「幸村さまのこと、助けてあげてよ」
茶店で団子を食べている時のことだった。背後からそう声をかけられて、武蔵は何も刺さっていない串を片手にちらりと振り返ったが、そこには誰もいなかった。いや、武蔵の斜め後方には坊主頭の姿はあったが、声の主は女のものであったから、その坊主ではないだろう。武蔵は何食わぬ顔で皿に串を置いて、残っていた茶を飲み干した。
「俺には、あいつは救えねぇよ」
ため息をつくように、武蔵はそう言葉をこぼした。姿は見えない。けれども気配だけはひしひしと、武蔵の頬に突き刺さるように感じられた。声の主には、心当たりがあった。いつも幸村の隣りで飄々としている女忍びであろう。武蔵よりも幼い容貌の女は、おおよそ忍びらしからぬ言動で幸村と戯れていたが、時々、背筋から寒気が這い上がってくるような鋭い殺気を纏うこともあった。
武蔵はもう一度、「俺にあいつは救えねぇ」と呟いた。吐き捨てるように叩きつけられた言葉は、誰よりも武蔵自身を深く傷つけた。認めたくない、認めたくない、けれどもその事実を武蔵は深く深く理解していた。武蔵では幸村を救えないのだ。
「俺はあいつを理解してやることが出来ない。そんな奴が、あいつを救えるものか。俺はあいつと違う土俵にしか立てやしないんだ」
「おんなじ立場なら、おんなじ場所にいるなら、それが可能だってあんたは言うの?大名なら武士なら、それが出来るって、本当にあんたはそう思ってるの?ならどうして、幸村さまは大坂にいるの?」
武蔵は返す言葉が見つからず、手元の湯のみに視線を落とした。彼の立場を理解し、彼の生き様を理解してくれた者を知っているくのいちだからこそ、武蔵に縋ったのだ。彼らでは、幸村を救い出すことはできなかった。同じ立場で目線で、だからこそ、呆気なく命を落とす危険と隣り合わせであったからこそ、彼らは幸村に手を伸ばすことはできても、引き上げることができなかったのだ。
「ひとを救うのは、いつだってひとだ」
武蔵はそう言ってから、傲慢で無神経なことを言う、と己の台詞に苛立ちを感じた。そうでなければならない、と堅く信じる一方、そう容易いものではないと諦観もしている。たったちっぽけな存在の一人が、己と同等の存在であるもう一方のひとを救うなど、
「そりゃあ、道理だ」
膝を打つ音に、武蔵はさっと振り返った。先の僧が、武蔵の言葉に相槌を打ったようだった。胡乱げに、武蔵は顔を顰めた。元々、己の言葉に無遠慮に返事をされることが嫌なのだ。
僧のなりをした男は豪快に笑って、「あんたが宮本武蔵かい?」と人懐っこい表情とは裏腹に、鋭い眼差しで武蔵を見据えた。鍛え抜かれた体躯に、僧兵という言葉は似合わない。言葉一つ取っても、どこか俗世染みた親しみやすさがあった。頭を丸めているものの、僧侶としての清廉さは感じられない。
「そういうあんたは誰だ」
「一人歩きした名前なんぞ、俺は嫌いでねぇ。それに、ここではその名は必要ないだろう。俺は幸村の古い友人だ。あんたには、それだけで十分だろう?」
その男が、俺に何の用だ、と武蔵はぶっきら棒に吐き捨てた。幸村の古い友人、という言葉に動揺してしまったせいだ。
「あいつは元気かねぇ、と思ってな。あんたなら、詳しそうだ」
「詳しくねぇよ。あいつは俺になんもいわねぇし。あいつの忍びの方が、俺よりうんとあいつのことを分かってるだろ」
そうだろうねぇ、とやけに小ざっぱりとした声が返ってきて、武蔵は少しだけ表情が緩んだ。無礼な物言いのはずなのに、怒る気にはなれなかった。そういう気安さが、この男にはあった。
「ひとの世ってのはうまいこと出来ててなぁ、大体の奴は生きてる内に、唯一のひとっていう存在に出会えるようになってんだと、俺は思ってる。それが、自分だけの神さんだったり仏さんだったり、最愛だったりするんだろうよ。そういう唯一に出会うだけで、ひとは救われるもんだ」
慶次はそこで一旦言葉を切って、辺りをぐるりと一瞥した。くのいちの気配が充満している。濃密な気は、どこに彼女がいるのかを分からなくしていた。
「あんたは未だにそういう奴には出会ってないようだけどな、あの嬢ちゃんにとっての唯一は、間違いなく幸村だろう。でもって幸村も、ちゃんとその唯一に出会ってる。幸村もそれを自覚してる」
息を飲む音が、武蔵にまで届いた。彼女は知っているのだろう。それは誰だ、とまるで問い詰めるように呻いた武蔵は、己の余裕のなさに内心で苦笑した。おれはあいつの唯一にはなれやしない、なれやしないことを知っているし受け止めているし、けれどもそれが、悔しくて悔しくて悲しくてたまらない時があるのだ。
「もう、この世にはいないさ」
まるで武蔵自身に落とされた宣告のように、その言葉は重く武蔵の中で響き渡った。
「ひとを救うのは、ひとでなくちゃならない。それには俺も賛成だ。だがな、だからこそ、自分にとっての運命のひとってのは、唯一でなくちゃならないんだと、俺は思うね」
***
大坂辺りの武蔵とくのと慶次の話。くのは3寄りかもしれない。
…苦しい。色々詰め込んだら、展開を走ってしまった。本当なら、ぽっと書ける話じゃなかったのねー。脳内で構想してたから、気付かなかったみたいです。ちょっと消化不良なので、知らない間にこっそり追加してるかも。
あ、幸村の唯一のひとは、やっぱりおやかたたさまです。幸村出てなくてすいません。幸村が好きですが、ぶっちゃけ、大好きな幸村がみんなに好き好きアピールされてるのが好きなので、そういう話ばっかになります。
09/12/11