真田幸村が同盟の申し出に大坂城へと訪れ、石田三成と会見を済ませたのは数刻前の話だ。短い会談は淡々と進み、今は城下の屋敷に供と一緒に押し込まれている。監視はいない。天下でも有数の忍びである佐助が言うのだから間違いはないだろう。あるいは、武田の大将ともあろう者が、たった一人の供を連れての訪問に警戒することの愚を覚ったのか。幸村の供は佐助だけだった。影に控えている忍びはいない。本当に、真田幸村という武田を背負って立つ男は、忍び隊の長という立場にあるだけのただの忍びを唯一の供として許していて、先日までは敵とも味方とも思えぬ者の本拠地に赴いたのだ。真田幸村の交渉術はいつだって強引だが、何故だか失敗することの方が稀だ。人というものを心得ているのだろう。
幸村は縁側に胡坐をかいて、ぼんやりと庭を見つめている。既に夕刻に差し掛かっており、空の橙色がじわじわと闇色に侵食され始めている。
主の姿を後ろから見守りながら、佐助は心の中で小さく溜め息をついた。鍛錬よりも政務に注ぐ時間が長くなってから、主の身体は目に見えて細くなった。元々、肉の付きやすい身体ではなく、激しい鍛錬と食事量がその身体を支えていたに過ぎない。半ば強引に鍛えていただけに、その運動量が減るだけで食事は細くなり、比例するように身体の肉も削げ落ちた。それにどうこう口を出せる立場にない佐助だが、真田幸村という男の性質を知っている一個人としては、さみしいな、とつい思ってしまう。これでは、以前のようには槍を振るえまい。だが、佐助はそれを口にすることはなかった。一番にそれを痛感しているのはこの主だからだ。佐助はただ、主の内心の絶望に気付かぬように、こんな時だけ無知な振りをする。
「佐助」
幸村が声をかける。佐助は僅かに伏せていた顔を持ち上げたが、幸村の姿勢は先と変わっていなかった。だが、聞き間違いではあるまい。佐助が、主の声を勘違いするなど、ありえぬ話だ。
「こちらへ来い。話の相手が欲しい」
「はいはい、分かりましたよっと」
佐助はわざと足音を立てて、主の隣りに並んだ。忍びではなく、幸村の供として同行している以上、その通りに振舞わねばならない。ただ、幸村も佐助の身分を隠そうとはせず、何度も佐助の名を無遠慮に呼ばっていたから、分かる者は分かったかもしれない。そのせいで幸村の存在が軽んじられるのは佐助としてはあまり歓迎できぬことだが、幸村が頓着せぬのだから、佐助もそれに従うまでだ。まったく佐助は、主に従順な男だった。
「石田三成殿というお方は、よく分からん。後ろに控えていらした大谷吉継殿の方が、余程読みやすい」
「大将でもわかんないことってあるんだ。何か新鮮」
「佐助、お前は俺を買いかぶりすぎだぞ」
「そう言う大将こそ、俺を買いかぶりすぎだよ。別に俺様はいいんだけどさ、こういうとこには、小山田の兄さんでも連れて来た方がよかったと思うよ。武田のお歴々の面目丸つぶれでしょ」
今更な言い様にも、幸村は「うむ」と短く相槌を打っただけで、応とも否とも言わなかった。庭を見つめていた視線をようやく佐助に向けて、いかにも下男の様相で正座をしてかしこまっている佐助に向かって「よい崩せ」と膝を軽く叩いた。そう頑固に出来ていない佐助は、その一言にすぐさま足を崩して、立膝を立てて床に腕をついた。胡坐の幸村よりもいっそうだらけた格好だったが、この二人にとってはこちらの方が自然体だ。
「お前は石田殿の目を見たか」
「いんや、俺様そこまで不躾に出来てないもので」
「そうか」
幸村は言いながら、再び視線を庭へと戻す。佐助も倣って視線を正面に向けてみたものの、すぐに飽きてしまって幸村の横顔に顔を固定した。見慣れた主の横顔には明らかな疲労が刻まれていて、嫌だなあ、と心の中で呟く。佐助は我儘な性質ではあったが、それを外に出すことはなかった。幸村の浮かべる表情は何であっても佐助の心を豊かにしたが、すまぬと謝れぬ代わりに浮かべる苦笑は正直好きにはなれなかった。
「凶王と呼ばれておる男ゆえ、どのようなものだと思っておったのだが、真っ直ぐとでも言うのだろうか、一つのものをしかと見据えておる律儀な目をしておった」
「あんな末恐ろしいお人をつかまえて、真っ直ぐとか律儀とか言えるのって、大将ぐらいだろうねえ。目だけで人を殺せそうな雰囲気かもし出してたよ」
「迫力は、確かにあったが」
「まったく、うちの大将は大物だねえ」
それで?凶王三成とうまくやってく自信はあるの?
佐助の問い掛けにも、幸村は表情を動かさない。今は遠ざかっている戦場では、常に声を張り上げていたやかましい主だが、元々あまり表情が変わる男ではない。こういった日常の方が、主にとっての非日常なのだろう。表情の作り方がどこかぎこちない。
「気難しそうな御仁だ、うまくやれるかは分からんが、俺としては同盟相手に足る男だと思う」
「大将がそう思ったんなら、誰も文句は言わないでしょ」
「そうだろうか」
「そうだよ」
幸村はささやかな笑みを浮かべて、もう一度「そうか」と呟いた。忍びの聴覚を持つ佐助だからこそ聞き取れた一言だろう。
「だが、ゆえに理解できぬ部分も多い。俺は正直、敵討ちに燃える石田殿の心が分からん」
佐助がすっと目を細める。相変わらず、幸村の表情は乏しい。幸村はああ見えて理論で雁字搦めな男だ。言葉に出来ぬ感情を厭う。言葉に表せぬ理屈を嫌う。言葉に変換できない色々を、だから幸村は理解することが出来ない。石田三成の敵討ちへの心の動きも、幸村は言葉、否や単語の羅列にして綴ることが出来ないからこそ、幸村は真の意味で"敵討ち"を理解することはない。
(敵討ちなんて真っ当な道が選べないお人だよ、うちの旦那は。性質が悪い、ついでに、性格も悪い、よ)
それは、この主と忍び達との唯一と言っても過言ではない、後ろ暗い約束事だった。はきと言葉にしたことはない。それでも佐助は"そう"だと信じているし、また佐助たちの心を主が正しく理解しているのだと盲信している。
真田幸村は、主・武田信玄が亡くなった瞬間に腹を切る。佐助をはじめ、真田十勇士と呼ばれる、特に幸村に近しい忍びたちは、幸村の後を追う。
幸村は信玄の天下を切望していた。信玄と共に生きるこの世を熱望していた。だからこそ、信玄がいなくなってしまった世になど、幸村は未練がない。復讐など幸村にとってはどうでも良いことであった。誰かが敬愛する主の身体に傷をつけた事実よりも、この世に主が存在せぬ現実の方が、余程堪える。だから幸村はその道を選ぶだろうし、佐助は彼に従うだけだ。気狂いと呼ばれようとも構わないし、見上げた忠義だと呆れられても、佐助はどうとも思わない。主がいなくなった世に未練などないし興味などないし、生きている意味などない。
「もしかしたら、凶王は俺たちが思ってる以上に、真っ当な男なのかもしれないねえ」
幸村は気まぐれのように佐助に顔を向けて、ああそうかもしれないな、と笑ったのだった。
***
閉鎖的な主従関係。。。
そういうわけで、ばさらのみっちゃんも、割とまともかもしれない妄想。
主様の天下を模造してでも主様に仕えようとする三成と、現実主義すぎて模造品だとか名残だとかでは満足できない幸村。と、全てを見透かした上で主を諌めずに乗っかっちゃう佐助。
10/09/05