのを、幸村はそう察したらしい。今日が一人だったなら、幸村のその誘いも断らなかっただろうが、今は車内に人間を置いたままだ。あの元気が有り余っている夫婦は心配していないが、二日酔いを引き摺っている一人の体調が心配と言えば心配だ。
後ろ髪を引かれる思いで、
「いや、今日は連れがいるんだ。悪いな」
そう、泣く泣く断った。幸村は、そうですか、と少しだけ寂しそうな声で言った。そう聞こえたのは清正の都合の良い耳のせいかもしれないが、残念そうに目を伏せたのは確かだった。端正な顔に長い睫毛の影が落ちる。が、それも一瞬のことで、
「でしたら、次見える時は、お連れの方と一緒に一服して行ってくださいね」
と、顔を上げた。直視するには眩しすぎる笑顔だ。清正はさり気なく顔をそらして、ディスプレイケースに視線を落とした。そこには丁寧な細工で作られた和菓子が、品良く並んでいる。まだまだ夏の盛りということもあって、中には見た目にも涼しげな菓子が置かれている。特に、淡い水色の寒天の海を、二匹の紅色の魚が泳いでいるものが、清正の目を引いた。おそらく、鮮やかな紅色の魚が、清正の寝室で今も悠々泳いでいる金魚を連想させたからだろう。
「昔から、海に対するあこがれが強いんです」
思わず清正は顔を上げたが、幸村は丁寧に清正が注文した品の包装をしていて、こちらを見てはいなかった。それでも、清正の視線の先に気付いていたようだ。敏い男だ。
「筋金入りのカナヅチで、全然泳げないんです。清正さんは、スポーツがお得意そうに見えますが、水泳の方は?」
「人並みには、泳げると思うが」
「それは羨ましい。海外の画家さんに、イルカばかり描かれる方がいらっしゃいますでしょう。鮮やかなオーシャンブルーの、名を、何と言いましたっけ?」
清正もテレビで見たことはあるが、名前までは知らない。そう告げると、幸村もはにかんで、
「その絵を見ると、きっと海の中はこうなっているのだろうなあ、とつい思わずにはいられないんです。この歳になって泳げないんですから、きっと一生そのままだとは思うんですけれど。でも一度でいいから海の中を自由に泳ぎまわって、自分の目で海の世界を見てみたいものです。幼い頃に溺れたっていうのに、全然懲りてないんですよ」
そう締めくくって、はい出来ました。○○○○円になります、とディスプレイケースの上にそっと紙袋を置いた。お代を渡しつつ、もう一度、先の和菓子を眺める。この和菓子には、海への憧憬が込められている。海への思いを語る幸村の目はきらきらと輝いていて、まるで少年が夢を語るような初々しさがあった。筋金入りのカナヅチがどうしたら治るのかは分からないが、それでも、
「泳ぎ、教えてやろうか」
思わず手を差し伸べたくなった。彼と海に行きたいだとか、一緒に過ごしたいだとか、そういった感情からではなかった。ただ、彼の力になれたら、と思っての発言だった。正直、自分が何を言ったのかも理解していなかったのだろう。困っているこどもを、支えてやりたいと思う心理と、それはよく似ていた。
幸村はお釣りを渡しながら、
「え?」
と、真っ直ぐに清正を見つめた。昨夜の分かれ際に幸村が告げた言葉が不意打ちと言うのであれば、きっと今の清正の言が彼にとっての不意打ちだったのだろう。きょとんとした表情は、清正がよく見ている顔より幾分か幼い。きっと、これが彼の素の表情なのだろう。
その頃になると、清正も彼に何を言ってしまったのかをじわじわと理解して、どう言い繕おうか迷う。ちょっと言ってみただけだ、と誤魔化すのは簡単だが、それでは何も進展しない。いっそのこと、海なりプールなりに誘ってみても良いのではないか。そう思って、決意の大きさを表すように大きく息を吸い込んだ。だがしかし、清正の決意が言葉になることはなかった。
「幸村ー、父上が呼んでいらっしゃるのだけれど、」
店の奥からひょこりと顔を出したのは、清正たちと同年代の女性だった。女性にしては長身で、おろせば腰まで届くだろう長さの艶やかな黒髪は、ポニーテールで綺麗に結われていた。その顔はあまり化粧っ気がないものの、目を縁取る睫毛の長さや、うっすら桜色に色付く頬や唇は、自然に作られたものだからこそ目を引くものがあった。十人が十人とも、彼女を美人と証言するだろう。幸村と同じ柄の着物を纏っているから、彼女もきっと店員なのだろうが、初めて見る顔だった。
その女性店員は、幸村がまだ接客中だということにすぐ気付いたようで、
「あらやだ。いらっしゃいませ。騒がしくってすいません」
と、頭を垂れた。幸村といい、この女性といい、たったそれだけの仕草が妙に洗練されていて、見ているこちらが畏まってしまう程だ。
「幸村、もしかしてこの方、」
「あ、はい。昨夜家まで送ってくださった方です」
「まあ。ご丁寧にありがとうございます。最近は何かと物騒で。この子、どこかぼんやりしているというか、マイペースというか、そういうところがありますでしょう?」
「それは、……まあ、はい、そう思います」
会社の同僚に女性社員はいるが、彼女はあまり女らしくないせいもあって、こういった手合いの相手は苦手だった。勢いに飲まれてうっかり同意してしまったが、幸村はそれが不服だったようで、
「そんなことはありませんよ」
と、ぷいとそっぽを向いてしまった。ただ、本当に機嫌を損ねてしまったわけではない証拠に、その表情は柔らかい。会話からして幸村よりも年上らしい女性は、幸村の様にくすくすと小さく声を立てて笑っている。幸村を見る目はいかにも優しげで、ただの同じ職場で働く者同士以上の親密さが窺えた。どういった関係だろう、と気になりはしたが、それを口にするのは躊躇われた。意気地がないのだ。
「そう言えば、幸村の作った煮物はおいしかったでしょう?この子ったら、わたしよりもよっぽど料理が上手で、女性として立つ瀬がなくなってしまうんですもの」
「え、あ、はい。すごくおいしかったです」
「ふふ、そうでしょう。そうだ幸村、また作りすぎてしまった時には、持って伺いなさいな。あなた、よく作りすぎてしまうでしょう?」
「わぁ、あまり言わないでください!」
「だってあなた、いつも大雑把なんですもの。それでおいしい料理を作るのだから、私としては羨ましい限りよ」
「よ、用件は分かりましたから、父上に伝えておいてください!」
「ふふ、都合が悪くなると、すぐそう言うのだから。いいわよ、お邪魔虫はさっさと退散します。それでは、失礼しますね」
女性特有の押しの強さで幸村を言いくるめ、来た時と同じような堂に入った礼を残して、その女性は再び店の奥に消えて行った。幸村は頬を僅かに紅潮させて、
「お恥ずかしいところをお見せしました…」
と、消え入るような声で言った。珍しい表情が見れた、と喜べばよかったのだろうが、そうさせたのが自分ではないことが、心にもやを生む原因となった。すっかり長居してしまったことに気付いて、慌てて菓子の入った紙袋を引っ掴む。ありがとうございました、と手を振る幸村を横目で見送りながら、
「また来る」
と、まるで捨て台詞のように告げて、清正は店を後にしたのだった。
ちなみに、車に戻ってから、ようやく自分の発言がうやむやになってしまったことに気付いて、長い!と文句を言う面々の文句を受け流しながら、ハンドルに顔を埋めるようにうなだれるのだった。
口調がおかしいのは、現代にアレンジしてるからです。というのは嘘で、ぶっちゃけ忘れちゃったからです。女性店員さんが誰かはご想像の通りです。
11/09/26