真田幸村七変化
1 泣く 江戸城の戦い後
2 喚く 関ヶ原IF
3 胸倉を掴む 三成と幸村
江戸城は今も赤々とした炎に包まれていた。直江兼続が放った火は、瞬く間に城全体へと広がった。まるで、戦の爪跡を深く深く残そうとしているようにも映った。きっともう、灰となった江戸城しか残らないだろう。それほどまでに、火の勢いは凄まじい。
武蔵は幸村の姿を探して辺りを見回した。決して後味の良いものではないが、確かに自分たちは勝利したのだ。嬉しいとは一概には言えぬものの、互いに生還したことを笑い合いたかった。生にしがみ付くことを思い出してくれた幸村に、武蔵は一言礼がしたかったのだ。
程なくして、幸村は見つかった。小高い丘の上から、江戸城が次第に灰へと変わっていく姿をじっと見つめている。凝視している。いいや、彼はもしかしたら、その中に映る何かの影をじっと眺めているのかもしれない。彼の目は、いつも目の前よりもっともっと遠くを眺めて、気の遠くなるような思いを一人でじっと抱え込んでしまうのだ。
武蔵は、いつものように出来る限り気軽に、彼の名を呼ぼうとして、開いた口をゆっくりと閉じた。幸村の目は濡れていた。頬には幾筋もの跡がくっきりと残っている。泣き方が分からないのか、時折、彼の喉が引き攣ったような音を鳴らす。それでも彼は動かずに、じっと燃え盛る炎を見つめている。その眸には、橙色の影がゆらゆらと生きているかのように揺らめいている。
唇がゆっくりと動いた。
(おいていかないで、)
(うつくしい時代に、わたしをおいていかないで、)
彼は決してかなしんでいるのではない。戦の犠牲となったたくさんの人たちを悼んでいるわけではない。戦の終焉をようやく覚り、その事実を嘆いているのだ。戦が終わってしまった、その喜ぶべき事実を、彼は涙を流して嘆いているのだ。
***
05/08
一時は物を考えることすら出来なかった三成だが、今は平静を取り戻していた。だがそれは、その報を事実として受け入れたからではない。本人に問い詰めるまでは信じられぬ、と、己の中に閉じこもってしまったせいだ。平時であれば、それもいいだろう。しかし、戦の最中であれば、そうも言ってはいられない。続々と、先の報の証拠となるものが三成の耳にも入ってきている。それでも信じられぬのは、二人の間に確かに存在した絆を妄信しているからだろうか。
徳川家康率いる東軍と対立の姿勢を示した三成に飛び込んできた報とは、真田家が東軍へ馳走する、という信じられぬ報告であった。上田城は既に東軍の兵であふれ、幸村率いる真田の精兵たちは、本隊に加わり目と鼻の先に陣を構えているというではないか。
そんな中、三成に密書が届けられた。会談の申し込みである。相手は幸村であった。
会談の場所へと向かえば、既に幸村はたった一人、その場に腰掛けて三成の来訪を待っていた。三成が席につけば、幸村は姿勢の良い背筋を更にぴんと伸ばし、三成の目を射抜いた。
「わざわざご足労頂き、真にありがとうございます。」
三成が声を発するより早く、幸村は言って頭を垂れた。手を付いたまま、更にするすると言葉を続ける。戦場で慣らされた声は、不便な体勢であってもよく響いた。
「此度は、三成どのに今生の別れをいたしたく、このような場所においで頂きました。」
三成は慌てて片足を浮かせた。幸村がその間合いを見透かしていたのか、咎めるようにスッと視線を上げた。ひやりとした幸村の視線が、三成の冷静さを欠いた瞳と交わる。
「わたくしは、東軍、徳川どのの手として足として、戦働きすることとなりました。よって、三成どのとは敵同士。存分に戦い、存分に死にましょう。」
「本気で言っているのか。」
幸村は応えず、三成の目を見つめている。焦れた三成が、更に声を荒立てた。
「正気か!お前は、!」
「正気も正気。私は、あなたを裏切ります。」
「あなたと交わした言葉を、あなた方と交わした誓いを。あなたの中の真田幸村という男を、全て、裏切ります。」
***
05/08
勢いよく胸倉を掴まれた当の本人である幸村は、至極冷静であった。ああこの人も、私にこの程度の無体を働くぐらいの度胸があったのか、と思った程である。幸村は、己が彼に向ける眼差しと同等の美化を、彼もまた己に抱いていることを感じ取っていたからだ。彼の前だけは粗相をすまい。そう、誰に誓うでもなく己の中に抱き続けいただろうに、彼はその誓いを破ってしまった。破る程度の度胸が、彼にも備わっていたのだ。だが幸村は、ともすれば背信とも取れる行為をしてのけた彼に、何の感慨もなかった。ただ少しだけ、襟首を圧迫されて苦しい。彼よりも上背があるお陰か、彼が体重をかけている胸倉が、まるで縋りつかれているようにぴんと張られている。不快ではないが、どうにかしてほしいなあ程度のことを思った。
「あなたには、覚悟が足りません。」
幸村は、つい先程告げた言葉を繰り返した。きっと、彼はこの讒言に刺激されたのだろう。気の毒に、と思ったのは、自分程度の人間に翻弄される彼の純粋さを、である。
「あちらはあなたの命を奪いに来ますよ。あなたが憎くて憎くて仕方のない彼らは、喜んであなたの首を刈り取りましょう。あなたには、その彼らの命を奪い蹂躙するだけの覚悟がありません。」
石田三成という男は、ひどく理性的な人間であった。嫌悪と憎悪の差が歴然としている。嫌悪はしても、憎悪はしない。憎しみの果ての、醜い野生的な、本能的な虐殺をおそれているからだ。
「お前には、その覚悟があるとでも言うのか!」
「ありませんよ。」
呆けたように、三成の手の力が弱まる。幸村は彼の手に己の手を添え、力の行き場を促すように己の襟首から手をどかせた。幸村から離れた三成の腕は、だらりと垂れ下がったまま、離れた反動でゆらゆら揺れていた。
「覚悟などありません。ですから、彼らを殺さなくてすむ、こちら側についたのです。あなたの甘さを盾にしようとしたのです。」
幸村はそう静かに告げ、ゆったりとした、それでいて隙のない動作で踵を返した。一歩を踏み出しながら、僅かに乱れた着物を直している。
「では、私は左近どのと最後の詰めをして参ります。」
「幸村、」
「失礼します。」
「幸村、
それでもお前は、
槍を捨てられないのか。」
幸村は一瞬だけ足を止めたが、その言葉に対する正しい返答が見つからず、聞こえなかった振りをして、戦のにおいが濃厚な、天幕の中へ消えて行くのだった。
***
05/20