風がびゅうびゅうと呻く。心地良さは一時のもので、既に半刻近く岩場に佇んでいる景勝にとっては、肌寒い程だった。
「源二郎、」
 と岩場に立ち、飽きることなく海を、その先を眺めている信繁の名を呼んだが、彼は振り返ってはくれなかった。条件反射のように、はい、と、風の音に消えてしまいそうな返事をしただけだ。すっかり海に心を奪われている。常に、景勝さま景勝さまと慕ってくれるだけに、物寂しさもひとしおであった。

「飽きぬか。」
「はい、」
「寒くはないか。」
「さあ、分かりませぬ。」
「おそろしくは、ないか。」

 信繁はようやく振り返り、その目に景勝を映した。そうして、景勝の心に寂寥が浮かんでいることに、ようやく気付いたようだった。信繁は景勝に駆け寄りながら、寒いですか、と問いかける。信繁の頬は興奮で紅潮していた。分からぬはずだ。この広大な鈍色の空間に想いを寄せている。そこに、景勝の存在など必要はないのだろう。

 景勝は信繁が己の問いかけに答えなかった腹いせにか、もう一度、
「おそろしくはないか。」
 と信繁に言葉をぶつけた。景勝の目が信繁を飛び越えて、ぽっかりと口を開ける空間に投じられた。信繁も倣うように、その広大な、己の存在などちっぽけなものにしてしまう空間を振り返った。
「おそろしいと思います。でも同時に、この先に何があるのだろう。そう思うと、自然心が弾みます。この海を隔てた国で鉄砲が生まれたのでしょう?おそろしい、けれども、それすら心地良いのです。」
「おまえは、時々、ひどく遠いところに行ってしまう。おれの手が届かぬところに、おまえの心は惹かれる。おれはそれが、無性に、悔しい。」
 信繁はくすくすと笑った。欲の深いお方。わたしというちっぽけな男ですら、手許に居らねば、癇癪を起こすというのですか。信繁の声はやさしかった。景勝の無意味な強がりになど気付いていない様子だった。悔しいのではない。哀しいし寂しいし苦しいし、ああ後は何だろうか。兎にも角にも、こんなにも近く、いっそこの世に二人しか居ないという安っぽい妄想を連想させる程、人の気配のないこの場所にあるくせに、この男の目に己が一切も映らぬということが、景勝は嫌なのだ。

「源二郎。」
 と名を呼べば、信繁は心地良い声で返事をしながら、まるで景勝の意を見透かしているのかのように的確に、景勝の思い描いた通り寄り添ってきた。景勝が目を閉じよと命じれば、これは何の遊びですか?と口許に笑みすら浮かべていた。そっと信繁の身体を抱き締め、口付けを落とした。景勝の唇は、信繁の閉ざされた瞼に静かに触れた。この目に、己を焼き付けておきたい。真田の名など捨ててしまえ、外の国に思い馳せるのもやめよ、おれのそばに、ずっと居ればよい。きっと信繁には伝わらないだろう。人の感情の機微には敏いが、色恋に関して、信繁は野暮といってもよかった。いや、相手が女であれば違っただろうが、景勝の抱く焦燥には全く気付いていない様子だった。つめたいやつだ、と景勝が罵っても、信繁はどうして己がそのように罵倒されるのか見当もつかないだろう。それが、野暮だというのに。
「おまえは、ずっと上杉に居るか?おれのそばに、」
 瞼に押し付けられた熱にも動揺しなかった信繁が、景勝の言葉にようやく目を開いた。けれども、彼はびっくりしたからではない。景勝の声に、ああ答えてやらねば、景勝さまはそれをご所望だ、切望だ、と感じ取ったせいだろう。信繁が景勝の目を見上げる。
「わたし、は、」
 蚊のなくような小さな声は、風にさらわれてしまった。唇の動きが、もう一度、「わたしは、」と伝えている。その先は何だ、言え!そう感じているはずなのに、景勝は信繁がその先を紡ごうと薄く唇を開いたのを認めた瞬間、彼を直視できることが出来ずに、身体をぐいと抱き寄せて口の動きを封じた。強引に景勝の身体に顔を押し付けられた信繁は、やはり抵抗の欠片も見せず、ただ景勝の激情が去るのを待っているようだった。癇癪だ、これではただの、子どもの我が儘ではないか。景勝は己の底の浅い激情をそう見下したが、そうした景勝の我が儘も享受する信繁の浅慮な甘さに縋ったのだった。










瞼なら憧れ