その日、たまたま兼続が上杉家からの使いで大坂へ出てきていた。同時に、ふらりと慶次も幸村の屋敷を訪ねていた。話を聞けば、どうやら三成たちも時間が空いたようで、偶然にも酒宴となった。酒宴と言っても格式ばったものではない。皆で酒を持ち寄り、わいわい騒いで解散、というのがいつものことであった。明日の政務もあると、早々に左近が三成を伴って場を抜け出し、旅の疲れが出たのか、兼続も潰れて寝てしまった。場に残されたのは実質、慶次と幸村となってしまった。互い、まだまだ酔っ払いに落ちる兆しはない。幸村は慶次と並ぶほどの酒豪であった。慶次は他愛のない話で、幸村を楽しませていた。楽しんでいるはずであった。ふと流れた沈黙に、慶次は声の調子をそのままに、「どうしたんだい。」と顔だけ真面目くさった表情で言う。幸村は指の中で杯を遊ばせながら、「何がですか?」と問い返したが、慶次は「そりゃ俺の台詞だよ。」と幸村が吐き出すのを待っている。鈍い。見透かしていながら、どこか、鈍い。
「慶次どのから、」
「うん。」
「女子の匂いが致します。」
幸村にとっては、その一言は彼を動揺させる為のとっておきの言葉であった。さて彼はどんな弁明をしてくれるのか。彼は、どうやって慌てふためいて私に謝罪してくれるのか。幸村は慶次の次の行動をじっと睨み付けるように見つめた。
しかし、慶次は動揺することなく、杯を畳に置いて、くんくんと己の着物の袖のにおいを嗅いでいる。
「そうかい?ちゃんと風呂に入ったんだけどねぇ。」
幸村はその瞬間、かっと頭に血が上ったが、すぐにその温度も冷えた。私ばかりこんなに必死になって、なんて馬鹿らしい。彼は言い訳一つしないではないか。一体、私は彼にとっての何なのか。今すぐにでも彼の胸倉を掴み、叫ぶような勢いで問い詰めてやりたかったが、幸村はその衝動すら飲み込んでしまった。私とて同じだ。浮気に気付いていながら、顔色一つ変えぬではないか。幸村は何だか悔しくて、唇を噛み締めた。すると、すぐさま慶次の指が幸村の唇をなぞった。「傷になっちまうよ。」そう優しく諭す慶次の唇を塞ぎながら、幸村は慶次の腕に身を任せるのだった。
(暇潰しの恋なのだ。あなたも私も、いま、この瞬間を華やかに生きる為の、)
そう思うことが、果たして楽になる方法だったのか、幸村は分からなかった。
『うやむや』 【一青想】収録
最早、戦線が維持できていない。すぐにでも幕府軍が大坂城へと突入してくるだろう。秀頼はゆっくりと立ち上がった。落城を前に母もようやく腹を括ったようだ。母もここでようやく、大坂の母として生を終えるようだ。
「幸村、戻ってきているのだろう、幸村。」
はい、御前に。幸村は静かに進み出、秀頼の前で頭を垂れた。敵を蹴散らしてきた後だ。その鎧には血や泥が、その顔には戦の熱が。戦の狂気に染まったこの状態こそが、真田幸村の一番美しい姿であるような、そんな錯覚を感じた。もののふの、美しさである。
秀頼は、じっと幸村を見下ろした。逃げろというべきだろう、秀頼の死で全てが終わるのならば、秀頼が直接家康の陣へ訪れ、降伏を願い出るべきだろう。しかし秀頼はその選択をしない。それでは、今まで戦ってくれた者の無念はどうなる。命を散らした者の嘆きはどうなる。そしてこの男の、平安では釣り合いの取れぬ、身を焦がす熱はどうなってしまう。
「私はひどい主だ。私は、皆に生きろと命令することすら出来ぬ。」
幸村はゆっくりと顔を上げた。幸村の目が、秀頼の双眸を射抜く。彼はもののふとして、主の命を待っている。この戦場に彼らを誘ってしまった秀頼は、それを命じてやらねばならない。
「そなたの命を、私にくれ。私の為に死んでくれ。」
「秀頼さまは、とてもご立派になられました。ええ、総大将たる者、そのように傲岸で傲慢で、気高いお言葉こそが相応しいのです。」
幸村は、そして平伏をした。秀頼の威厳が自然とそうさせたのだが、秀頼は果たしてそのことに気付いただろうか。
「御意に。喜んで、この命、捧げさせていただきます。」
『かざぐるま』 【&】収録
上杉の本拠地・春日山城で数年を過ごした幸村の元に、真田の本家から使いが来ていた。正式には上杉景勝に対しての使者であったが、幸村も無関係ではない。上杉の人質となっていた幸村を、今度は豊臣秀吉の元へ送らなければならない、どうかご慈悲を、と嘆願する為の使者であった。使者には幸村の父・真田昌幸が直々に訪れていた。
結論は早くに出た。上杉家であっても、秀吉の命には逆らえない。幸村の大坂行きが決まった。幸村は父の帰りを見送り、すぐさま準備に取り掛かった。元々、荷物は多くはない。旅の準備にそう時間はかからないだろう。
「大坂へ行ってしまうのか。」
幸村は突然の声に慌てて振り返った。その声は、景勝のものである。幸村はよく知っている。知っているからこそ、声だけで彼の人の感情も手に取るように分かった。分かってしまった。幸村は景勝に向き直り、顔を見ないように平伏した。よい、と景勝が言い放ったが、幸村はすぐには顔を上げることができなかった。
「景勝さまが許可を下さいましたので。」
幸村は静かに顔を上げた。景勝の表情は険しかったが、それは怒っているわけではなかった。幸村には、そのことが重々よく分かった。この方は、哀しんでおられるのだ。
「俺が許さぬと言っていたらどうした。お前は俺の手許にずっと居ったのか。」
「それは、…景勝さまが一番に分かっておいででしょう。」
私はあなた様に何もかもを捧げてもよかったのです。捧げよとお命じになっていたら、そうしていたでしょう。あなたの家臣になってもよかった、あなたのお側に居られればよかった。けれど、今ではそれも叶いません。秀吉に首を振れば、その後の沙汰はお分かりでしょう。
景勝は、分かりたくもない、と言わんばかりに、ぷいと顔を背けた。ご無体な、と幸村は心の中で嘆いた。
「行くな源二郎。俺の手許に居れ。」
ああ、それだけはどうかお許しを。
しかし幸村はその言葉を告げることが出来ず、聞こえていない振りをして、そそくさと旅の準備を再開させたのだった。
『指切り』 【&】収録