幸村が部屋の様子を覗き込めば、部屋の主は大人しく眠っていた。もしくは、大人しく眠っている振りをしているのかのどちらかだ。ただ、布団は少々崩れていたし(寝相の良い人であるから、至極珍しいことだ)、布団から足や腕がはみ出ていた。幸村は小さくため息をついて、そっと部屋の中へ身体をすべり込ませた。
額に浮かぶ汗を枕元の手ぬぐいて拭きながら、手馴れた様子で布団を直し、手足を行儀よくその中におさめる。いつもは白い肌も、発熱で赤みが差している。こちらの方がよほど人らしい、と幸村などは思うのだが、苦しそうに呼吸を繰り返す様が目に入り、さすがにそう言ってしまうのは可哀相だ、と苦笑した。
一頻り寝顔を眺め気の済んだ幸村は、もう一度額の汗を拭ってから、ゆっくりと腰を上げた。襖を開け、くるりと身体を反転して、部屋を出る前にもう一度病人へ目をやった。するとどうであろうか、先程幸村が丁寧な手つきで布団の中に押し込んだはずの手が、また布団からはみ出ていた。どうしようか、と逡巡したものの、襖を閉めて病人へと近寄った。
顔を覗き込み起きていないことを確認した幸村は、先程と同じように幸村より幾分か細い、筋張った腕をそっと持ち上げた。その時である。腕がぴくぴくと動き、ゆるゆるとした動作で幸村の腕を掴んだ。
「お前の手は冷たいね。」
幸村は彼が起きていたことを訊ねようとも思ったが、はぐらかされることが目に見えて分かっているせいか、その問いを飲み込んで、
「それだけ熱が高いということです。いつもはわたしの手で暖を取るくせに。」
「わたしも、好きで風邪を拾うわけではないのだけれどねえ。」
「そうだったら、余程性質が悪いです。」
言いながらも、幸村の肌の温度が心地良いのか、すりすりと頬を寄せている。
「何が食べましたか?義姉上が何か作ってみえましたよね?」
「お前のこれで十分だよ。」
「いくら冷たいと言われましても、わたしの手は食べ物ではありませんので、腹の足しにはなりませんよ。」
けれど信幸はくすくすと笑いながら、幸村の手を楽しげに撫で回すばかりで、幸村の言葉を聞いているとは思えない。幸村はいよいよ隠すのも面倒になり、信幸に聞こえるようにため息を吐いた。その様子に更に信幸はくすくすと笑い、お前は可愛げのない弟だねぇと、楽しそうに言うのだ。
兄の手に包まれてその熱が伝播した頃だ。いつもと変わらぬ様子に見えるが、生憎とこの性質の悪い兄は病人であることに違いはなく、本人がいくら大丈夫そうでも休ませぬわけにもいかない。幸村は兄を気遣って、
「そろそろ、離して貰えませんか?兄上も休まれた方が良いです。」
と手を引っ込めようとしたのだが、肝心の兄は幸村の言を入れてはくれなかった。何がそんなに嬉しいのか、飽きぬ様子で幸村の手に頬をすり寄せている。
「もう少し良いだろう。お前の手のにおいは、わたしには心地良い。」
「血生臭いでしょうに。」
咄嗟に出てしまった本音に、幸村はハッとして口を噤んだが、信幸は場の空気を壊すことなく、穏やかな調子で、
「まったく、本当にお前は可愛げのない、可愛い弟だよ。」
と、嬉しげに微笑みながら、信幸はさっと幸村の手に口唇を寄せた。
「兄上、相手を間違えておられるのでは?」
「お前もいつか分かるよ。」
信幸はそう言って、パッと幸村の手を開放した。
幸村は静かに目を開けた。まだ、信之が信幸であった頃の話で、幸村もまだ、源二郎であった頃の話だ。おそらくは、上杉家へと人質へ出向く前の頃の話ではないだろうか。今まで思い出す機会もなかったが、久しぶりに会う兄を思うあまり、鮮やかな白昼夢を見てしまったようだ。はやる気持ちが高まり、懐かしい、聞き覚えのある足音に、つい立ち上がってしまった。
「失礼するよ。」
声と共に、繊細な動作で襖が開かれる。現れた人物は、スッと目を細めて幸村の存在を確認したが、落ち着かなさげに立ち上がっていたことに気付き、くすくすと笑った。
「何だい、そんなにわたしと会うことが嬉しかったのかい?」
「ええ、それはもちろん。お久しゅうございます、兄上。」
「ああ久しぶり。関ヶ原以来だから、ええっと何年振りになるかな?」
幸村が告げれば、そんなに?と月日を感じさせぬ笑みを浮かべていた。
時間はあっと言う間に過ぎてしまった。襖の先から声がかかるまで、二人は時間の経過にまったく気付かなかった。ああ、もうそんな時間?と名残惜しそうに言う兄の声に、急に寂しさを感じてしまった。
「源二郎。」
ほら、と信之が手を差し出している。いつまで座っているつもりだい、さっさとお立ちよ。そう言っているような動作だ。幸村はつい、条件反射でその手を掴んだ。その手は、幸村同様にマメが潰れた跡が残り、ごつごつとした感触があった。常に前線に出張る幸村と、遜色ない鍛練を積んでいた兄の手だ。
「兄上。」
幸村は兄の手を大事に両手で包み込み、そっと持ち上げて頬ずりをした。
(ああ、兄上もきっと、こんな気持ちだったに違いない。)
「唐突に、どうしたんだい?」
そう訊ねておきながら、その目は穏やかに微笑んでいた。
手なら尊敬