兼続は大坂へ、上杉家の使いとして訪れていた。兼続の気を使ってか、はたまた、己が豊臣恩顧の中でも浮いた存在だと自覚があるのか、大坂に滞在している間は、よく三成が兼続のところに顔を出していた。そうして、特に用事もないのだが、他愛ない世情や政治の話などに花を咲かせている。
 今日も大坂の庭を三成と歩きながら、ふと何気なく辺りを見回せば、垣根の向こう側から、ちらりと見慣れた姿を見つけた。周りとの位置関係を考えて、ああ彼の屋敷か、と思い出す。立ち止まった兼続に不審そうな視線を送った三成だが、彼も合点したのか、ああ、と短く声を発した。寄って行こうと兼続が言えば、約束はしていないが、と持ち前の融通の利かなさをここぞと発揮している。元から三成の意見を参考にする気のない兼続は、さっさと屋敷の戸を叩いた。案の定、家の者ではなく幸村の声が返ってきて、門の戸を開けた。

 幸村が鍛練の片付けをしている間、兼続と三成は縁側に腰掛け彼を待った。幸村は鍛練の格好から小袖に着替えていて、三人分の茶と共に再び登場した。その様に三成は表情を険しくし、常に存在する眉間の皺が更に一本追加された。兼続はそれに気付かぬ振りをして、険しい三成の様子に首をかしげながらも歓迎の笑顔を浮かべる幸村に手を伸ばし、己の分の湯飲みを受け取った。
「鍛錬の邪魔をしてしまったか?」
「いえ、そろそろ終わろうと思っていましたから。ええっと、三成どの、わたしの顔に何か付いてますか?」
 三成が幸村の顔から視線を外さないことに流石の幸村も気付いたようで、幸村は困惑した表情で三成に問う。しかし三成がそれを指摘する前に、兼続がちょいちょいと手招きをして、己の横にしゃがみ込むように告げる。三成の顔にはいっそう不機嫌そうな表情が広がったが、その様すら楽しげに眺めることができる兼続だ。三成の不機嫌には別段困ることはなかった。まあ、兼続と分かれた後の、左近への風当たりが厳しくなるのは目に見えていたが。生憎兼続は、己以外に降りかかる災難については薄情であったから、この場も、いかに楽しく過ごすか、に重点が置かれている。
 幸村は兼続が促すままに、兼続の足元にしゃがみ込んだ。これでよろしいですか?と兼続を見上げる。
「ああ、それでいいよ。ちょっとそのまま、」
 言いながら兼続は、幸村の顎に手を置き更に上を向かせ、もう一方の手で幸村の左頬を固定すると、ぺろりと幸村の右頬を舐めた。幸村は予想外のことに目を見開いて驚いていたが、幸村が声を上げるより早く、三成が小さく叫び声を上げてしまったものだから、幸村も間を逃してしまった。何より、右頬に痛みを感じたのか、僅かに顔を顰めた。まったく、幸村はさて置き、三成の過剰な反応ときたら。たかが傷口を舐めただけなのに、何をこの男は勝手に勘違いをしたのだろう。
「か、かねつぐ、貴様…!」
「三成、すごい顔をしているぞ。」
「え、っと傷になってました?」
 兼続は、放っておいては暴れ出しそうな三成を抑えつつ、薬を塗っておいで、と幸村を促す。幸村は戸惑った目で二人を見比べていたが、三成が、行ってこい、と小さく呟いたのを聞き、ではお言葉に甘えて、とその場を後にした。

 足音が屋敷の奥へと消えていったのを確認した三成は、じろりと殺気すら感じさせる鋭い視線で兼続を睨みつけた。しかし兼続はしらっとその視線を受け流してしまった。
「何のつもりだ兼続!」
 三成はそう叫びたてたが、兼続は少し冷めてしまった茶をすすった。その落ち着いた様が更に三成を煽っていることぐらい、兼続はお見通しだ。
「自分が舐めてやりたかったのか?」
「は?!俺はそういうことを言っているのではなくてだな、」
「だが駄目だ。許可できぬ。」
 芝居かかった動作で首を振る兼続。三成は思わず立ち上がってしまった。兼続は三成の怒りの琴線に触れることに楽しさを感じているのだから、彼の反応は兼続の悪ノリを助長させてしまうだけだ。
「お前がやっては、どうも よこしま になってしまうだろう?」
 否定のできない三成は、あああ!と少しでも鬱憤を吐き出そうと声を張り上げたが、その声にびっくりして顔を出した幸村と顔が合った途端、三成はその勢いを失い、気の抜けた声で、
「何でもない。お前は、もう少し怪我に気を付けろ。」
 と情けない言葉を吐いた。兼続はその様を腹を抱えんばかりに笑いながら、更に三成の不機嫌をあおるのだった。

(そんなに心配しなくとも、お前が怪我をした時も、同じように処置をしてあげるのになぁ。)










頬なら厚意