幸村はふと思い立ち、その日には新幹線に乗っていた。手荷物はない。ポケットには財布のみで、その中身も数枚の札がちらほらとある程度、決して旅行に行くような格好ではなかった。山を見たい、と思ったのだ。それも、夕日の橙が闇色と溶け合って、段々と闇に呑まれていくその様を、この目で感じたいと思ったのだ。しかし、新幹線から電車に乗り換え、鈍行の旅へと切り替えた途端、その衝動は段々と小さくなって、何かの拍子、あれはもしかしたら、電車の窓から見えた売店の駅弁の名前を認めた時かもしれない、ああそうだ、彼に会いに行こう、と目的をすんなり変えた。きっと彼は気付かないだろうけれど、念のため連絡を入れよう、と胸のポケットに手を突っ込み携帯電話を探ったが、硬質な感触はどこにもなかった。元々携帯の依存度の低い幸村は、ああ忘れてきたのか、と勝手に納得をし、見知らぬ土地の、唯一知っている駅で降りた。その足で直行してもよかったが、幸村は思い直して、近くのスーパーで少しだけ食料を買い込んだ。
彼との付き合いは、知り合った時から今までを数えれば長い方に入るだろうが、切れ切れに連絡を取り合っている分、長い付き合いと言い切れないところもあった。第一彼は、あまり手紙が好きではない。幸村は、好きも嫌いもなく、相手に合わせる方だったから、ここ数年の交流は皆無と言って等しい。しっかりと言葉を交わしたのはいつのことだったろうか。
つらつらと他愛ないことを考えながら歩いていると、彼のボロアパートはすぐ近くだった。儀式のようにチャイムを鳴らすが、返事はなかった。けれども幸村は、その念の為の行為を淡々と進めて、さっさとドアノブを回した。カチャリと金属音がして、引っ張られるようにしてドアが開いた。向こう側から誰かが開けたのではなく、扉自体がそういう風に劣化している。
玄関から一直線、昔来た時は仕切りに暖簾を使っていたのだが、それすらも煩わしくなったのか障害物はなく、部屋の主の背中が見えた。机に向かって熱心に手許の紙に線を重ねている。彼の周りには、取り囲むように紙やら本やら、手にとっても分からぬような工芸品のような、ガラクタのようなものが四散している。その光景だけは数年前に訪れたままだ。
「武蔵。」
声をかけても、彼は振り返らない。ただ気のない声で、ああ、と小さく呟いた。
「台所を使うぞ。あと、夕食を作るが、何かリクエストはあるか?」
「お前の好きなもんでいい。」
「承知した。」
まるで買い物の為に数時間出てました、とでも言いたげな雰囲気である。武蔵と幸村の間に、時間の壁は存在しない。彼が彼である限り、己が己である限り、互いの無干渉は変わることなく存在し続けるだろう。
幸村はさっさと靴を脱いで、買ってきた食材を冷蔵庫に放り込んだ。台所の様子をぐるりと見渡して、とりあえずやかんを火にかけるところから始めた。湯が沸く間に風呂場へと向かい、簡単に掃除を済ませる。風呂場、トイレ付きのアパートだが、部屋そのものは狭い。何度も武蔵の後ろを行き来していたが、武蔵は幸村の行動に一度も見向きもしなかった。お茶を淹れる為の少量の水は直ぐに沸騰した。己と武蔵の分の茶を淹れ、辛うじて机の木目が顔を出している隅っこに、武蔵の分を置いた。武蔵はその音に顔を上げ、さんきゅうな、と湯呑に手を伸ばした。幸村も散らばった紙束を掻き分けて、自分の座るスペースを作る。一息をつき終えた幸村は、すぐに忙しなく夕食の準備を始める為に、再び台所へと消えていった。
幸村が作った夕食を二人で囲みながら会話をしていれば、自然、何故幸村が武蔵のところに立ち寄ったのか、という話になった。少なくとも二人には、いつも理由が必要だった。
幸村はそれには答えず、曖昧に笑いながら、里芋の煮付けに箸を伸ばした。短時間でも中々上手く出来ている。幸村は満足げに芋を頬張りながら、
「健全な生活には、健全な心が宿るのだと聞いた。」
と会話の矛先を変えた。武蔵は味噌汁をすする合間に、幸村の言葉遊びに便乗した。
「なら、俺たちには必要ないもんだな。健全な心なんざ持ってちゃあ、お互い、商売上がったりだ。」
「だから時々、不規則な生活を送ってみたりするのだ。」
「お前の"不規則"はただの無精だろ?」
ふふ、と幸村が笑えば、誤魔化すなよと武蔵も笑った。武蔵も幸村も、作風を思えばこそ、健全とかけ離れていたし、かけ離れていなければ意味がないとも思っている。
「本当は、自分の書いたものを売り物にしたくないのだ。」
「いいじゃねぇか、趣味が実益を兼ねてるだけだろ。羨ましい限りだ、俺は未だに売れない芸術家だかんな。」
武蔵に嫌味ったらしい雰囲気はなく、これおかわりあんの?と、こちらの方が重要だ、とでも言いたげに茶碗を差し出した。幸村はそれを受け取り、ご飯を盛りながらふと、とある書店での己の行動を思い出した。珍しく絵本のコーナーを覗いていた幸村の目に、見慣れた雰囲気の絵が目に飛び込んできた。武蔵が描いた絵が表紙に取り上げられていたのだ。ほとんどの人の目には、他の本に埋もれてしまっても仕方のないモノクロの、単純に言ってしまえば、インパクトのない絵は、幸村を釘付けにした。武蔵の絵には、いつも哀愁が漂っていると幸村は思う。己の小説の登場人物に、心が空っぽの人間が必ずしも登場するのと同じだ。空洞だ、人の心のむなしさをどう表現しよう。そう葛藤している人間なのだ、武蔵は。だからこそ、どんな絵にも空虚が付き纏う。出来た作品だと肌があわ立つように、鳥肌が立つ。幸村は武蔵の作品の空気が好きだった。だが、これが万人に受けてしまうのは何だか嫌だった。全ての人に受け入れられるのはどうもしっくり来なかった。分かる人だけが、共感できる人だけが、この絵を見るべきであり感じるべきだ。そう幸村は思う。己の小説にあとがきがない理由と同じなのかもしれない。分かる人にだけ、理解できる人にだけ通じれば、世論など人気など収入など、そんなものはいらないのだ。幸村はそして、人目に触れぬように本棚の僅かな隙間に捻じ込んだ。
「お前に絵を描いてもらいたい、と言ったら、どうする?」
「まだ無理だ。俺はまだまだ未熟もんだし、まだまだ俺の目指すところに到達できそうにない。」
「今度わたしが出す本の表紙と、挿絵をお前に頼みたいのだ。」
「もっと名のあるヤツに頼めばいい。そっちのが売れるだろ。」
「別に、売り上げはどうでもいいんだ。ここに散らばってるガラクタと一緒だ。わたしは、書きたいから書いた、いわばわたしの排出物を、きれいにしてくれる人がいるだけの話だ。」
本当は、世に出したくはないんだ。幸村はそう言って、食後の茶を一口含んだ。安物のお茶は、どれだけ手順に沿った淹れ方をしてもおいしくなってはくれなかった。
「参考までに聞くがよ、どんな話になってんだ?」
「まだ何も考えていないから、お前の絵次第だ。描きたい絵を描いてくれ。」
「それは、俺が困る。」
「何でもいいんだ、お前が描きたいと思ったものを、そのまま写し出してくれれば。描きたい被写体とかはないのか?」
武蔵は一気に茶を飲み干して、湯呑を机にかたんと置いた。おかわりは、と幸村が急須に手を伸ばす、
「お前。」
「は?」
「だから、俺がいつか描き上げたいって思ってんのは、お前だよ。」
幸村は考えるようにしばし手を止めていたが、思い出したように、何事もなかったかのように武蔵の空になった湯呑に茶を注いだ。まだ二度しか淹れていないのに、もう茶の色は薄くなっていた。
「それは随分と、悪趣味だ。」
武蔵の絵はほとんどがモノクロだ。墨で描いている場合もある。もちろん、色の薄い濃いがたくさんの表情を持ってはいるが、素人の第一印象は地味の一言に尽きるだろう。幸村はその理由を聞いたことはなかったが、ぼんやりとそのわけを理解している。人の心のうつろとは、むなしさと表現される心の動きは、切なさといわれる心の色は何色だろうか。武蔵はその壁にぶつかり、そして彼なりに答えを見つけ出したのではないだろうか。
「んなこたぁ、知ってる。そもそも、人を絵に写し取ろうなんてのは、悪趣味の極みだろうよ。」
それでも武蔵は、いつかこの男の心のうつろを表現したいと苦心している。
それから数日、二人は規則正しい生活を送った。朝に起き食事を摂り、昼まで掃除やら洗濯やらを済ませ、正午を回ればまた食事を胃の中に流し込んだ。午後は昼寝をしたり、夕飯の買い物に行ったり、洗濯物を取り込んだりと時間を潰し、陽が沈めばまた食事を摂り、風呂に入り、日付が変わる前に寝床に着いた。そんな模範解答のような規則正しい生活を、二人は何かに急かされるように送った。そんな生活が三日ほど経った頃だろうか。まず最初に音を上げたのは武蔵だった。気分が悪いとトイレに駆け込み、何度も何度も嘔吐した。遅れて幸村にも同様の症状が現れ、二人は交互にトイレに追い縋った。昨晩の牡蠣に当たったのではない。あまりに規則正しく供給される栄養に、胃が限界を訴えたのだ。二人は胃の中が空っぽになるまで戻し、空になれば胃液を吐き出した。幸村は武蔵よりも早く回復した己を省みながら、健全な生活とは難しいものだ、と痛感しつつ、スーパーへと出掛けた。余裕の出来た幸村がまず最初に気にしたのが、臭気だった。トイレとその周辺へ置く芳香剤を求め、まだ不調を訴える身体を引き摺っての外出だ。食料は底をついていたが、幸村の頭には芳香剤しかなく、三種類ほど手に取り、レジへと直行。そのまま帰路に着いた。幸村がせっせと芳香剤のパッケージを剥がし、適当な箇所に設置しているのを、武蔵はやつれた顔で何も言わず眺めていた。無臭タイプを選んできたはずが、ほのかに薬品の匂いが二人の鼻をかすめた。幸村はそれが気に入らなくて、新聞紙でぐるぐる巻きにして、ゴミ箱に放り込みたい衝動に駆られたが、武蔵が疲れた顔でこちらを見ていたから、幸村は諦めるしかなかった。物を捨てるという行為は、疲れるのだ。それは創作活動に勤しむ己しかり、先程までゲーゲー吐いていた自分たちしかり、である。
その日は二人共ほとんど無言で、ぼんやりと時間の経過を待った。ようやく陽も翳れば、蛍光灯の世話になる前に手早く入浴を済ませてさっさと寝てしまった。
次の日、幸村が目を覚ませば、既に武蔵は起きており、昨日の憔悴しきった人物と同一とは思えぬ筆さばきで、一心不乱に紙に何かを書き殴っていた。片付けた部屋があっと言う間に紙きれまみれになった。部屋には墨汁のにおいが充満している。あの薬品のにおいよりずっと良い。幸村は何故武蔵が墨汁を使用しているのか、半紙に書き殴っているのか分からなかったが、それを問うだけの体力が幸村はまだ回復していなかった。だらりと身体を投げ出し、気怠げに武蔵の姿をぼんやりと眺める。午後になれば調子も戻ってきたようで、外出してすっからかんになってしまった胃に入れるものを探してさ迷った。久しぶりに見る食材はどれも魅力的に映ったが、結局は目の保養に眺めるだけで、卵とほうれん草のみを購入した。夕食は胃のことを考えて、卵雑炊でいいだろう。幸村がのろのろと台所に立ち、のろのろと食事を作り終える頃には、武蔵の激情も一時の終焉を迎えたようで、机のスペースを確保して待っていた。
「雑炊?うっわ、なんか懐かし!」
武蔵のテンションはいつもの通りだったから、幸村も己を繕わずに済んだ。二人は会話はそこそこに雑炊を掻き込んだ。多めに作ったはずの雑炊はすぐになくなった。食後のお茶をのんびりと啜っていると、武蔵が一枚の紙切れを幸村の目の前に差し出した。僅かにくすんだ白い半紙に、黒が這っている。否、一概に黒とまとめられぬ、灰色とも言える墨本来の色が絶妙な筆さばきで、半紙の白とうねり合っていた。水をイメージしたのだろうか、それとも煙?絶妙なバランスで、墨色はくすんだ白と絡まっている。侵食、という言葉がふと頭に浮かんだ。じわじわと、うねりながら絡まりながら、悶えながら。
幸村は一心に絵に魅入ったまま微動だにしない。そんな時間がどれ程続いただろうか。流石に痺れを切らして、武蔵は、なあ?とその手にある紙をスライドさせた。
「これで完成じゃねぇんだけど、こんな感じになる、と思う。」
「表紙の件か?」
「何だよお前、思いつきで話てたのか。本気にした俺、すっげぇ恥ずかしいじゃねぇか!」
「いや、確かに思いつきだったが、わたしだって本気だった。」
それならいいんだけどよ、一人で舞い上がってたのかと思うとさ、分かるだろ?
そう武蔵は同意を求めたが、幸村としては、彼が舞い上がっていたこと自体に気付いていなかったから、思わず、「舞い上がっていたのか?」と訊ねてしまった。
その日から、二人は各々創作活動に勤しんだ。精を出したなどと言う言葉すら生温く、二人は命を削って何かを吐き出そうとしているようだった。幸村がカリカリと忙しなくペンを走らせれば(幸村は今では珍しい、手書きで原稿を作るのだ)、その後ろでは武蔵がうんうん唸りながら筆を這わせる。インクと墨汁の交じり合ったにおいも、彼らは頓着しなかった。そうして二人は、朝となく昼となく、夜となく、ただひたすらに己の情熱をぶつけた。腹が減れば適当に握り飯を作り、眠くなればその場に寝転がった。スイッチの入った彼らを止めるものはなく、また互いに干渉し合わなかった。互いに、己の吐き出したいものを存分に生み出すまで、この手は止まらないのだと知っていた。数日前の激しい嘔吐と同じだ。吐いて吐いて、吐けなくなるまで吐き出すのだ。
二人は深いため息と共に手を止めた。ようやく、ぼんやりと己の目標をかき終えたところだ。後はひたすらに根気との戦いである。とりあえず二人は倒れ込み、あわや頭をぶつけるところだった。それに疲れた笑みを浮かべつつ、何やらこそばゆい感覚が心地良い、とそのまま眠気に身をゆだねようとしていた時だ。ぴりりぃと電子音が鳴り響いた。目覚まし時計の音に似ていたが、そんな緩い音では己の旅路は邪魔できぬ、と幸村が目蓋を下ろした、のだが、武蔵は慌てた様子でごそごそと音の方向へと這って、電子音をピッと切り、続いて、もしもし?との声に、ああ武蔵の携帯だったのか、と合点した。一度も武蔵が携帯を使用しているところを見たことのない幸村は、武蔵の携帯は携帯の形をした何かだと漠然と思っていたものだから、何だあれは携帯だったのか、と妙な納得を覚えた。が、そんなのそのそとした思考は、電話越しの声にかき消されてしまった。
『幸村さま!そこに居るんでしょ、幸村さま!!一体何日無断外泊すれば気が済むんですか?!ケータイ持って行ってくださいっていつも言ってるじゃないですか!担当からは電話も入ってくるし!!近々打ち合わせがあるんで、即行、今すぐ帰ってきてくださいよ!!』
ぽい、と幸村の方に放り投げられた携帯を何とか受け取り、落ち着け、と声をかければ余計に煽ってしまったようで、あの義バグの相手させられるあたしの身にもなって下さい!と更に声が耳に痛い。
何とか彼女を宥めて、幸村はため息と共に電話を切った。ふと、どうして彼女は武蔵の携帯の番号を知っているのだろう、と疑問を抱いたが、あまりにぼんやりとしていると、その間を見越した彼女から、もう一度電話がかかってきそうだったから、幸村は慌てて身体を起こした。急いで机の上の、幸村の走り書きがびっしりと書き込まれた原稿をかき集め、事前に発掘しておいた紙袋に乱雑に放り込んだ。通し番号など振っていないから、後のことを考えて少しだけ面倒になった。
「帰るのか?」
「ああ。表紙の件はまた連絡する。とりあえず、これ、貰っていくから。」
その手には、ちゃっかりと表紙の案と言っていた紙切れが握られていた。捨てたと思ったのに!と散らばっている紙をあさる様を眺めながら、それはダミーだ、と勝ち誇った幸村の表情。いつまで経っても、くだらない遊び心がおさまらない幸村なのだ。やられた!と武蔵が悔しがる様を尻目に、幸村は颯爽と武蔵の家を後にした。既に外は夕闇で満ちていたが、夜行列車で帰るつもりでいる幸村には丁度良い時間帯であった。
こりゃ、ひどい話だ。
08/11/04