『空気のような存在になりたい』
『やさしいだけの人』
『きみは白紙のゆめをみる』

お題は『星が水没』さんから拝借しました。






















 幸村は常々、戦場での己はなんであろうと思っていた。鎧を脱ぎ、槍を置き、清潔な着物に身を包んでしまえば、脳裏に残っている戦の喧騒がただただおそろしいばかりだ。馬を駆け、槍を半身にように操り、敵を屠る己はなんであろうか。あのようにおそろしい、身の毛もよだつ、鬼のような所業を為す己。人を槍の刃先で突き殺すその瞬間の己は、全くの無心である。良いも悪いもない。戦の熱にうかされて、それでも、興奮しているのではない。全くの無である。

 己は、もっとひっそりと、人の目になど留まらぬように生きていけるものだと思っている。戦場であのような、鬼のように働かなければ、誰の記憶に留まることもないだろう。戦場での己は、あまりに愚かである。ああまでして、何を主張しているのか、人を殺してなにを誇らしく思っているのか。いいや、違う。わたしは人を馬蹄にかけ刃先で抉り蹴り倒したものに対して、何の感慨もわいてはいないのだ。己の前に立ちふさがる悉くを、ただただ排除しているだけに過ぎないのだ。己という存在は、なんというおそろしい男なのだろうか。


(空気のような存在になりたい)





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10/04/14






















 石田三成は、道徳というものをとんと理解できなかった。三成の思考の軸となっているのは、もっぱら規律や規則といった雁字搦めの理であって、人の感情や価値観だといった曖昧なものは理解の範疇外であった。

 直江兼続もまた、三成に似た、規律や規則、規定や法則を愛する性質ではあったが、彼は正しく道徳を理解していた。愛用していた、とも言えよう。彼にとっての道徳は、体の良い方便だったのかもしれない。それほどまでに彼はたくみに使いこなしていたし、また道徳の弱点と美点を熟知していた。三成が大よそ人の感情に呼びかけるそれらを理解しないことすらも見透かしていた。それでも兼続は、三成のことを良い人間だと言う。ああいう潔白な男は二人といないと言う。

 真田幸村もまた、おそらくは道徳というものを理解していただろう。それらの持つ厄介さと曖昧さと、生温い優しさを理解していた。だがしかし、彼は兼続のように愛用することはなかったし、己のものにすることもできなかった。ただただ、理解をしているだけで、共感することができなかった。己の所有物になることはなかったのだ。それはいつまで経っても、ぽつんと一つで佇んだまま、風に吹かれて雨に濡れて雷に打たれて、けれども風化することはなく、そのままの姿で独立していた。幸村はそれを愛することはなかった、だが同時に、嫌悪もしていなかった。幸村にとって、それはただのものであり、それ以上でも以下でもなかった。幸村は己に相応しくない持ち物を抱え込むほど、愚かな男ではなかったからだ。


「兼続どのは、すごいですね」
 うん?と兼続は僅かに首をかしげて、幸村の顔を覗き込む。兼続の膝の上は、うずくまって寝入ってしまった三成の頭が占拠している。三人で飲むと、決まって三成が早く潰れて、どちらかの膝を借りて熟睡するのだ。
「全てを見透かした上で、わたしと三成どのを繋いでいます」
 真田幸村という存在が三成を傷つけるように、石田三成という存在もまた同様である。相容れないのだ。相性が悪いのではない、ただ生き方が違うのだ。人の感情に疎い三成と、敏いくせにそれらが億劫な幸村と。
「三成は手厳しい男だろう?」
「ですが、とてもやさしいです。…わたしには眩しい」
 幸村、と名を呼びながらも、兼続の手は品の良い猫の毛並みを撫でるように、ゆったりと三成の髪を梳いている。兼続は書き物をしながら話も出来る、本も読めるという器用な人間であった。その両方が片手間に見えないのは、彼の人徳であろうか。

「それは違うな幸村。三成は、

(やさしいだけの人)





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10/04/14






















 清正は寝苦しさを感じて目を開けた。まだまだ冬の名残が強い春のことだ、そよぐ風は心地良くはあっても冷たくもなければ生温くもなかった。丁度良い気温は、むしろ清々しくなければならないはずだった。けれども清正は、まるで真夏の夜のように、ぐっしょりと汗を掻いていた。うたた寝にしては熟睡してしまったようだ。夢を見ていたような気もするし、それも勘違いのような気もする。ただ、腹の中にうずくまっている感情はもやもやとしていた。すっきりとしない、後味が悪い。やはり、何か夢を見ていたのかもしれない。手枕をしていた体勢から起き上がって、畳の上に胡坐を掻く。どうにも落ち着かない。

「手ぬぐいでも、持って来ましょうか?」

 唐突であった。自分以外がこの部屋に居るとは全く考えに及んでおらず、清正は勢いよく声がした方を振り返った。眉を寄せた緊迫した表情を向けた清正に、声の人物――幸村も驚いたようで、目を丸くしていたが、すぐにどうしましたか?と場の空気を誤魔化そうと微笑んだ。

「いや、何でもない。手ぬぐいか、じゃあ貰おうか、いや、やっぱりいい。井戸で水を被ってくるとしよう、そっちの方が手っ取り早い」
「井戸の水は冷たいですよ。流石に、風邪をひきますよ」

 着替え、用意しましょうか?と訊ねる幸村の手首を掴む。清正の突拍子もない行動に幸村も反応が遅れたようで、目を丸くして子どものように清正を見つめることしか出来なかった。

「いつからここに?」
「清正どのが、目を覚まされる少し前です。うなされているようでしたので、起こした方がいいとは思ったのですが、」
「が?」
「顔を顰めたり、かと思えば表情が柔らかくなったりと、随分複雑な夢をみていらっしゃるようでしたので、声をかけようかどうか、戸惑ってしまいました」
 起こした方がよかったですか?と訊ねる幸村に、夢の中身を思い至ったのか、清正は嘆息して、顔を手の平で覆った。
「俺も大概、未練がましい奴だ」
「夢の中ぐらい、解放されてもいいではありませんか」
 わたしはそういう体質なのでしょう、夢を見ることはありませんが。幸村はそう穏やかに言い放って、では、お着替え、用意しますね、と奥の部屋に消えて行った。


(きみは白紙のゆめをみる)





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10/04/15