『とにかく私は、人を愛さないことには生きていけません』
『だから、分からないままでいる』
※お題は『まよい庭火』さんからお借りしました。
『とにかく私は、人を愛さないことには生きていけません』
真田幸村という男は、そういう男だった。中身が空っぽというわけではないが、半分ほどしか己の"何か"がないのだ。その"何か"を必死になって膨張させて飽和させようとした結果が、まさにそれだった。幸村は人を憎むことを知らない、恨むことを知らない。それは素晴らしい、何とも出来た御仁だ、と手を叩く者もいるだろう。けれども、幸村はただ、憎悪や悔恨の念が酷い疲労と虚しさしか残さないことを知っていたに過ぎない。そんなものしか残らないのであれば、わたしは人を憎むことをしません、人を恨むことを望みません、もっともっと、有意義で実のある、心地良い絶望が欲しいのです。幸村は、人がごくごく自然に心変わりしてしまう生き物だと知っていたに過ぎなかった。
幸村が使う"愛"という言葉は、ひどく曖昧だった。舌触りがよかったのだろう、彼はその言葉を好んでいるようだったが、彼の口から飛び出す"愛"の音は、どこか物悲しくて果敢なかった。声が表面だけを撫でていく。もやのようで、正体がはっきりとしない。あたたかで柔らかいはずのその言葉は、結局、その姿を与えられることはなかった。幸村は三成の横柄な態度ですら愛しいと言う。兼続の一方通行な救いの施しを愛しいと言う。政宗の野心の幼さを愛しいと言い、慶次の突き放した人間模様も愛しいと言う。清正の忠義の愚直さを愛しいと言って笑って、好ましいと甘く囁いて、わたしはあなたがすきです、とどこか舌足らずのふわふわとした声で清正の耳に唇を寄せたが、唯一、幸村が愛せないものがあった。あなたが、あなた方が、わたしを好ましいと言って手を差し伸べてくださるその想いだけは、愛せません、と。幸村は、その好意が寄せる優しさを享受しながらも、好意そのものを拒絶していた。
「わたしはきっと一人でも生きていける、血も涙もない男なのです、無情なのです。ですからわたしは、わたしという存在が誰かを傷付けるのを防がなくてはいけません。わたしは、誰とも共に生きることができないのです。無神経なのです、無頓着なのです。誰かを傷付けることがひどく苦しい。わたしは、わたしの何が傷を付けるのかも知っているのです。けれどもわたしは、それを治すことができない、いえ、しないのです」
「わたしは、」
幸村はそこで一旦言葉を切って、じっと清正を見つめた。幸村の黒々とした澄んだ眸が、まばたきを忘れて清正の表情を観察している。子どものように透明な眸は、けれども子どものものではない証拠に、底の見えない深みを持っていた。吸い込まれてしまいそうになる。三成ならば、さっと目をそむける。兼続ならば、苦笑をして彼が作った空気を自分のそれに染めようとする。政宗ならば「馬鹿め!」と叫んで幸村の頭をはたき、宗茂であっても「そんな顔をされると困るな」といつもの調子を保ちながらも、幸村の眸に手を翳して隠してしまう。清正は、そのどれでもなかった。幸村がじっとこちらを見つめるように、清正もまた、そらさず、まばたきすらせず、幸村の黒々とした眸を凝視する。
「わたしは、こんなことを言ってもあなたが困るだけだと知っていながら、それでも言ってしまうのです」
幸村がさっと眸を伏せる。清正はようやく呪縛がとかれたような、折角の二人きりの空間が壊されてしまったような、奇妙な心地になる。ああいう眸で見つめてくる幸村も、そうすることで生まれる空気も、決して嫌いではないのだ。清正は素っ気無く「そうか」と頷いて、付け足すように「難儀なことだな」とまるで他人事のように呟いたのだった。
***
10/03/31
『だから、分からないままでいる』
昔はそうではなかった、と思うのは、清正の中に僅かに残る、過去への憧憬だろうか。昔、特に幼少期というものは往々にして美化されやすいものである。三成だって、昔はあんなに意固地でも融通が利かないわけでもなかったように思うし、視野だって狭くなかったはずだ。思い込みだってそんなに激しくなかったように記憶しているのは、清正の記憶違いか無意識に記憶の改編があったからだろうか。昔は、と言うほど年を食ってはいないはずだが、昔の三成はこうまでひどくはなかったはずだ。喜んでいる様より、怒ったり憤慨したり不機嫌そうだったりの姿が脳裏に蘇ってくる辺り、もしかしたら、単に思い出を美化してしまっているのかもしれない。
そう清正が思うように、三成だって、昔の清正は〜、などと思ってはいるのだが、清正の耳には幼少期の美化された思い出まで入ってこない。そういう隔たりが出来てしまった二人である。子どもの頃の他愛ない笑い話を気軽に交わせる気安さが、二人には失われてしまっている。
これこれ、こういうことで口喧嘩になった、と幸村にこぼせば、仲がよろしいことで、と幸村が笑っている。どこが仲良く見えるんだ、と呆れ半分に呟いて、昔の三成はああじゃなかった、こうじゃなかった、と愚痴り出すのがこのごろの傾向だ。幸村はその一つ一つに丁寧に相槌を打って、最後にいつもこう締めくくるのだ。「二人共、昔から相変わらずだったのですね」と。
「馬鹿、どうしてそうなる」
「変わってないですよ、第三者の目から見れば。いいじゃないですか、わたしは、今の三成どのが好きです。あ、もちろん、清正どのも好きですよ」
あえて言おう、石田三成という男は意固地で意地っ張りで、とにかく頭が固いマニュアル人間なのだが、仕事人間を地でいく彼だからこそ、向上心というものは人一番持っている。左近から、殿のあれが悪いこれが悪いと毎日言われ続ければ流石に自覚もしてくるし、直した方がいいかな、直そうかな、という気持ちにもなってくるはずだ。けれどもそんな葛藤をしている真っ只中に、幸村のあの台詞を言われてしまったら、そんな葛藤などすっ飛んでしまうだろう。むしろ悪化の一歩を辿らせている。
「だからあいつは、いつまで経っても成長しないし、分からないことを珍しく分からないままに放置してるってわけか」
幸村は首をかしげて、どういうことですか?と訊ねる。清正はいつもならば布で覆われている幸村の額を指で弾いて、「お前は無自覚な分、宗茂より性質が悪い」と真顔で脅しかける。「あの人より性質の悪い人なんて、そうそういませんよ」と幸村は清正が冗談を言ったのだと思って笑っていたが、清正は冗談を言ったつもりなんてこれっぽっちもなかった。
***
10/03/31