高虎が幸村の屋敷に通うようになって、一年ほど経った頃だろうか。先日催された花見で幸村は、秀吉の近習というよりは、三成の小姓のように忙しく動き回っており、ほとんど酒を口にしていない。高虎も本来ならば持て成す側だが、酒を運んだり段取りをつける役目ではなく、招待された客の接待ばかりしており、幸村と口を利く機会もなかった。高虎は屋敷以外で、幸村と親し気に話をしたことがなかった。何かに遠慮してだとか、誰かに見られるのを厭んでというわけではなく、なんとはなく、そんな関係になっていた。幸村は隠し事の共犯にするには持って来いの相手で、高虎自身よく分からない規則を、従順に守ってくれた。彼は、一度として疑問を口にしない。どうしてわたしを気にしてくださるのですか?とも、どうして嘘をついてまでわたしの屋敷に来訪されるのですか?とも、どうして親交のない振りをなさるのですか?とも、一切を問わなかった。そんな幸村は、高虎にとってとことん都合の良い男だった。幸村は他人に流されることを拒まない。吉継のように流れを読み、身を置くのとはまた違う。彼は常に全くの自然体に在って、やってくる物事の悉くを変わらぬ穏やかな顔で見過ごしているだけだ。そこに、幸村の意思はあるのだろうか。彼は一体どんなことに嫌悪を覚え、何を拒むのだろうか。
いつもならば日中に来訪する高虎だが、今日は都合がつかず、屋敷を訪ねる頃にはすっかり日が落ちていた。夕餉の刻限には少し早かったから同席を求められることもないだろう、というのが高虎の見解だった。こちらから言えば、どうぞどうぞと勧められるだろうが、幸村に自発性はない。形式ばかりの言葉は紡ぐだろうが、高虎が結構だと突っぱねればそれで済む話だ。いつもと異なる点はほかにもあった。普段は饅頭などの和菓子を持参するが、今日は趣向を変えて酒を選んだ。この後の出来事を鑑みれば、今日に限ってと言った方がいいだろうか。とにかく、今日はいつもの儀式通りではない特異点があった。
屋敷に上がり、土産だと言って幸村に酒を渡す。幸村はさも嬉しそうに喜色を浮かべ、ありがとうございます、と礼を述べた。
「巷で有名な焼酎だ。試しに一口呑んでみろ。うまいぞ」
常ならば、言われるがままに従う幸村だったが、しかし、と珍しく顔を曇らせた。しまった、焼酎は好みではなかったか、と思ったが、そういうわけではないらしい。
「兄上に、誰かと呑むことになっても、焼酎だけは口にするなと特に強く言われておりまして。確かに、他人様の前で己を失うなど見っともないことですから」
焼酎が一番好きなんですけどね、と幸村は笑った。なんとも過保護な兄もいたものだ、というのが、高虎の感想だった。幸村の兄とそれほど面識はない。互いに顔は知っているが、それだけだ。武田に厄介になっていた間も、特別な付き合いがあったわけではなかった。三成や吉継の言では、相当幸村を溺愛しているとは聞いているが、いい年をした男兄弟がそのような関係になるものか、と話半分に聞いていた。
兄の言い付けを守ろうとする幸村に、少しばかりムッとするところもあった。俺の酒が呑めんのか、と絡むつもりはなかったが、それに近い物言いになってしまった。一口ぐらいいいではないか、ここはお前の屋敷なのだし、一口程度でどうにかなるお前でもあるまい。そう言い募れば、幸村は抵抗しない。少し考える素振りをしたものの、あの感情の籠らない透明な眸で一度高虎を見て、
「では、一口だけ」
と、二人分の湯呑みにそれぞれ僅かに酒を垂らした。ぐいと呷る幸村に倣って、高虎も酒を干した。決して弱い酒ではなかったが、一口で酔っ払うこともないだろう。何度か宴の席を共にしたことがある。浴びる程呑む方ではなかったが、勧められて興の冷めぬ程度には酒を干していた。たかが一口で前後不覚になりはしないだろう、という高虎の安易な考えは、すぐに打ち砕かれた。
酔った幸村は、眠りに落ちなかったものの、性質が悪かった。むしろ、眠ってくれた方がよかった。常に鏡のように研ぎ澄まされている瞳に、薄く涙の膜が張られている。揺らめく瞳の中には相変わらず高虎の姿はなく、感情が宿ることもない。僅かに紅潮した頬と、薄っすら開けられた口唇は、酒が入って暑くなっているようで、彼らしくはない呼気の音が漏れ、落ち着く様子はない。幸村の兄が忠告していたのは、そういう意味か。焼酎にだけこのように酔うのだったら、兄の忠告はもっともだ。幸村の普段が普段である。親しい者相手ですら背筋を伸ばし、常に真田幸村たらんとしている男が見せる隙は、抗いがたい誘惑を多分に含んでいた。その口唇は甘いだろうか。その吐息は酒の香りがするだろうか。この瞬間まで考えも及ばなかったことが、次から次へと降ってくる。触れたい、と思った。この男は抗わない。流されるまま流されて、どのような無体に出ようとも、彼の心の琴線を刺激するようなことはない。ないのだ。この男は、きっと何事もなかったかのように穏やかに笑うだろう。それは、高虎を受け入れたわけではない、高虎を愛しているからではない。ただ風が通り過ぎただけ。幸村にとって、一時の劣情で汚されることなど、ただそれだけのことなのだ。あの眸が、高虎を射抜く。思わず背筋が震えた。それは歓喜であった。生唾を飲み込み、幸村の腕を引き、抱き寄せる。あの感情のこもらない澄んだ黒黒とした瞳からは、やはり感情を読み取ることはできなかった。喜びもなく悲しみもなく、ただただそこにある存在だ。一時俺が手折ったところで、この男はこの男のまま存在するに違いない。頬に手を添えれば、手の冷たさが心地良いのか、幸村がそっと眸を伏せる。睫毛の作る影が幸村を薄暗く彩る。決して明るみにならない、仄暗い闇を纏う幸村は、高虎の心を蠱惑した。薄く開かれた口唇から洩れる吐息の熱さといったら。――ああ、これが魔性か。
強引な仕種で吐息を奪い、口唇を舐め、熱い腔内へそろりと舌を這わせ、一旦口を離した。目尻を薄桃色に染めさせた、幸村の眸を見る。やはり、その眸は高虎を見ているだけだ。驚きに目を見開くこともなければ、嫌悪で歪むことはない。ただ、ただ、見ている。得体の知れぬ男だ、と高虎は思考の隅で思いながら、幸村の身体を押し倒した。
行為は、ある意味滞りなく終わった。二度目に気をやった時に気を失った幸村に気付き、高虎は途方に暮れた。幸村をそういう目で見たことは一度としてなかった。政宗の信仰がうつっていたのかもしれない。平素の幸村に、劣情を抱くような色は微塵も感じない。それは幸村自身が意図してそうしているのかもしれなかった。どうにも男受けする雰囲気を持っている幸村だ。あのぴんと伸びた背を己の手で手懐けることができたら、と、高虎の趣向には合わぬものの、そう下卑たことを漏らす男の性を理解できぬ程青くはない。だが、それは高虎とは無関係の話であって、もののふの矜持の塊である男にそのような無体をする程、非情ではないはずだ。ああだが、それなのに。目の前に転がるのは、高虎の乱暴によって精根尽きた幸村の姿だ。何故だろう。高虎は頭を抱える。罪悪感がない、という己の心理が恐ろしかった。抵抗せずに高虎の暴挙に手を貸した幸村の心が分からなかった。
幸村の目尻の涙の跡を拭う。申し訳ないという気持ちよりも、あの男に涙を流させた歓びが胸にはあった。厭だな、と己のことながら思った。これではただの人でなしだ。
幸村が気を失ったのは、どれぐらいの時間だったろうか。幸村はゆっくりと身体を起こし、僅かな光源を頼りに高虎を見た。部屋の隅にある灯台は、高虎が手探りで灯したものだ。既に夜は更けていた。今晩は月もなく、灯りがなければ手許も覚束ない。締め切った部屋には行為の匂いが色濃く残っていたが、襖を開ける気にはなれなかった。
「幸村」
手をつき、深々と頭を垂れる。こんなもので済むと思っていない。手討ちにされても仕方がないことだ。けれども、高虎の言葉を遮るように、幸村が声を発した。高虎の耳が都合の良いようにできていなければ、幸村の声の調子に変化はなかった。
「謝罪はいりません」
それでも多少の怒りはあるのか、顔を上げろとも、体勢を楽にしろとも言わなかった。衣擦れの音がする。高虎が無体に剥がした着物を身に着けているのだろう。
「後悔されていないのでしたら、謝罪は不要です」
高虎は後悔を知らない。それは高虎にとって逃げであるからだ。己の成したことに責任が持てず、うだうだと言葉を連ねるのは高虎の性ではない。己の恥は、それを含めて己であり、失敗を受け入れることはあっても、己の選択に後悔はない。
だが、と言い募ろうとする高虎を、幸村はまたしても遮る。平素と変わらぬ、穏やかな愛想の良い、あの仮面だ。
「またのお越しを、お待ちしております」
15/01/18