『信繁、信繁。』
丁度、部屋を横切る彼に声をかければ、信繁は仕方のなさそうな、緊張感のない顔で秀次を振り返った。ちょいちょいと手招きをしてやれば、呆れたような嬉しそうな顔を貼り付けて、秀次の側へと寄った。
『何用ですか。』
そう丁寧に訊ねてはきたものの、きっと信繁のことだ、どうせまたくだらないお遊びに付き合わせるつもりなのだろう、と疑っているに違いない。だって政はつまらないし、親父どのの家来たちは、親父どのの家来のくせに、遊び心が分かっていないし。秀次は適当な言い訳を己に聞かせながら、
『少し付き合え。』
と、機嫌の良い顔を貼り付けたまま、パン!と扇を開いた。京の有名な匠に作らせた扇は、姿容から、香り、手触り、重さにおいても申し分がなかった。ひらひらと手遊びに揺らせば、かぐわしい白檀の香りが漂った。
『目を閉じよ。』
えっ、と信繁が目を見開く。
『開いてどうする、目を閉じよ。』
言えば、
『わたしは何をされてしまうんですか。』
と疑り深い目とかち合った。
『悪戯はせぬ。だから、少しの間目を閉じていよ。』
『えー、嫌ですよ、せめて、目的を言って、』
信繁のぐちぐちとした物言いは続いていたが、秀次が問答無用と言わんばかりに、開いていた扇面を信繁の顔に押し付けた。勢いよく匂いを吸い込んでしまったのだろう、多少咳き込んでいたが、当然抗議の声が上がった。
『目を閉じよ。』
『だから、何なんですか。』
『瞑ったか?瞑ったな?』
『はいはい、瞑りました、』
よ、と弱々しくなった声に、何だ瞑ってはおらぬではないか、嘘はいかぬぞ、と内心で呟きながら、さっと二人の間を隔てていた扇を放り投げた。信繁の語尾が急に落ちた原因は、秀次が扇に唇を寄せたその様を見てしまったせいだろう。存外に意気地のない男よ、接吻一つで動揺するでない、と、苦笑染みた表情を浮かべている信繁に言ってやろうかとも思ったが、秀次は笑みを作るだけで止めてしまった。珍しくも、どういった表情を浮かべれば良いのか図りかねる、と誤魔化すように笑みを浮かべた信繁に、"勝った"という明確な優越を感じたせいかもしれない。まあ、接吻と言っても、互いに扇に向かってしているようなものであるから、彼のように動揺するのは、いささか可笑しなことではあったけれど。
『秀次さま、』
『ん?何だ?』
『その扇子はどうされるのです?』
『気に入りの品だからの、大事に使うつもりだが、』
信じられない!と表情で物語る信繁に、くつくつと笑いながら、ああそうか!と手を打った。
『欲しいのか?やってもよいぞ。』
『いりませんよ!』
珍しく声を荒げた信繁は、御用が済んだようなので、失礼します!と退室してしまった。秀次はばたばたと逃げていく信繁の足音が遠ざかるのを聞きながら、放り投げてしまった扇を拾った。
唇なら愛情