マフィアっぽいパラレルの断片。時間軸はバラバラ。
旧↑↓新
政宗と幸村
ブラックアウト 1 2 3 4 5 おまけ 三成と幸村
政宗と幸村
孫市と幸村
左近と幸村
くのいちと幸村
ちょっと隠れたいだけ 分かっている 是以上は無い
沈黙に、時折書類の束をめくる、紙同士が擦れる音だけが響く。幸村は深くソファに腰掛けながら、その音を断続的に生み出し続けている男の指先をぼんやりと眺めていた。片方の眸を眼帯で覆っている男は、幸村の視線に気付いはいるだろうが、特に思うことがないのだろう、こちらを気にした様子はなかった。紙が散乱したデスクの上に足を投げ出し、つまらなさそうに文面を追っている。短く息を吐き出し、微妙な均衡を保っている書類の山に、今まで手にしていた紙束を放り投げた。崩れるだろうなあと予想された山は、案外に地盤がしっかりしていたようで、不安定に左右に揺れはしたが崩壊はしなかった。
「誰かと組むつもりはないか?」
今まで音しか認識していなかった中、唐突に沈黙に響いた音を言葉として捉えることに、随分と時間がかかってしまった。幸村はデスクに鎮座している山から視線を外すことはなかった。傍目からは、彼の意識がどちらに向いているのか判断が難しい。
「武蔵とのコンビは我ながらうまくいったと思ったのだがな。」
「ええ、彼とわたしは、大変うまく互いを補い合っていました。少なくともわたしは、彼の腕を信頼していました。」
地震がおさまった山から、幸村はようやく視線をそらした。雇い主でもあり、数少ない幸村の理解者でもある男を、幸村はひやりと眺めた。政宗は書類を読んでいた体勢のまま、椅子のローラーを僅かにずらして幸村の方へ身体を向けた。
「けれど、やはりわたしには単独行動が性に合っているのだと思いました。あんなにもぴったりと合った人であっても、」
「武蔵も同じ様なことを言いおる。まったく、何がそんなに気に入らぬのじゃ。得物はこのご時勢に、古めかしいものを好む二人よ。力量もそう大差はない。人見知りの度合いは、ふむ、武蔵の方が上であろうかの。」
ふふ、と幸村は笑みをこぼした。何点か、訂正をさせて頂きますが?と幸村が政宗の眸を覗き込めば、勝手にせい、と政宗はそっぽを向いた。紙山の中に手を差し入れ、中腹の地面を抉り取る。今度こそ山は崩れ、デスクの上からばさばさと書類が落下した。
「確かにわたしと武蔵は刀を好みましたが、わたしはただ、銃が手に馴染まぬからです。刀の方が幾分も即物的なのですよ。それに武蔵は二刀にこだわっていましたから、わたしの無頓着な刀の扱いには相当ストレスを感じていたのではないでしょうか?一度、あまりに二刀流に執着する彼をからかってみましたら、ひどく激昂されましてね。殺されるかと思いました。」
政宗は幸村の言葉など聞こえていないような素振りで、書類をやはりつまらなさそうに眺めている。 幸村の言葉は、いつだって遠回しだ。だが、その回りくどい中にこそ、彼の本音が潜んでいるのだと政宗は知っている。彼の感情を読み取るならば、言葉で紛らわすよりも、彼のこぼした音の方が何倍も饒舌だ。
「あと、力量は間違いなく武蔵の方が上でしょう。抜刀の技術もスピードも、刀を扱うことに限らず、身体能力ではわたしは彼に遠く及ばない。」
「それでも、そなたらは対等であったはずだ。」
「ええ。わたしでも、彼よりも優れているところがあったからです。彼よりも卑怯であったからこそ、わたしは彼との差を埋めることができたのです。」
武蔵もまた、幸村とは違った理由で、変わった逃亡者であった。己の性分に忠実であったからこそ、二人はこの世界に身を置くことになったのだが、幸村からしてみれば、武蔵という男は、ひどく禁欲的な理由でこの世界へと足を踏み出してしまったように見えた。人を殺したくはないと当然のことのように言った彼。けれども剣を極めたいのだとつめたい眸を幸村に向けた彼。彼は幸村のように狡猾でもなければ、貪欲でもなかった。顔を合わせたその時に、二人は互いの身を焼く炎の温度の差に気付いていた。ああ、彼のようにはなれない。彼は己が真っ先に否定した、過去の自分なのだ、と。
「こと、己の身の置き場については、プライドが高かったんです。わたしも、彼も。だからこそ、譲れなかった。共に過ごす時間が長くなれば長くなる程、譲れないものが増えていきました。わたしは、それが耐えられなかった。プライドだけは高かったんです、己が譲歩する、なんて考えはさらさらありませんでしたね。」
いつの間にか政宗の前にまで移動していた幸村は、ひょいと政宗の手に握られていた書類を奪い取ると、崩れてしまった山の上に重ねた。幸村が移動した時についたのだろう、床に散乱した書類には、くっきりと靴跡がついていた。適度に散らかった部屋を好む政宗だが、はっきりと付いてしまった汚れには流石に不快を示した。眉に皺が寄っている。幸村はそんな政宗の様子など気にならないようで、それ以来、他人との折り合いを考えるのが億劫になってしまいまして、と笑みを作った。
「信頼関係ではなかったのか。」
「わたしの一方的な、ですよ。あなたとの関係と同じです。わたしが彼の剣の腕を一方的に信頼していたように、あなたの仕事の能力を一方的に信頼しているのです。」
政宗はそこでようやく深く溜め息をついた。言葉遊びをする相手には申し分ないが、捻くれた物言いをする彼とまっとうに向き合おうとすると、どうしても気疲れしてしまう。
「で、組んでみる気はないか?」
「あの、わたしの話聞いてました?」
「そろそろ、わしも働こうと思うての。」
「政宗さんが出張るんですか?それは正直、ご遠慮願いたいものです。」
冗談ではなく、本気でそう言っているらしい幸村に、少なからず意地になってしまう政宗。政宗もまた、自負の強い男なのだ。
「わしは有能じゃぞ。」
「知ってますよ。わたしのすることがなくなるんじゃないかって思いますから。」
「何が気に入らぬのだ。」
「だって、わたし、盾にされそうじゃないですか。」
常に腰にある銃の重さを思い出した政宗は、幸村の言葉を瞬時に否定できなかった。代わりに、よいわ、孫市を引っ張って来るとしよう。あやつに書類整理は向いておらん、と矛先を変えるのだった。
***
設定とか色々カオス。何か、傭兵的な?幸村さんが優等生じゃなくってすいません。みんな、何かしら疲れてる。
05/22
もう一度、部屋のナンバーを確認した三成は、呼び鈴を鳴らすべきかどうか逡巡し、人差し指を突き出した格好で動きを止めてしまった。指先が小刻みに震えているのは、何も緊張しているからではない。エレベータに慣れきったインテリ人間には、駆け上がってきた階段は少々酷であった。急な階段にはもちろん手摺が設置されていたが、潔癖症の気がある三成はそれに触れることが出来なかったのが、更に追い討ちをかけた。
(慣れぬことをしている。)
三成は呼吸を整えようと大きく息を吸い込みながら、そう心の中で呟いた。
こんなにも足腰に無理を強いたのは、高校以来だろうか。その頃から体育は休み気味だったように思う。そう言えば、中学の時のマラソンからこれまで、息が切れる程に走った記憶がない。
「あの、うちに何か御用ですか?」
余程目の前のことに集中していたのだろう。三成は背後の気配には全く気付かなかった。迂闊である。少なくとも、今の三成は己の盾になってくれる人間を連れていないのだから、己の身は己で守るしかないにも関わらず、である。
三成は唐突に声をかけられた動揺で、勢いよく後ろを振り返った。己の姿を省みる。上等のスーツは過度の運動のせいでよれているし、髪は乱れ放題。過度の疲労により、顔色は悪いだろうし、眉には皺が寄っているだろうし、目は血走っていることだろう。ああ全くもって、よいところがない。常日頃から目つきが悪い、愛想がない、と言われる三成だが、その時だって今よりはマシなはずだ。初対面の人間に、悪印象この上ない。
三成は勢いよく振り返ったものの、相手のあまりに緊張感のない姿に脱力をしてしまった。いかにも平和呆けしていそうなのんびりとした表情で、ラフなTシャツにジーパンという格好。手にぶら下がっているレジ袋からは、長ネギの頭が伸びている。三成が藁にも縋る思いでこの場に立っていることなど、目の前の男が知るわけもないのだから、彼の容姿に文句をつけるにはいかないのだが、それにしても、のん気な男だ。見知らぬ男が自宅前で唸っているにも関わらず、だ。図太いと言おうか危機管理がなっていないと言うべきか。
(我が国の平和呆け傾向にも困ったものだ。殺気立っているのは、政界のみと言ったところだろうな。)
値踏みをするようにじろじろと眺める三成の視線に、流石に居心地が悪くなったのだろう、善良な一般市民を体現したような男は、あの、と口ごもった。三成は視線をそのままに、追及の言葉を発した。
「お前はここの六号室の住人か?」
「あ、はい。」
「島左近という男を知らぬか?」
「知っていますけど、」
「知っているのか!」
思わず声が大きくなる。六号室の住人は、困ったように、ええ、まあ、と適当な相槌を打った。三成が問い詰めようと彼との距離を詰める。雰囲気がこじんまりと収まっているせいか、三成よりも上背があることに近寄らなければ気付かなかった。ぴんと伸ばされた背筋にスラリとした手足は、面識のあるどんなタレントよりも魅力だった。姿勢がきれいなのだ。
「左近に、ここの人間に頼れと言われてな。用意周到な男だが、今回ばかりはその余裕もなく、住所と部屋番号しか教えてもらえなかった。名前の確認のしようがないのだが、」
「きっとあなたが会いにきた人というのは、わたしの前に住んでいた人だと思うんですが、」
否定的な台詞に、三成はぽかんと目の前の男を見上げた。男は困ったように笑っている。三成の疲労はピークに達している。今だって、この場に座り込んでしまいたくて仕方がないのだ。それを、こうして会話に精を出しているというのに。ああ無駄足か、無駄足だろうか。勘弁してくれ、と声に出していなかっただろうか。そう考えることすら億劫である。
「島左近さんは有名人ですから、わたしでも知っていますよ。メディアでよく拝見します。特に、あなたと一緒のところを。あなたは石田三成さん、でしょう?」
***
05/24
三成がゆっくりと瞼を開けた瞬間に目に飛び込んできたものは、灰色の空でもなければ見慣れた自室の天井でもなかった。白を貴重とした三成の部屋では決してお目にかかれない木目の天井に、ひっそりと心の中で緊張感が走った。
(俺は何をしているのだ。確か、ああそうだ、俺は左近に教えられるままに、)
段々と覚醒した意識に、こうしてはいられないと勢いよく上半身を起こしてみたものの、瞬間頭に痛みが走った。徹夜明けのあの痛みと似ているが、痛みの強さは桁違いである。関節もぎしぎしと痛んだ。一瞬、筋肉痛だろうか、とも思ったが、身体のだるさがそれでは説明ができない。発熱をしているらしかった。
「お目覚めでしたか。すいません、勝手に家の中に運んじゃって。」
見知らぬ男が、お盆を支えながら部屋へと入ってきた。盆に乗せられているコップの氷が、カランと音を立てたのを耳ざとく聞きつけ、途端に喉の渇きを覚えた。同じように乗っているペットボトルには、いかにも冷えたてです!と言いたげに水滴が付着していた。
男はわざわざ三成の前でキャップを開け、とくとくとコップの中に注ぎ、どうぞ、とやけに丁寧な動作でそれを差し出した。三成は疑う余裕すらなく、そのコップを引っつかみ、一気に飲み干した。氷だけが残されたコップに、すかさず男の酌で水が満たされる。もう一口、と口に運ぼうとした三成だが、水分が行き渡った脳が唐突に活性化し、いやいやこんなことをしている場合ではない!と現実を思い出した。見知らぬ男のベッドで寛いでいられるほど、己の身に降りかかっている事態は軽くはない。
「お前は誰だ。」
剣呑という言葉すら生温いだろう三成の視線を受けても、男は困ったように、見方によってははにかんだようにも見える笑みを浮かべている。ひどく肝が据わっているのか、鈍いのか。判断がつかない。俺がこわくはないのだろうか、と疑問に思うものの、それを口に出すことはしなかった。
「名を名乗ればよろしいですか?政界のお偉い様が、一般市民の名など知ったところで、何の参考にもならないと思いますが。」
何を隠そう、三成はこの国を支える役人の一人である。それも、次期大臣を期待される程の著名人だ。今回は地方の視察へと出向いた際に、反石田勢力の暴動が起こり、その混乱のせいで三成は見知らぬ男を訪ねねばならなくなったのだ。正確に言えば、世を騒がせたと難癖をつけた、徳川一派の人間が、三成の政界追放を言い渡したせいだ。今頃左近や兼続が対応しているだろう。三成もできることなら、その輪の中に加わりたい。
三成も、男の言葉に、それはそうだ、と頷いた。熱で浮かされた頭でも、それなりの思考は出来るらしい。
「お前は、左近が言っていた人間ではないのだな?」
「大変申し訳ありませんが、そうなります。」
「そうか…。」
がっかりと肩を落とした三成は、大きく溜め息を吐き出した。無駄足だ、困ったことに、ああ本当に困ったことに無駄足だった。俺はこれからどうしたらいいんだ、早く左近たちと合流せねばならぬと言うのに。
考えれば考えるほど、ここに長居をしてはならぬ、という思いが強まる。三成が単独で行動していることを知っている反三成派の者たちが、こぞって暗躍することだろう。危険極まりない。だがそれは同時に、隠れ蓑を持たぬ三成にも言えることだ。単身で街中を歩いてみろ、どのような目に遭うか分かったものではない。
「邪魔をしたな。」
「出て行かれるのですか?」
「お前に世話になる謂れはない。他人を巻き込むつもりもない。」
「せめて、熱が下がるまで養生されてはどうでしょうか?」
「一般市民に迷惑をかけるわけには、
いかん、とは続けなかった。唐突に訪れた頭痛のせいで、頭を抱えてやり過ごさなければならなかったからだ。今もズキズキと痛むが、それでも何とか顔を上げれば、それみたことか、とでも言いたげな男の顔が目に入った。
「今はとりあえず寝て下さい。一眠りしてからでも良いではありませんか?」
男はベッドサイドにペットボトルを置き、起き上がる時に無意識に跳ね除けてしまった布団をかけ直してくれた。男のくせに、妙に甲斐甲斐しい奴である。
「分かった分かった。とりあえず、一時間したら起こしてくれ。」
はい承知しました、と男はさっさと踵を返した。三成の睡眠の邪魔になると思ったのだろう。三成は呼び止めようとしたのだが、彼の名前を知らぬことに気付いた。はぐらかされたまま、彼の名乗りを訊くタイミングを逸してしまったのだ。
「、待て。」
ドアノブが回る金属音がしたが、男は手をかけたままの体勢で振り返った。人の良さそうな笑みは、きっと三成の眉間に居座ったままの皺と同じようなものなのだろうな、と三成は思った。顔の筋肉に染み付いてしまっているに違いない。
「お前の名を聞いていない。」
男は唐突な言葉に、驚いたように目を見開いていたが、三成の言葉の意味を素早く理解したのか、今度はその黒々とした目をすっと細めて、三成を見つめた。まるで、愛しい過去を思い返すような、そんな仕種のように三成の目には映った。穏やかな表情だが、どこか儚げでもあり、三成はがらにもなく悲しくなってしまった。この男には、平和呆けした笑みが似合うな、と心の中で呟く。
「武藤源二郎です。源二郎とお呼び下さい。」
では、お休みなさい。源二郎はそう言い、極力音を立てぬように、静かに扉を閉めたのだった。
***
色々設定があるので、こういう名乗りになってます。時代がわっかんねぇのは、私も同じです(おま、) うちの三成さんは、色々と迂闊過ぎです。無防備過ぎる。少しは幸村を見習うべきだと思いました。
05/24
二度目の覚醒の時には、随分と気が楽になっていた。頭痛は控えめな自己主張に留まっていたし、身体も軽い。睡眠は何よりも重要だ、などとのん気に考えながら、見慣れぬ天井をぼんやりと眺めていた。しかし、部屋をぐるりと見回し、壁にかけられた飾り気のない時計の針の示す時間に、三成は病人ということも忘れて跳ね起きた。やはり、まだ頭痛はしつこく残っていたが、それどころではない。この部屋に寝かされた正確な時間は分からなかったが、少なくとも、家主に告げた一時間は当に過ぎてしまっている。急いでベッドから這い出し、部屋をぐるりと取り囲む本棚の前を通り過ぎ、乱暴にドアを開けた。怒鳴り込もうと大きく息を吸い込んだ三成だったが、その先の光景に勢いが削がれてしまった。源二郎と名乗った男 (こうしてまじまじと眺めると、三成よりもいくらか年下に見えた)は、真っ白なTシャツにジーパンという、先程と大して様変わりしない格好のまま、濡れた髪から水滴をぽたぽたと滴らせていた。手には口につけようとしていたコップが握られており、のんびりとした声で、ああ石田さん、おはようございます、とのたまった。
「熱が下がったのでしたら、シャワーでもどうですか?わたしのでよければ、着替えも用意しますし。」
源二郎は三成の顔に浮かんでいた怒りに全く気付いていないようで、ああそれとも、先に水分補給ですか?とまだ口をつけていないコップを差し出した。三成は言葉を忘れて、とりあえずそのコップを乱暴に引っつかみ、一気に飲み干した。汗をかいたせいだろう、喉が渇いていたのだ。
「一時間で起こしてくれ、と言ったはずだ。」
落ち着け!と頭の中で何度も反芻しながら、三成は、彼にしては寛大な口調でそう問い詰めた。それでも、相当の威圧感なはずだ。しかし源二郎は、そうでしたか?これは失礼、ととぼけて見せた。貴様…!と思わず三成が掴みかかろうとした腕をひょいと避け(これは偶然だったのか、それとも故意であったのか、三成は判断つかなかった)、代わりに源二郎の手が三成の額に乗せられた。汗をかいてべたついている肌に触れられ、ひどく不快を感じるところであったが、それよりもまず、源二郎の冷たい指に意識を盗まれてしまった。おそらくは風呂上りであろう男の指は、熱でほてった三成の額には気持ちの良い程に冷えていた。末端冷え性なのだろうか、と三成が思わず心配してしまった程だ。
「まだ微熱がありますけど、これぐらいでした大丈夫でしょう。汗を流してきたらいかがですか?ああ、お風呂はそこのドアを出て突き当たりです。」
源二郎は三成の反対も聞かずに、さっさと三成が今まで眠っていた部屋へと消えていった。本棚に埋もれて確認できなかったが、そこには源二郎のタンスもあったのだ。おそらく三成の着替えを取りに行ったのだろう。過保護な奴だ、見ず知らずの人間に。三成はどうしようかと戸惑ったものの、やはり肌のねとりとした不快には逆らえず、ふらふらと風呂場へと足を向けたのだった。
三成がシャワーを終えリビングに戻ると、既に夕食の準備が整えられていた。ご飯に味噌汁、煮物に鮭の焼き魚、と至ってシンプルな日本食である。対して三成には、お粥が作られているようであった。漬物には梅干や野沢菜などが、三成が味に退屈せぬように既に準備されている。源二郎は椅子に腰掛ながら、三成を待っていたようだ。どうぞ、と本日三杯目の水を差し出され、最早条件反射のようにそれを飲み干した。
三成が不承不承の様子で粥を胃の中にかき込むのを、源二郎はのろのろと食事を進めながら眺めていた。
「源二郎。」
「はい?」
三成が半分ほどなくなった碗を置けば、源二郎も箸を止めた。
「何故お前は、俺にここまでしてくれるのだ。俺とお前は、全くの他人だぞ。」
源二郎は困ったように笑って、性分なんですよ、と食事を再開させた。
「わたし、お節介焼きなんです。」
それにしたって、この状態はいささか異常だ。他人との交流を激しく嫌う三成は、たとえ病人であっても見知らぬ人間を家に上げたりはできないし、その赤の他人の為に着替えを用意したり食事を準備したりなど、到底真似できることではない。
「それに、暇を持て余していたのは確かですから。」
言われて、今はまだ水曜日であることに気付いた。土曜でもなければ日曜でもないのだ。健全な一般市民は、大抵仕事に精を出しているはずだ。いや、確かに土日出勤の平日休暇という職も確かにあるだろうが。無職か、フリーターか、と三成も邪推したが、それにしては生活が良すぎやしないか。一人暮らしにしては、夕飯が豪華だ。
「お前、仕事はいいのか。」
「長期休暇中なんですよ。ここ二、三年、ずっと働き詰めでして。ようやくもらった休日なんですが、どうも働くことが身に染み付いてしまったようで、何をすればよいものかと思っていたところです。」
「それで、俺という暇潰しを見つけたのか。」
「そう捉えることも出来るでしょうね。」
三成が発した言葉であったのなら、それは大層不快で不愉快で、何て人を小馬鹿にした奴だ!と憤慨するところだろうが、源二郎の声はどこまでも穏やかであった。彼の纏う空気が、言葉の棘を緩和している。
のんびりとした食事を終え、三成は再びベッドへと戻った。幾分か余裕が生まれた三成は、部屋の様子を眺めた。居心地が良いと思ったのは、三成の自室と同じように本のにおいが部屋に充満していたせいだろうか。本棚には、日本語ばかりではなく、英語やフランス語、ドイツ語以外にも、ありとあらゆる言語の、おそらくは専門書だろうと思われるものが並んでいた。その中でも、特に医学書が多い。医者か看護士か。働き者で世話焼きと言うのだから、なる程その職にぴったりだ、などと勝手に結論を付けた。
この頃になると既に三成も諦めており、休日を過ごしていると思うことで、無理矢理己を納得させたのだった。
***
05/24
ふと、夜中に目が覚めた。どうせならば用を足して来ようとむくりと起き上がれば、ベッドサイドに置いてある水が目に入った。電気は豆電球が灯っており、物の輪郭がおぼろげに見えた。ペットボトルに入った水は、既に部屋の温度でぬるくなってしまっていて、どうせならば冷えたものが良い、とぼんやりとした頭でそう思った。地に足をつけ、ああそう言えばここは俺の知る家ではないのだった、と思い出す。ドアの位置が中々記憶と繋がらず、無駄に部屋の中をぐるぐるしてしまった。出っ張った本棚が、ドアの死角になっていたのだ。部屋を出ても、廊下には薄っすらと明かりが灯っていた。三成の為なのか、元々家主が明るい場所を好むのかは分からなかったが、三成にとっては好都合である。おぼろな記憶を手繰り寄せ、まずはトイレへと足を向ける。
トイレからの帰り道、三成はソファに源二郎が眠っているのに気が付いた。先も通ったが、気付かなかったのだろう。気配が希薄というよりは、お上品にソファに収まっているせいで風景と同化してしまっていたようだ。寝息は聞こえない。小さいソファではないが、上背のある彼にはいささか長さが足りない。頭を肘掛の部分に乗せ、足は飛び出していた。それでもお上品、と思ったのは、いかにもすやすやと眠っていたからではないだろうか。顔からは一切の表情がなくなっていた。三成は好奇心に負け、ふらりと彼の傍へと寄った。顔を覗き込んでも、彼は目を覚まさなかった。
(整った顔をしているな。)
三成は彼の寝顔にそう思った。美意識の強い三成である。人にそういった感想を抱くことは稀である。薄い唇にスッと通った鼻筋、きりりと引き締められた眉と、穏やかに笑う、今は伏せられた目。案外に睫毛が長い。薄明りの下の彼の頬は、まるで白磁のようである。彼の頬も、先程の彼の指のように冷たいのだろうか。何となく、そんなことを考える。躊躇いがちに、のろのろと三成の指が伸びる。指先が震えているのは、体調が悪いせいではない。ああ、なにをおれは緊張しているのだろう、と頭の隅で考えながらも、彼との距離は段々と縮まり、そして―――――、
パチ、と睫毛が瞼を叩いたのではないか。それほどまでにはっきりと、彼は唐突に目を開けた。覗き込んでいた三成と、寝起きでありながら寝ぼけた様子のない源二郎の目が、至近距離でかち合う。気まずそうに三成は顔を引っ込めたが、腕の位置は置き去りにされていた。源二郎が不審そうに彼の指先を見つめて、三成は己がしようとしていたことが、他人の目にどう映ったのかを、ようやく理解した。眠っている、しかも男に、俺はなにをしようとしていたのだ。
源二郎は例のはにかみを浮かべながら、別段機嫌を損ねた様子もなく、ゆったりとした動作で身体を起こした。時計は何時を指しているだろうか。寝室にある時計と同じ型のものがリビングにも設置されていたが、闇に呑まれていて三成からは見えなかった。
「…眠れませんか?ああ、それとも喉が渇いたんですか?」
源二郎は先の三成の行動には触れなかった。彼の気遣いか、それとも大したことではない、と思ったのだろうか。何もなかったからいいだろう、程度の気軽いものかもしれない。自己防衛力の低い男だ。
「少し、喉が渇いてな。それよりも、起こしてしまったか。悪いことをしたな。」
「元々眠りが浅い方ですので、あまり気になさらず。わたしも喉が渇きました。今、入れてきますね。」
源二郎は寝起きとは思えぬはきはきとした動作で、三成の前を通り過ぎて行った。が、すぐに両手にコップを持って戻ってきた。どうぞ、と言った源二郎の笑みに、じんわりと胸が熱くなった。彼と共有する空気は、いつだって穏やかであたたかい。
先ほどまで源二郎が眠っていたソファは、じんわりと彼の体温が染み付いていた。照れ臭いような、恥ずかしいような気分でその温度を受け止めていた三成だが、ようやく、己が彼のベッドを占拠しているせいで、こんな寝苦しいだろうソファで眠らなければいけないのだと気付いた。この男は、愚痴の一つ、いや、ぼやきの一言もない。疲れやしないだろうか、と三成は源二郎の横顔を盗み見ながら思った。
「三成さん。」
唐突に声をかけられ、三成は面白い程に動揺した。耳に優しいその音が、己を呼ぶためだけに発せられたのだという考えが脳裏を過ぎり、胸が高鳴った。こんな感情は知らない。赤の他人に名を呼ばれ、それが嬉しいと思うなど、そんなそんな、
「そう呼んでも構いませんか?」
三成が頷けば、源二郎がふわりと笑った気配がした。三成は何故だか直視できなくて、空っぽのコップに視線を落とした。が、その視界の中に突然源二郎の腕が伸びてきて、ひょいとコップを奪ってしまった。ああ俺は一体なにを見つめて誤魔化せば良いのか!三成は咄嗟にコップの行方を目で追いかけ、その末に源二郎の穏やかな目とぶつかった。
「おかわり、いりますか?」
源二郎の問いに、三成は瞬間、何を問われたのか分からずに、呆けた顔で源二郎を見つめていたが、じわじわと、ああきっと彼は己に水のおかわりがいるのか訊いているのだな、と理解をして、慌てて立ち上がった。
「いらん!俺は寝るぞ!」
「はい。ではお休みなさい。」
流しに向かう為に踵を返した源二郎の背を見つめていた三成だったが、ええい己は何をしているのだ!と心の中で叱責し、夜中であるにも関わらず、どすどすという足音を響かせながら、ベッドを目指して歩き始めた。明日の朝、必ず源二郎に礼を言う、言うぞ、と決意を固めたが、果たしてそれは成功するかどうか。三成は己の素直になれない性格を、ちゃんと分かっていたからだ。
***
05/24
あれから、数日が経過した。三成の体調も回復し、左近ともこちらから一方的にだが、連絡は済ませている。携帯電話の便利さを今更ながら痛感した三成だったが、仕方がない。生憎源二郎の部屋には電話も引いていないので、このご時勢に手紙を書く羽目になってしまった。○月◎日、××時に落ち合おう、直後に会見を開くぞ、と、メモ書き程度の文面だったが、左近ならば理解してくれるだろう。外出するわけにもいかない三成は、その手紙を源二郎に渡した。源二郎は、ここ数日の間にも何度か外出している。主に食事の買い物だ。本当に休暇中らしく、家に居ても手持ち無沙汰に掃除や読書をしていることが多い。
「源二郎。」
「はい、」
何でしょう、と源二郎は本から顔を上げた。三成は、まだ一度もこの穏やかな顔が崩れたところを見たことがない。三成のどんな我儘も、仕方がありませんね、とでも言いたげな表情で受け入れてしまう。三成の周りには居なかった人種だ。
「明日、ここを出る。」
「はい。そう聞いています。」
「今まで世話になった。事が落ち着いたら、ちゃんとした礼を持ってもう一度訪ねたいと思っている。」
源二郎は、からからと笑った。
「そんなこと、気にならさずともいいですよ。わたしはお節介焼きですから、随分とあなたに不愉快な思いをさせたことでしょう。三成さんの矜持が高いのは、メディアで報じるままでしたから。」
数日を共にしただけの二人だが、三成は、今さらこうして、互いは真っ赤な他人である、と彼が突きつける事実の空しさに、少しだけかなしくなった。俺はもう、お前を他人などとは思っていないぞ。俺の周りの人間ですら、こうまで親身にしてくれた人はそうそう居ない。出来ることならば、己の近くに置きたい。秘書とまではいかずとも、己を支えてくれる仕事の一つでも与えてやりたい。給料だって、今の職の二倍出すぞ。三成は源二郎の職を知らないが、質素な生活を好む彼が、多大な給料を頂戴しているとは考えられなかった。生活に必要な分しか働いていないような印象があるのだ。
「源二郎、実は、」
「あ、そろそろ夕飯の支度をしなければいけませんね。三成さんとの最後の夕食ですから、少し奮発しましょう。」
そう言い、三成の言葉からするりと逃げて行ってしまった。三成は追うことも出来ず、彼の背を見つめるのだった。
夕飯は、彼が言った通り、いつもよりも豪勢だった。源二郎は常と同じ笑みを始終浮かべて、三成が食事をするのを眺めていた。誰かとの食事が純粋に嬉しいのだと聞いた。少ない会話の中、彼の情報を何個か入手していた。家族は父・母・姉に兄に、二人の弟。趣味は読書と、旅行だそうだ。あまりテレビは好きではなく、ニュースぐらいしか見ない、とのこと。そのほかにも、他愛ない、本当に取るに足らない、けれども三成の心を嬉しくさせる情報を、彼は言葉少なに語ってくれた。
「ご馳走様。」
思考に沈んでいた三成の耳に、源二郎の優しい声が飛び込んできた。彼に倣って、慌てて三成も手を合わせ、復唱した。途端に、これが彼との最後の晩餐なのだ、という思いが、じわじわと心の中に重りを作った。さみしいかなしい、彼と離れなければならないなんて。三成は、空気のように隣りに寄り添う源二郎の存在が、今ではいとしく感じるようになっていた。決して三成に干渉せず、けれども必要な時に困らないように、ただただ静かに、時には空気と同化して、そこに在った。己には、確かに左近や兼続たちの力も必要だろう。求心力が必要だろう。だが、彼のように、静かに佇むだけの安らぎもまた、必要だろうと三成は思う。彼を連れ去ってしまいたい。出来ることなら、自分の隣りで支えて欲しいものだ。
己の欲深さに、流石の三成も嫌気がさした。とても源二郎を直視できず目を伏せると、じわりと目頭が熱くなった。泣くなど、そんな不様を晒すわけにはいかない。三成は唇を噛み締めて、胸に広がる切なさを耐えなければならなかった。
夜は中々眠れず、ようやく一睡したものの、直ぐに目を覚ましてしまった。どうすることも出来ずに、誤魔化すようにベッドから抜け出し、リビングへと向かった。源二郎は起きていないだろう。あの男は規則正しい生活が身体に染み付いているらしかった。健全な身体には、健全な心が宿るものだ。ふと、そんなフレーズが頭を過ぎった。
案の定、薄明りの下の源二郎は、規則正しい格好で眠っていた。疲れるだろう、代わるぞ、とベッドを譲ろうとしたのだが、源二郎は、いいですよ、あなたは客人なのですから、とやんわりと、けれどもはっきりと三成の提案を却下した。椅子でも寝れる便利な身体ですから、と少しでも三成が申し訳ないと感じている気持ちを軽減しようとしていた。いじらしいと思ったのも束の間、それは成人男性に使う言葉ではない、と己に突っ込みをいれなければならなかった。
相変わらず源二郎の寝息は聞こえない。彼は静かに眠っていた。
「源二郎。」
そう二度、三度呼びかけても、源二郎は目を開けなかった。熟睡しているのだろうか。ふと、またしても、衝動が三成の中を駆け抜けた。この白磁の頬は、冷たいのか。結局確認が出来ていない。いいや、そんなことは、今となっては言い訳だ。三成は、源二郎に触れたいのだ。源二郎の熱を感じたいのだ。出来ることならば、源二郎にこの欲求を認めてもらいたくて、受け入れてもらいたくて、同等の欲求を己にも求めて欲しくて。ああ、ああ、人の欲は浅ましくていけない。
以前と同様、躊躇いがちに伸ばされた指は、けれども以前と同じ道は辿らなかった。源二郎は、三成がその頬に触れても目を覚まさなかったからだ。三成はその事実だけで酔ってしまいそうだった。彼の温度が高いのか低いのか、あの時の指先と同じように冷たいのか、それすら分からなかった。弾力ある頬をすべり、顎をなぞり、すす‥と指を持ち上げて、その唇に触れた。薄い唇は、僅かに開いていた。安定した吐息が、三成の指先を撫でて行く。
(口付けたい。)
そう心の中ではっきりと呟いてしまってから、三成はその言葉に動揺した。思わず源二郎から飛び退ってしまう程に。追い討ちをかけたのか、その直後にかけられた声だ。
「…三成さん?」
三成の肩が大袈裟にはねた。源二郎はそんな三成の様子に若干不審そうにしながらも、いつものにこやかな笑みで、どうかしましたか?と顔を覗き込んできた。一度前科があるだけに、三成も自己弁護をしなければならない。
「いや、別に何もない。足音を立ててしまったか?お前が突然起きたものだから、」
「驚かせてしまったようですいません。どうも、一人暮らしが長いものですから。」
明日に響きますよ、と源二郎が言えば、三成もそれ以上は弁明をしなかった。源二郎が三成の行動に何も触れなかったせいだろう。ああ、悪いことをしたな、と三成はみじめな思いを抱えて、部屋へと戻ったのだった。
次の朝、やはり源二郎は夜のことに気付いていないようで、いつもと変わらぬ様子で三成に声をかけた。ここを訪れた時に着ていたよれたスーツは、源二郎がクリーニングに出していたようで、新品同然の姿で再び見えることができた。
朝食を済ませ、さてお別れだ、と三成がひっそり意気消沈していると、家の鍵を片手に、さあ行きましょう、と三成を急かした。どうやら、左近との待ち合わせ場所まで送ってくれるらしい。三成は断ろうとも思ったが、彼との別れを少しだけ先送りにしたくて、彼の好意に甘えた。
自家用車を持たない源二郎である。タクシーを使うことにした。要人である三成は、簡単な変装に、と帽子を被っている。目深に被っているおかげで、その顔は覗き込まない限り見えることはない。
タクシーから降りる。目的地は、もう目と鼻の先だ。待ち合わせ場所には人だかりが出来ていた。その大半が報道関係者だが、中には野次馬も混じっている。折角の石田三成復帰の大舞台、これも好感度アップに利用してやろう、という左近の魂胆であるらしかった。
源二郎は、あまりの人の多さに気後れしたようで、ではわたしはこの辺りで、と既に腰が引けていた。人ごみが嫌いらしい。その気持ちが分からないでもない三成だが、さっさと源二郎に帰られても困ってしまう。まだ伝えたいことを伝えていない。三成は咄嗟に、今にも逃げ出しそうな源二郎の腕を掴んだ。
「源二郎、俺の傍で働く気はないか。」
唐突な言葉に、源二郎も目を見開いていた。源二郎は、自身がどれだけ三成に気に入られているのか、気付いていない様子であった。
「ありがたいお誘いですが、わたしは今の職が気に入っておりますから。」
「給料なら、」
そう言いかけて、三成は口を噤んだ。この男が、金だの地位だの名誉だの。そういった小さいことを気にするとは思えなかったからだ。
「俺はお前が、人の目にも付かぬところで埋もれていることが惜しい。お前はもっと世に出るべきだ。」
「そう言えば、三成さんのマニフェストにも含まれていましたね。職業の自由、でしたっけ。身分や生まれに関係なく、その人のなりたい職業になれる。政治家の息子が政治家になる必要はなく、また、中流階級、その下の労働者であっても政治家になれる。」
源二郎は三成の言葉には答えず、つらつらと言葉を重ねた。
「大変に魅力的な政策だと思います。わたしは、それが現実になるよう、三成さんを応援していますよ。」
にこりと微笑まれたが、実際、三成の想いを切って捨てたのだ。三成はどうにか源二郎を繋ぎとめておきたくて、背広の内ポケットを探った。皺々の紙切れと、ボールペンが三成の指先を掠めた。三成は大急ぎでその紙に数字を書き殴り、乱暴に源二郎へと渡した。俺のケータイだ、気が変わったらかけて来い!源二郎がその場の勢いに流されて受け取るのを確認した三成は、お前には世話になった、ありがとう、と語尾を弱めながら踵を返し、帽子を取って歩き出した。三成はそうして、本来己が身を置くべき場所へと戻って行ったのだった。
***
05/25
源二郎はしばらく三成の後ろ姿を見守っていたが、今ではほとんど見なくなった黒電話のコール音が鳴り、慌てて服のポケットを探った。黒電話のコール音は、源二郎の携帯電話の音なのだ。電話の相手を素早く確認して、通話ボタンを押した。
「もしもし。」
『無事終わったようじゃの。』
「ええ、滞りなく。」
『ご苦労。』
「いえ、こちらこそ、ご助力感謝します。」
ぺこり、と電話相手に礼をしてから、ああ相手は目の前に居ないのに、とつい苦笑した。
「それはそうと、もう少し手伝って頂きたいのですが、」
『今度はどんな厄介ごとを持ち込んだのじゃ。』
「違いますよ。ちょっと引っ越しを手伝って欲しいんで、人を貸して下さい。」
『夜逃げか。』
「似たようなものです。あの世界に引っ張られるのは勘弁して欲しいですから。」
『孫市と成実で良いか?』
「ええ、十分です。できれば、小十郎さんか綱元さんがよかったんですけどね。」
『その二人は出ておるわ。たるんどるあの二人を精々こき使ってやれ。』
「ではそうさせて頂きます。新居が見つかるまで、そちらにお邪魔しますけど良いですよね?」
『いっそのこと、こちらに住めば良い。わしもそなたも楽になるぞ。』
「まだ伊達ファミリーに加わる気はないんですが…。考えておきます。」
『ふん、連れぬ奴よ。あ、おい、孫市。今すぐ成実と幸村のアパートへ向かえ。車は、軽トラが良いか?ワゴンで事足りるか?』
「あなたが押し付けた分厚い本がたんまりありますから、出来れば軽トラがいいですね。」
『孫市、軽トラも持っていけ。酒類は持ち込むなよ、余計な時間がかかるからな!』
背後でぎゃあぎゃあと喚き声が聞こえたが、台詞までは聞き取れなかった。おそらくは、主の一方的な通告に、二人して文句を言っているのだろう。
「そう言えば、」
『ん?』
背後の声が大きすぎるせいか、こちらの声が聞き取りにくいようだ。
「石田三成さんって、ノンケでしたよね?」
幸いにも、電話の相手には聞こえていなかったようで、今、何か言ったか?との答えが返ってきた。律儀に、いいえ、何でもありませんよ、と返事をし、それではお二人によろしくお伝え下さい、失礼します、と電話を切ったのだった。
***
一応一段落。伊達ファミリー(笑)のメンバー表。
ボス(仮称):伊達さん
部下:小十郎(景綱)、綱元、成実、孫市、武蔵、でもって幸村。
もっといる(はず)けど、今のところこれだけで回っていけるので。そのうち、雑魚キャラ(もしくはヘタレ)として支倉さんが出るかもしれない。伊達さんの弟の小次郎も出したい。愛姫は困って出せないと思うけど、猫御前は出すかも。二代目小十郎さんも、そのうちね。
ちなみに自由人慶次さんは、兼続にくっ付いてます。
05/25
拒むのを許せよ / 掴むのを赦せよ
真田幸村という男の職業を一言で説明することは、至極困難である。とある界隈では、どんな有名人よりも知名度が高い。が、そのほとんどが、彼の顔を知らない。名前だけが一人歩きをしている状態なのだ。凄腕の傭兵、成功率100%の暗殺家、掃除家と表現する人間も居た。真田幸村とは、まさにそういった人種である。単独で行動することを好み、破格の報酬と引き換えに、どんな依頼もこなすという。既に風化しかかっている話だが、一度、彼を討伐する為に立ち上がった組があったが、呆気なく返り討ち、その組は全滅し解体した、というのだが、その真偽を知る者はいない。
よって、容姿に関しての情報は皆無と言っても過言ではない。どのような顔をしているのか。身長は体形は?そんな些細なことすら出回っていない。ただ噂が噂を呼び、日本刀を自在に操る、黒髪の殺人鬼という、本人にとっては至極迷惑な二つ名がついてしまっていた。
さて、その真田幸村だが、たった今、彼の人生上初めての危機を迎えていた。おろし立てのスーツは泥に塗れ、降り出した雨をたっぷりと吸い込み、ずしりと重い。小さな傷に雨が触れる度にずきずきと痛んだが、特に重傷なのはふくらはぎの銃創だ。掠った程度だが、利き足を傷付けられ足としての機能を果たしていない。うつぶせに地面に伏され、その上に圧し掛かる人間が一人。両脇からは、そんな幸村が逃げないようにと、小型の銃が突きつけられている。少しでも抵抗したら、脳天をぶち抜く算段だろう。厄介なことになった、と幸村は心の中で舌打ちをし、唇を噛み締めた。銃で殴らせたせいで、口の端が切れていた。ああこんな不様な怪我をしたのは久しぶりだ、などと頭ののん気な部分でぼんやりとそんなことを思う。後ろ手は締め上げられており、みしみしと骨が音を立てているような錯覚を感じた。乗りかかっている人間の体重をもろに背骨が受け止めていて、この人、もう少し減量すべきだ、とやはり場に相応しくない能天気なことを思った。幸村は己の抵抗の無意味さを分かっているのだ。
「三人がかりでやっと、って感じだな。ホント、あの動き人間かよ。あの伊達家の三人相手に互角とはなあ。」
「三人でも不足であったわ。だが、これで間違いなくあの男は、真田幸村、ということだろうな。」
幸村を拘束している三人の上司に当たる人間だろう。幸村の姿を見下ろしている。さぞその眺めは良いことだろうな、と幸村は皮肉げにその顔を見上げた。一人はライフル銃を背負った八咫烏、一人は、
「良い格好よな、真田幸村。だが、わしは再三忠告をしたぞ。わしに従うならば、こちらから手出しは一切せぬ、とな。」
「先程の援護射撃はあなたですか。まったく余計なことを。一人に対して、三人も四人も相手をさせて、」
「それほどまでに、わしはそなたを買いかぶっておる。それに、あそこで撃たねば、わしの大事な部下どもが、腕を失い首を飛ばしておったからの。」
「意地の悪い人。」
龍、だ。その眼帯の下に、龍を飼っているに違いない。幸村は確信もなく、そう信じた。不遜な、己を見下すその眼差しすら、彼には相応しかった。
***
端折って端折って端折りまくったら、こんなにも短くなりました。お遊びが過ぎますね。自重しませんが(…)
幸村さんはつい跪かせたくなるので不思議です(…)
時間軸で言うと、一番初めになります。
幸村の描写が未だに手探り中です。
05/25
かまうなよ人間関係
政宗に呼び出され、たった今次の指令を聞き終えた幸村は、とりあえず溜め息を吐き出すことで今後の憂いを何とか解消しようとした。隣りに立っていた孫市は、それを耳ざとく聞きつけ、うっわ〜幸ちゃん、それは流石に俺でも傷付くわ、と泣く真似をした。これだ、これが幸村は苦手なのだ。軟派な彼の行動言動は、今まで幸村の周りになかっただけに、対処に困っていた。幸村がどうしたものか、ともう一度溜め息を吐けば、今度は、同様に呼び出されていた成実に泣き付いた。
「俺だって、できることなら成ちゃんとおデートしたかったのに…!」
「孫市、それは言ってくれるな。おれだって、こんな怪我していなければ…!」
元気に飛び跳ねているせいで分かりにくいが、成実は先日一悶着の際に負傷している。肋骨の骨折はくっ付くまでに時間がかかるのだ。彼の負傷は、やんちゃが過ぎた彼のせいでもあるけれど。
「俺は仕方なく、仕方なくだぞ、あの冷血漢の塊と一緒に留守にするけど、その間浮気なんてするなよ。」
「孫市こそ、幸さんに手出しして強制送還、なんてならないでね。」
慣れていることもあり、既に目の前の光景に興味を失った政宗は、書類に目を通している。ふむ、情報収集が少しばかり足りぬな、という呟きは、幸村に対して何の慰めにもならなかった。
「それで、わたしはいつまで、この恋愛ごっこを見守っていればよろしいんですか?」
絶対零度の笑み、とはまさにこのことを言うのだろうなあ、と思ったのは、成実同様に呼び出されていた小十郎だ。過保護、と言われがちな小十郎だが、政宗の様子からも分かるように、中々放任主義であるようだ。自分に火の粉が降りかからない限り、勝手にすればいい、責任は自己で管理しろ、という教育方針と言ったところだろうか。
場の喧騒が静まったのを見計らった小十郎が、皆さん、そろそろお仕事に戻ってください、と声をかけた。はーいと間延びした返事をした成実が真っ先に駆け出す。あーあ恋人は素っ気無くってさびしいわ、と今度は幸村との距離を縮めたが、それを見越した幸村が、すすっと数歩下がった。これでプラマイゼロだ。
ああまったくもって悪夢としか言いようがない。幸村は作戦が始まる一週間前から、孫市との共同生活を強いられる羽目になってしまった。コンビを組む以上、お互いの呼吸を知る為、と銘を打ってはいるが、大方政宗が幸村の嫌がる顔を楽しんでいるに違いないのだ。厄介なところに属してしまったものだ、と今更ながら後悔が襲ってくる幸村であった。
「幸ちゃん、ちょっと待ってってば、ねえ幸ちゃん、幸ちゃんってばぁ、ゆーきー
「私の名はそのように可愛らしいものではありません。人の名前は正確に呼んで頂けませんか?」
耳障りなその声に、幸村は足を止め振り返った。孫市はいやぁつれないこと言うね、と肩を竦めつつ、幸村の早歩きのせいで離れてしまった距離を急いで縮めた。そのコンパスは偽りですか?と視線で問えば、幸ちゃんには負けるって、と適当な答えが返ってくる。ああもう、この手の人間は本当に苦手なのだ。
「成ちゃんは幸さんって呼んでたのに、それはいいわけ?」
「あなたに成実さんの可愛げが半分でもありますか?ないでしょう?区別です区別。」
そう言って、またすたすたと歩き出そうとする幸村を、孫市が腕を掴んで引き止めた。咄嗟の接触に、幸村は思わず振り払ってしまった。他人との触れ合いに過剰反応してしまうのだ。軽口とは合わない、殺気すら滲ませた反応に孫市も驚いたようで、あ、ごめん、と素直に謝罪をした。ああ違う、確かにあなたの軽い空気は不快ですけど、これはわたしの嫌な癖が出てしまったわけで、と心の中で弁護。言葉にしてしまったら、彼が調子に乗ることなど目に見えている。
「あー、ここは俺が譲歩するから。でもなあ幸村、もうちょい懐いてくれてもいいだろ?」
「懐く?誰が、誰に?」
あんたが、俺に。と交互に指を差したが、幸村の冷ややかな視線を受けて、冗談デス、と指を下ろした。もう何度目かになるか、最早カウントにも飽きた溜め息を幸村は吐き出し、無駄口を叩いているより、足を動かしたらどうです、と幸村は再び踵を返した。孫市に背をさらしたのがまずかった。彼の配慮の足りない悪戯心がむくむくと姿を現してしまったようだ。幸村が一歩を踏み出す、その前に、孫市は更に距離を詰めて、彼の臀部を一撫で。瞬間幸村の背筋に走った嫌悪感はどれ程のものであっただろうか。幸村の首筋には、くっきりと鳥肌が立っていた。
「まごいちさん?」
一つ一つの音が強調されたそれは、名を呼んだ、というよりは、何してくれるんですか、このすっとこどっこい、とでも言いたげな音を含んでいた。激しく、怒っている。流石にやりすぎたか、と孫市も反省するが、彼の言い訳など聞いてやるものか、と幸村はがん!と孫市を壁に叩きつけた。孫市を壁と己の身体で挟み込み、冷ややかな視線を孫市の顔に近付ける。ドラマでよく見る、安っぽいチンピラの脅し文句は特にこわくも何ともなかったが、この時の幸村の目は鬼気迫っており、うっかり次の言葉を失ってしまった。
「わたしは、こういった冗談が好きではありません、と何度も申し上げたでしょう?成実さんがご親切に忠告して下さったのに、もうお忘れですか?作戦が始まる前から、半殺し、なんて事態はお互いに避けなければならないのだと、何故分かりませんか?」
分かって頂けました?と孫市の唇を幸村の吐息がふっと吹いた。幸村の頭を誰かがどんと押せば、そのまま接吻でもしてしまいそうだ。孫市は幸村の唇をじっと見つめた。ああ、至近距離で見ても、きれいな顔だ、などと幸村がもしその頭の中を覗けるものならば激昂するだろうことを、今この瞬間に思った。懲りない男なのだ。
「幸村、」
「何ですか。」
「油断大敵。」
息が触れるほどの距離だ。少しだけ孫市が顔を突き出せば、容易く幸村のそれに触れることは出来た。ちょっとした意趣返しだ。ナンパ師としては、彼に圧されたままでは気がすまない。これで彼が、口許を押さえつつ頬を赤く染めればそれはそれで、可愛らしい話として思い出になるだろう。孫市が期待したのは、そんな流れなのだが、実際は――――、
「どちらが油断大敵ですか。」
冷静な、氷のように冷たい幸村の声と共に、下半身に衝撃。大事な急所に幸村の膝蹴りが炸裂した。孫市はあまりの痛みにその場に蹲った。幸村の視線を感じたが、今は気にしていられない。本当に、彼の膝蹴りは容赦がなかったからだ。
「そこが機能ダウンする前に、慎みという言葉を覚えられてはいかがですか?」
では、わたしは先に行ってますから。と未だ痛みから起き上がれない孫市を残して、幸村は早歩きで廊下を進むのだった。
***
慣れる前は、幸村はこんな感じだと思います。
成ちゃんは、なるちゃんと呼んであげてください。本名はしげざね、ですが、それじゃ可愛くないじゃん!と、自分からなるみちゃんって呼んでーと寄ってきます。でもなるみって呼んでるのは、今のところ孫市と綱元だけです。幸村はしげざねさんって呼んでますから。
ちなみに、孫市と成実のいちゃいちゃは遊んでます。冗談の通じる二人、ということで、ここではよろしく。
05/26
ぬ か る 足跡 も 乾く だ ろ う
相手に気付いたのは、幸村の方が先だった。名前を思い出すよりも、ああ逃げなければ、と脳裏を過ぎった。人の流れに逆らわぬように、幸村は集団から抜けていく。そうすれば、彼は己と僅かにでも空間を共有していたことなど、知りもしないはずだ。けれども、勘が鋭いのか、運が良いのか悪いのか。相手は何を思ったのか、誰かに呼ばれたのか空耳を聞き取ったのか、人の流れに逆らって、振り返ったのだ。
さこんどの、
呼び戻された記憶の中で、己がそう彼の名を呼んでいた。
目が、合ってしまった。幸村の勘違いではない。彼はひどく驚いた顔をして、お前、どうして、と唇を動かしていた。幸村は溜め息をこっそりと吐き出して、彼の傍へと寄った。
左近は、数年も音信を絶っていた幸村に対して、つい先日も会ったような気安い態度を貫いていた。幸村も適当に合わせながら、ちらりと左近の顔を覗き見る。変装用だろうか、眼鏡をしている様が、どうにも見慣れない。正直、似合わないな、と幸村は思った。身なりにさり気なく気を配っている左近にしては、迂闊な選択であったといえよう。それとも、そう思うのは幸村ばかりで、これは一般の意見としては、似合っている、の部類に入るのかもしれない。眼鏡は、誰の目にも正しく賢い人間が、それを証明する為に使用する小道具だ。そう間違った認識をしている幸村だ。確かに彼は優秀であったけれど、実直と言うよりは狡猾であり、賢いと言う言葉にも、最初に “ずる” を入れなければ相応しくないように思われた。
左近に誘われるがままに、幸村はとある喫茶店へと足を踏み入れた。愛想よく接客をする店員に、負けじと愛想よく注文を頼む左近を、どこか奇異なものを見る目で眺めていた。
「ここのコーヒーはうまいぞ。」
そう言って、まずはブラックで一口。幸村はどうしてもコーヒーの苦味に舌が馴染めず、大量のミルクと砂糖を最初に投入した。今度は、左近が奇異なものを見る目で、糖分が多量に沈殿したコーヒーを眺めていた。昔から、左近と幸村の食の好みは正反対なのだ。
「好きなもん食いたかったら頼んでいいぞ。それぐらいは奢る。」
「それも “経費” ですか?」
「ポケットマネーに決まってるだろ。」
「でも結局、あなたのお給金は市民の血税で賄われているわけですから、ご遠慮しますよ。」
この一杯を飲んだら失礼します、と幸村は既にコーヒーの風味を失った液体を流し込んだ。左近も決して、それ以上は食い下がろうとはしなかった。
(しばし沈黙)
「家を出たってな。一人でふらふらしてるのか?」
「派遣社員のような形で、どうにか仕事してますよ。」
「ったく、何年経ってもお前の可愛げのなさは変わらないな。」
「左近さんは、老けました?」
(再び沈黙)
「武田の人間とはまだ付き合いがあるのか?」
「いいえ、解体してからこちら、全くお会いしていません。」
「まあ、曲者揃いの面々だ、今も元気にやってるだろうが、」
「でしたら尚のこと、左近さんは背後から刺されないように気をつけなければいけませんね。」
(更に沈黙)
「この前は、殿が世話になったな。」
「金輪際、面倒ごとに関わるのは御免です。特に、あなた方のようなお人とのお付き合いは。」
「戻る気はないか?」
「どこにです?」
「家にも、こちらの世界にも。」
「上手に足を洗った左近さんだからこそ、そんなことが言えるんです。わたしにはこちら側が似合ってますよ。」
「殿もお前を気に入っていた。お前が望めば、いつだってこちらは迎え入れることができる。いつまでそっちにいるつもりだ?お前の居場所は、結局こちら側だろう。それはお前が一番分かってることだ。いつかは、否が応でも連れ戻されるぞ。なあ、の―――、」
幸村が置いたカップが、乱暴に机に叩きつけられた。甲高い音は左近の語尾を消した。一滴残らず飲み干された幸村のカップには、溶けきれなった砂糖が置き去りにされていた。そうやって人の記憶も捨てていくことができたらどんなに楽だろう。幸村は一人自嘲した。
「ではわたしは帰ります。やっぱり左近さんのおすすめだけあって、たかがコーヒーのくせにお高いですね。」
幸村は伝票を眺めそうこぼす。テーブルの上に一人分のお代を置き、幸村は立ち上がった。そもそも、長居する気はないのだ。偶然にも数年来の再会を果たし、魔が差したように彼の誘いを受け入れただけだ。幸村はひやりとした目で左近を見下ろした。ぬるま湯に浸かっているような、リアルを感じさせない生易しさに酔っている彼が、ひどく憐れに見えた。
「一つだけ、あなたに感謝しなければいけませんね。兼続さんに言わないでくれて、ありがとうございます。」
幸村はそれだけを言い残し、振り返ることなくその場を後にした。喉には未だ、甘ったるいコーヒーに模した液体の残り香が纏わりついていた。
***
左近は三成の秘書的な何か(ぶっちゃけ決まってません)
左近が三成のこと、どう呼んでるのか考えてみましたが、やっぱり『殿』しかない気がするんですよねー。『リーダー』って呼び方も好きですけど。
ちなみに、武田時代は左近のことを、左近どの、と呼んでました。無駄設定ですね、そうですね。
05/28
ろく
真昼にも関わらず、路地裏は薄暗く、じっとりとした湿気すら感じさせた。道の端々にはごみが散乱し、決してこの場所が法に照らされた清潔な世界ではないことを匂わせた。その中に、スーツを一縷の隙もなく着込んだ男の存在は、明らかに異質であった。おろし立てのスーツは、皺一つない。彼が浮浪者の類ではないことは、その一つをとっても分かることだ。
男は迷いのない足取りで歩を進め、路地の突き当たり、ひっそりと佇んでいるバーの前で足を止めた。殴り書きをしたような店の名前の下に、同じ筆跡で営業時間が雑に書かれている。昼真っ只中の現在、見事に営業時間から外れていた。しかし男は、大きく主張するその文字群を眺めておきながら、自動ドアではない手動の扉の前に立ち、コンコンとノックをした。木製のドアは、男が想像していたより大きな音を返した。
返事がない。男は尚もノックを続ける。コンコン コンコン と何度続いただろうか。男は、これは己の義務だとでも感じてるのか、一定のリズムで飽きることなくその動作を続けている。
コンコン コンコン コンコン コンコン
男は突然にその動きを止めた。一歩下がり間合いを空けるのと、扉が内側から開かれるのとは同時であった。
「あーもう煩い!書いてあるでしょ!こっちは今、貴重な睡眠をむさぼって―――
姿を現したのは、男より幾分か若い女であった。睡眠を摂っていたのは真実のようで、髪はぼさぼさ、服は皺だらけ。寝起きで機嫌が悪いのか、目には剣呑な色すら浮かんでいた。のだが、己の睡眠を邪魔した男の存在を認識した途端、その目は真ん丸に見開かれた。見かねた男が、そんなに驚くことでもないだろう、と己の無礼の非を認めるでもなく、そう笑った。女はろくに言葉が紡げず、え、は、なんで?と繰り返していたが、次の瞬間には観念したのか、とりあえず入って。話はそれから。と男の手を引っ張り、店の中へ連れ込んだのだった。
「で?どうして幸村様がこんなところに居るわけ?」
「それよりも、そなた、眠らなくていいのか?」
訊いてるのはあたしでしょ!それにそんなの吹っ飛んじゃいましたよ!とくのいちは、バン!とテーブルを叩いた。久しぶりに会った幸村の重要度の順位付けは、相変わらずどこかズレていた。
「金持ちのボンボンが来る場所じゃないですよ、ここは。」
くのいちの口調は、自然厳しくなる。目の前にいる幸村という男は名家の次男であったし、世の中のはぐれ者と呼ばれても仕方のないくのいちとは、生きる世界すら違う存在なのだ。確かに、以前は彼の背中を守り、常に彼と共にあったくのいちではあるが、今と昔とでは事情が違いすぎるのだ。名門の学校を出、大学に進み、エリート道一直線。決められた進路を滞りなく進むことこそ、幸村の唯一の使命と言ってもよい。それほどまでに、くのいちとは違うのだ。
しかし当の幸村は、スーツの上着を椅子の背にかけながら、出てきた、と何でもないことのようにのたまった。
「出てきた、ってどういうことですか。」
「家出、出奔、失踪。この場合、どれが正しいだろうか。」
「馬ッ鹿じゃないですか!」
もう一度、けれども先程とは比べ物にならない程強く、テーブルをドン!と殴った。幸村が、壊れるぞ、と忠告したが、そんなもの!とくのいちは相手にしなかった。
「そなたならば、分かるだろう。わたしは、あの世界では生きられぬのだ。」
綺麗で秩序ある、清潔な、無法地帯の存在すら知らぬ、そのような世界では。
確かに、くのいちの知る幸村には、そのような真っ白な世界は苦しいだろう。けれど、彼はあちら側に馴染まなければならない存在なのだ。秩序すらなく、人の命すら軽い、こちら側が、幸村は恋しいのだ。くのいちは、彼のその想いが苦しいほどによく分かった。だってあの人の、手と言わず身体と言わず、既に血の一滴、髪の毛の先にまで、こちら側のシミがべたりとへばりついて取れやしない。
くのいちは、真っ直ぐに見つめてくる幸村の目に、あ〜と気のない声を吐き出した。あたしは昔から、彼にはとことん甘いんだ。甘やかしてこの絆を育ててしまったんだ。そう思うと、この言葉は至極当然のように感じられた。降参とでも言いたげに、くのいちは両手を上げた。
「はいはい、幸村様には負けましたよ。どうせ何も考えずに出てきちゃったんでしょ?あたしがぜ〜んぶ世話してあげますから。」
幸村の手持ちの荷物には、生活必需品と呼ばれるべきものが何一つ存在していないことを思い出し、ついくのいちの言葉に苦笑したのだった。
***
パラレルの、多分一話目になると思います。
06/01