致命傷  as far as I know


ち ちがい、すれちがい、ゆくさきのちがい
め 目で追う、けれども、脚は動かなかった
い いたいほどにあなたはただしい
し 失望はしたけれど、絶望はできませんでした
よ 悦びからも、哀しみからも、わたしは自由になる
う 嘘になってしまった、沢山のこと






























ちがい、すれちがい、ゆくさきのちがい


三成は襖に手をかけたまま、動きを止めた。無意識に中の気配をうかがったが、眠っているはずの部屋の主の気配が感じられないのだ。三成はひそかに舌打ちをした。何度言っても、幸村は寝床を抜け出してしまうのだ。それでは治る怪我も治らない。三成は何度も言うのだけれど、幸村は、ええええ、分かっているのです、と、とても苦しそうに言う。
『ええ、ええ、分かっているのです。けれどけれど、体は言うことを聞いてくれぬのです。休まなければなりません、傷を癒さねばなりません。重々承知しております。けれどけれど、体は言うことを聞いてくれぬのです。』
そう言って三成を振り返り微笑したのは、まだ包帯の取れぬ体でぽつねんと庭に立っていた幸村である。その日は雨も降っていた。それなのに傘も差さず、雨を凌ぐものすら眼中にない様子で、ただただ、雨が降り注ぐ空を眺めていた。
三成はその光景に、いっそ恐怖を抱いた程である。あの時の感覚は、そうそう忘れてしまえるものではない。全身を悪寒が駆け抜けたのだ。

三成は襖から手を離した。幸村を探しに行かねばなるまい。三成の手だけでは余るであろう、左近や、時間があるのであれば兼続たちにも声をかけるつもりだ。だが、三成がそう思って踵を返したその時である。背後に三成の聞き慣れた声がかかった。凛とした、穏やかな声である。

「三成どの、ええ、ええ、分かってはいるのです。けれど私の中を駆け上がる衝動は、私ですら止める術を持たず、繋ぎ止める力を持たず、ただただ、私は私の中を覆い尽くす衝動に、身を任せることしか知らぬのです。」
「ゆき、むら、」
弾かれたように、三成は襖を開けた。同時に、開け放たれた障子から陽の光が三成の目を焼く。幸村、寝ていろと何度言えば。言葉が続かない。幸村は寝衣のまま、庭に降り立って空を見つめていた。三成には背を向けている。まだ包帯はとれていない。絶対安静だというのに、幸村はそんな素振りは一つも見せなかった。戦前のある日と同じように、真っ直ぐに背骨を据えて、前を前を見つめている。

「嘆いてくださいますな。私は愚鈍ゆえ、こうして生を繋いでいるだけなのです。」
「幸村、」
「でしたら笑ってくださいませ。私の背に指をつきつけ、愚かだ阿呆だと切り捨ててください。幸村は愚鈍にございます。ゆえに、あなたさまを傷付ける術しか知らぬのです。」

どれ程そうしていただろうか。三成は言葉を見失い、幸村の背を見つめていた。幸村は、立っていることすら悲鳴を上げる身体である。ついには身体が崩れた。三成は動くことを思い出したように、幸村に駆け寄った。気を失ってしまった幸村の身体を、三成はゆるゆると抱きしめた。
(ああお前は愚かだとも。俺を傷付けることで己を厭うお前は、本当に本当に愚かだとも。)





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04/19






























目で追う、けれども、脚は動かなかった


「幸村!」
兼続が、体勢を崩し倒れかけた幸村に駆け寄る。三成の脇を通り抜ける兼続と同じように、三成も、彼の身体を支えるべく足を踏み出すべきであった。だが、三成の動きは、彼の目に全てを奪われてしまった。
全身に返り血を浴びた幸村が、穏やかに三成に微笑みかけたのだ。お前は何をしてきたのだ、ここは一体どこで、自分は何をしているのだ。そう思わせる程、幸村の微笑は穏やかだったのだ。その片方の手には、名の知れた武士の首がぶら下がっているのだ。三成は茫然とした。それ以外の言葉が見つからなかった。

「殿。」
左近である。二人の視線は兼続と幸村に注がれている。
「あれが武士という生き物です。真田幸村という鬼です。殿は早々に、覚悟を決めるべきなんじゃないですかね。」
「覚悟とは、」
なんだ、それは。何故幸村と共にあることに、覚悟せねばならん。三成は左近の言葉が理解できない。覚悟なぞ、腹をくくるかもしれぬその時にとっておけばいいではないか。

「三成どの。」

突然に名を呼ばれ、三成の肩ははねた。その様子に、兼続は不思議そうに、幸村は少しだけ顔を俯けた。幸村は手にしていた首をわずかに持ち上げる。三成はその男の顔を知っている、幸村も顔見知りであろう。恐怖に歪んだ顔だけが、戦の壮絶さを物語っている。

「勝ちました、ね。」

その言葉の意味すら分からず、三成はしばらくの間、茫然と幸村の笑み視界の端においやるのだった。





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04/19






























いたいほどにあなたはただしい


三成と幸村が喧嘩をしたらしい。左近は正面に座る主からそのことを聞いた。ただ三成自身は何が彼をそんなに怒らせたのか分からないようだ。取り留めのない会話をしていたら、突然に幸村が血相を変えて立ち上がり、すいませんすいませんと謝りながら、さっさと立ち去ってしまったのだ。三成は迂闊な己の言葉が幸村を傷付けたのだと理解したが、何が彼の心を抉ったのかが理解できなかった。幸村はその日以来部屋にこもったきりだという。食事もろくに摂っていない。身体を壊してしまう、と三成は何度か彼の説得に向かったが、中には幸村の気配があるにも関わらず、三成の声に一言も応えてはくれなかった。これは相当に怒らせている、不快にさせている、と悟った三成は頼れる家臣に泣きついたのだ。

左近は三成の方も相当に憔悴していることを知り、その腰を上げた。幸村の部屋の前に立ち声をかけてみるが、やはり返事はない。部屋の中からは確かに幸村の気配を感じる。
左近は躊躇ったものの、ゆっくりと襖を開けた。無礼なのは承知だが、その時は平謝りをして許してもらおう、幸村ならそれでもいいだろう、と思っていた。果たして、幸村は無礼な登場をした左近にも、ああ左近どの、と微笑みかけてきた。その声は明らかに疲れていて、数日の間見なかっただけなのだが、ひどくやつれてみえた。
邪魔するぞ、と部屋に一歩を踏み出せば、ええどうぞ、と幸村ににこやかな声が応える。口調は普段と変わらなかったが、その声にも張りがなかった。


「殿が心配してましたよ。あと、嫌われたと嘆いてました。殿はああみえて朴念仁ですからね、どうして幸村が飛び出してしまったのか、その理由すら分かってない。よかったら左近に教えてもらえませんかね?」
「それは、無理ですよ。」
幸村は尚も食い下がろうとする左近の、疑問を投げかける視線から逃げるように、ゆっくりと立ち上がった。障子へと近付き、ゆるゆると開いた。庭には破られた紙束が四散していた。文を書こうとして失敗した紙が、数えられぬ程たくさん打ち捨てられていたのだ。
「私も、分からないのです。ですから、あなたにお教えすることも、三成どのにお伝えすることも出来ぬのです。」
「ゆきむら、」
左近が慌てて立ち上がり、ふらふらと今にも倒れそうな幸村を支えた。左近の手を借りて、負担のかからないようにその場に座り込んだ幸村は、一度だけ深いため息をついた。肩に触れている左近の手には、幸村の僅かな震えが伝わっていた。

「ふとした瞬間なのです。私は三成どのの真っ直ぐな優しさが好きです、あの透明な言葉が好きです。」
幸村は、三成のある種異常な潔癖を、優しさだと言う、正しさだと言う。ああそうだ、不正を何よりも嫌う主は、誇らしくもある。

「けれど、」

「時々思ってしまうのです。もう少しさかしくあれば、と、狡猾であれば、と。いっそのこと、」
「幸村。」
すいませんすいません。幸村はそう言って蹲ってしまった。左近はどうすることも出来ず、手持ち無沙汰な手が、迷った挙句幸村の背を撫でた。
左近とて幸村の言葉は理解できる。いや、その命を守る左近だからこそ、幸村以上にその念は強い。もう少し、もう少し、と足りないものを強請っている。そうなってしまっては、二人が好感を抱いている石田三成という存在ではなくなってしまうだろう。それでも思わずにはいられないのだ。どうしてもう少し、と。





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04/22































失望はしたけれど、絶望はできませんでした


「重い恋などしたくはないのです。」
幸村は彼に背を向けたまま、静かにそう告げた。彼は幸村のことが好きであるし、幸村もまた彼のことを好いていた。けれども幸村は言うのだ。
「重い恋など、したくはないのです。」
幸村は彼の表情を見ることがおそろしく、足元に生えている草を無造作に千切っては、風に流れていく様を見つめていた。背中に彼の視線がぶつかっている。けれど幸村は振り返ることが出来ない。
「私はあなたのことを好いています。けれど、私は戦では真っ先に駆けていってしまうような、命知らずな粗忽者です。いつ何時、死んでしまうのか分からぬ身です。」
幸村はゆっくりと言葉を吐く。分かってもらおうとは思っていなかった。これは幸村の言い分であるし、彼にとってはただの言い訳でしかないだろう。けれど幸村は言わずにはいられなかった。あなたのことを愛していないわけではないのです、ただただ、私はおそろしいだけなのです。そう、伝えたかったのだ。
「私が死んだ時、幼子のように泣き喚くあなたは見るに耐えません。仕事すら手につかぬような腑抜けになってしまうのも嫌です。食事も喉を通らず、夜もろくに眠れず、人としての尊厳すら捨ててしまうことになると思うと、私は、」
幸村自身が今まで見てきた恋という存在は、壮絶なものであった。想いが募りすぎて、押しつぶされて、しまいには自分にその重みが何倍にもなって還ってくるのだ。自分というたったそれだけの存在がなくなってしまっただけで、相手の全てを壊してしまうことが、幸村は何よりもおそろしいのだ。それならば、そんな恋などしたくはない。相手に押し付けたくはない。あなたを苦しめるだけの恋などで、どうしてあなたと添い遂げられましょうや。幸村の本心はそこにある。

「重い恋などして、身を滅ぼすことになるとするならば、いっそのこと、そんな想いなど断ち切ってしまいたいのです。」





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04/29