「こっちの伊達政宗は、父親殺して、弟も家臣に殺させて、母親を実家へ追い返したんだって?」
幸村は動揺しなかった。ただ一瞬だけ動きを止めて、それからゆっくり酒を一舐めしてから、藤次郎を見た。幸村の眸はいつ見ても澄んだ深い海のような瞳をしているが、あまり眸が丈夫ではないそうで、夜更けにもなると眸をしょぼつかせていることがあったり、今のように薄っすら水の膜が張られていることもある。夜目が利かぬのです、とは彼の言であった。
「事実を端的に申し上げればそうなりましょう。けれども、政宗どのにも事情があり、わたしの口からは一概に良い悪いの判断は致しかねます」
ハッハッと笑い声を立てた。本人が思っていた以上に渇いた声であった。これは嘲笑だろう。
「事実以外、何もいらねぇよ。伊達政宗ってヤツは、身内を殺してようやく家を保ってるような腰抜けだ。俺だったら、」
「英断だと、わたしは思います。人質となった父を討ったのも、お家騒動の火種を自らお絶ちになったのも。あなたには、出来ますまい」
遮るように、幸村は言葉をついた。口調はいつもと変わりはなかった。それだけに、藤次郎の心に強く響いた。
「なぁ、あんたの声を初めて聴いた時、どう思ったか知ってるか?小次郎、ああ、俺の弟の名だ。小次郎だと思った。あんたの声は、小次郎によく似ている、そっくりだ」
かん、と藤次郎は幸村の杯に己をそれをぶつけた。酒が僅かに零れたが、互いに気にしなかった。藤次郎は幸村の眸を見つめる。今にも零れそうな水の膜が張られているのに、そこからは一滴の雫も垂れたことはない。いつか、零れるそれを掬い取ってやりたい、と藤次郎は思う。そんな日が来るかすら分からないのに。
「あなたは、弟君のことを愛していらっしゃったのですね」
「どうだかね。ただ、人並みに大事にしたかったし、大切にしたかった。なんたって俺の弟だ。誰よりも可愛がりたかったし、色んなことを俺自ら教えてやりたかった。まぁ、そんな接点もなかったがな。俺の遊び相手は小十郎で、小次郎は生まれた時から母のもんになっちまった」
こうして酒を酌み交わしたこともねぇよ。
その感情の吐露は、思いのほか寂しく響いた。幸村は僅かに視線を下げたが、藤次郎も内心の動揺を覚らせまいと無意識に顔を伏せた。
「ちゃんと、通じていると思いますよ」
すっと、幸村の手が藤次郎に伸びて、頬を撫でて行った。まるで羽根が触れたような柔らかな手付きで、思わず藤次郎は顔を上げてしまった。幸村は相変わらずふふふと笑いながら、酒を飲み干すところだった。強い。用意した酒のほとんどが彼の中に消えて行ったが、幸村はいつだって、いつもより少しだけ柔らかくなった表情で笑うばかりだった。彼はそうやって、いつも酔ったふりをしている。
「弟という生き物は、兄の感情に過敏なのです。好かれている、大切に思っていただいている、気にかけていただいている、そういったことは、言葉がなくとも通じるものです。だからきっと、それ以上は何もいらないのです」
「…体験談か?」
「さぁ、どうでしょう?」
藤次郎の腕が、幸村の手首を掴む。零れてしまいます、と幸村が指摘しても、後で片付けるのは俺だからいい、と抵抗の言葉を封じ込んでしまった。幸村はそれ以上の反論をしない。いつだって、触れる藤次郎の好きにさせていた。今ならば、家臣たちの忠義の想いが分かるような気がした。ただただ、愛しいだけなのだ、好いているのだ。それ以外に、藤次郎は言葉を知らない。同時に、そんな面映い感情を向ける彼らを邪険にしないのは何故か。その想いの方が、藤次郎には馴染み深いものだったろう。今はもう、随分と久しい感情ではあるものの。そうして、己の為に尽くそうとする者たち一人一人が、ただただ可愛らしいのだ、愛おしいのだ。幸村も、そうではないだろうか。だからこうした、可愛い無体を許すのだ。甘噛みで好意を表す子犬のようではないか。
「あんたなら、どうする。あんたが小次郎の立場だったら、あんたはどの道を選択する」
嫌な質問だな、と藤次郎自身思った。けれども幸村は嫌な顔一つせず、その答えを口にした。悩むことなど愚問、答えなど一つしかない、といったような様子だった。
「腹を切ります。これが最良でしょう。兄上の為にも、もちろん、お家の為にも」
***
11/08/15