三成は、幸村の水浴びをしている姿を見たことがあるから、偶然にも知っていたことなのだが、真田幸村という、戦場では修羅のような働きをする男には、何故だか弓や鉄砲の傷が一つとしてなかった。刀傷や槍、打撲の痕などは無数についているにも関わらず、飛び道具と呼ばれるものの傷がどこにもないのだ。
その不思議をぽつりと左近に零すと、左近は一瞬考えるように口を閉ざした後、語った。
『武田の頃から有名な話でしてね。どんなに至近距離で撃たれようとも、幸村に弓や鉄砲の弾は当たらなかったんですよ。』
『そんなことがあるか。幸村ほど戦場で目立つような男が的にされぬなど、在り得ぬ。』
三成はそう言い返したのだが、こればかりは左近も説明の仕方を知らないようで、そういうこともあるでしょ、と肩を竦めていた。


三成はそんなことをぼんやりと思い出しながら、幸村に抱きかかえられている現在の状況をどうにか整理しようと試みた。罠だと気付いてはいたが、前に出すぎてしまった。並べられた鉄砲の餌食になるしかないと、三成が目をつぶったその時だった。幸村が三成を抱え込んだのだ。
離せ!とお前が盾になる必要はない!と三成は怒鳴ったが、幸村は何も反応を返さなかった。やめてくれ!と叫んだその瞬間だった。耳を劈く銃声が、鼓膜を震わせた。周りに居た何人もの兵が、呻き声と共に、どさりと倒れる音がした。同時に、幸村が覆いきれなかった腕や足を、弾がかすって、熱く痛んだ。
「ゆきむら、」
と呼び掛けようとしたが、口を開いた途端、もうもうと上がった土埃に思わずむせた。

「ごぶじですか。」
その声は確かに幸村のものだった。あの距離で生きているなど、在り得ないと三成は思った。それでも幸村はもう一度、「ごぶじですか?」と訊ねた。三成は応えてやることが出来ず、息を飲むばかりだ。

「ゆき、むら?」
「では、行って参ります。」

幸村は三成を離して、残り少ない兵を奮い立たせながら、鉄砲の雨の中、果敢に挑んでいった。三成からは幸村の後姿しか見えなかったが、どう見ても負傷しているようには見えなかった。周りを見回すと、鉄砲の弾をまともに受けて絶命している兵が転がっていた。



『時代に愛された男なんですよ。だから、時代に生かされてる。希望を失おうとも、信念を砕かれようとも、彼はそうして生かされてるんですよ。』



今更ながら、弾が掠った箇所が鋭く痛み、ふと幸村はこの傷の痛みだけは知らないのだろうか、と思わずにはいられなかった。





***
在り得なさは、ここではスルーでお願いします。
06/07/23






























『大切なものを失ったことのない者に、その痛みは測れませんよ。幸村の絶望は、大切なものを失って初めて、少しは近付けるのかもしれませんね。』


左近の言葉に、その時はそういうものかと思ったのだが、今思い返してみると、中々真理を言うものだ、と今更ながら感じた。清正や正則が豊臣を離れていった時、仕方がないことだ、としか思えなかった。それは明らかに自分のせいであったし、けれども、どう防げばいいのか分からなかったからだ。秀吉が死んだ時、子どものように涙を流したものの、世の常だと分かっていたから絶望はしなかった。

三成は今までの人生、大切な者を失ったからこそ抱く絶望を知らずに生きた。そして、その絶望を知らず死んでしまうのだ。一番の理解者でありたかったはずなのに、結局は肝心なところが理解できずに終わってしまった。ばかりか、自分の死は、幸村にまた絶望を与えてしまう。

(俺は、絶望することの重みも知らずに死んでいくのか。)

そう自分に話し掛けると、何故だか無性に哀しかった。



三成は質素なボロ布に身を包んで、人だかりの中、前に出された。関ヶ原は完璧な負け戦だった。左近もそれを知っていた。知っていながら、自分に着いて来てくれた。彼に何を報いることができたのかは分からないが、人を怒らせてばかりいた自分に、最後まで付き合ってくれた。無性にそれを感謝したかったが、もう左近は隣にはいなかった。
「直江兼続と真田幸村はどうなる。」
控える徳川の兵に訊ねると、最後の慈悲だろうか、丁寧に教えてくれた。
上杉はお家取り潰し、真田は昌幸、幸村とも打ち首だそうだ。
三成は一瞬に黙祷を捧げて、ありがとう、と自分らしくはないな、と言ってから気付いたのだが、兵に礼を言った。兵は三成の性格を知っていたのだろうか、意外なものでも見るかのように目を見開いて三成を見返した。


後悔をしているのか、それすら分からなかった。縛られた両腕はすでに感覚がなかったが、それすらどうでもよかった。

(兼続、すまん。俺が不甲斐ないばかりに。)

(幸村、)
(時代に愛されたお前は、これでようやく死ねるのだろうか。死んでしまうのだろうか。)


(ああ本当に、俺はお前の痛みを知らずに死んでしまうのだ。)


三成はあの日あの時の彼らの笑顔を脳裏に思い浮かべながら、ゆっくりと眸を閉じたのだった。





***
06/07/23






























真田丸には人の気配がなく、兼続と幸村のただ二人が向かい合っていた。かつては友だった二人がこうして対峙することは、以前の乱世であれば時代の常だと言い切ることが出来ただろう。しかし、既に戦国の世は終わってしまった。二人の心にぽっかりと空洞を残したまま、乱世という時代は、静かにけれどもはっきりと、終わってしまった。それでもこうして対峙するのは、ただ前時代の膿を抱えたまま始まってしまった時代が、一掃しようとしているからだ。

「かねつぐどの。」

幸村は以前と変わらない笑みで、兼続の名を呼ぶ。絶望を知る男は、まるで自分が一番の幸せ者でもあるかのように振舞う。

「かねつぐどの。」
「幸村頼む、私のことを軽蔑してくれ。」

幸村は哀しそうに微笑む。兼続は彼が自分に笑顔を見せるその事実が、ひどく苦しかった。兼続は最早豊臣を見捨てた。三成の意地も裏切り、幸村との誓いも反故にしてしまった。それなのに、幸村はその事実など知らないとでも言いたげに、微笑む。変わらない。この男はたくさんの希望を抱き砕かれ、大切なものを得ては失い、それを繰り返してきたというのに、絶望を抱いてもその眼を暗闇に閉ざすことはしなかった。兼続には見習えないことだった。謙信公が亡くなった時もそうだった。かけがえのない、自分の中の根本に存在していた者が亡くなってしまうのには、もう耐えられなかった。暗闇に身を任せ、考えることを放棄してしまった。

「あなたは何も変わりません。今でも私には眩しい存在です。」
「私を恨んでいるだろう。そのようなことを言うぐらいなら、遠回しな物言いなどせず、罵ってくれればいい。」

幸村は再び、哀しそうに微笑んだ。兼続は見ていられなくて目をそらした。

「恨んでなどおりません。あなたは、私が尊敬した兼続殿です。何も変わっておりません。ええ、人がそう簡単に変わることなど出来ません。あなたの握られた拳は、今も不義に憤ることを知っているのです。」
「幸村!私はお前と三成の志を裏切った!ここでこうして立っていることが何よりの証拠ではないか!!」

「私は、そうは思っておりません。兼続殿は護るべき家を持つお方。私はそれを持ちませぬ故。 私はただの牢人ですが、あなたは違います。ですから、裏切ったと仰ろうが、恨んでいると自責されようが、私はそう思ってはおりません。私には兄がおります。兄上が、私の重荷を全て背負っておられる。ですから私は、私が思うままに動くことが出来ます。」
「私は捨てるべきだったのだ。主家だ、家老だという地位を。」
「いいえ。それを護るからこそ、強くなれるというものです。私はそれすら持たない。最早振り上げた槍をどうすることも出来ず、ただ、敵を忘れられなかった為に、振り下ろす先だけを見つめているだけです。こんな生き方は、三成殿に叱られてしまいます。されど、私にはもうこの生き方しか出来ません。あなたのように気高く生きることが出来ません。」

「私の生き方のどこが気高いものか!私は三成を殺した徳川に仕えているのだぞ。これのどこが、」

「護るべきものを持たない私が振るう槍では、ただ殺戮しか生みません。」


幸村はゆっくりと口を閉ざし、兼続の次の言葉を待った。風が二人の空気をかき回していく。
兼続は、もし関ヶ原で死んでいくのが自分であったのならば、その先に残された二人に何を願うだろうか、と考えた。考えたが、答えは出なかった。兼続は幸村が、己の信念が折れた時は、その先が死なのだと信じていることを悟っていた。三成は、それが理解できなかったのだろう。幸村は生きることが戦うこと、ひいては信念を貫くことに直結しているのだ。


だからこう思うに違いない。

(『時代が許す限り、時世に許される限り、どのような形でも、どのような屈辱と辛酸と決別があろうとも、生き続けて欲しい。』と。)





***
書きたいトコだけ書いたんでここまで。
関係ないですが、これ書いてる最中に下痢の症状に襲われました。原因はわかってる。クーラーだ。そして今年も例に漏れず冷房病になってます。あー頭痛い。
06/07/24