「あいつらはきっと、殴り合いの喧嘩なんざ、したことがないだろうな」
そう酒を片手に呟いたのは清正だった。正則は清正の視線の先に目をやって、
「ああ?」
と、大声で唸った。視線の先には三成を挟んで兼続、幸村の姿があった。清正のいう"あいつら"とは、由緒正しい上杉家の筆頭家老・直江兼続と、今は亡き武田信玄に小姓として仕え一人前のもののふとなった真田幸村のことだろう。武家として厳しく躾けられている二人は、砕けた酒宴の席でもどこか凛としており、品がある。端的に言ってしまえば、そういったことが付け焼刃の清正たちの僻みだ。ぴんと伸びた背筋だとか、胡坐をかいていても整って見える所作だとか。自然と身につけているのがよくよく分かった。
「つまんねぇ、」
「は?」
清正はてっきり、正則からの同意があると思ったのだが、この男はこの男で、清正の予想外のことを仕出かすこともあって、今がまさにそうだった。
「つまんねぇって言ってんだよ!殴り合って取っ組み合いの喧嘩してこそ、男の友情ってもんだろうが!そんなん、つまんねぇ!問いただして来る!」
あっおい!と声で引き止めはしたものの、それで通じるのなら長年苦労はしない。足音を響かせて三成たちに近付く正則に、清正も続くしかなかった。
「おい」
と、話しかけられて、機嫌を損ねぬ人間は、そういない。三成はその筆頭で、気持ち良く気の合う友人たちと呑んでいたところにそう呼びかけられて、三成は見る見る表情を険しくした。正則はそんな三成の表情は気にしない。何かと衝突が多い二人だが、存外に一緒にいることが多いのだ。正則はよく三成にちょっかいを出すし、三成は三成で口でちょっかいを出す。決して仲が悪いわけではないのだ。
なんだ、とすら言いたくないのか、三成が正則を下から睨みつける。もちろん、正則は慣れたもので、怯むことはなかった。正則はその場にしゃがみこみ、兼続と幸村の顔を交互に覗き込んだ。馬鹿が、顔が近い!と三成の扇子が正則の膝を叩いたが、正則はびくともしなかった。
「お前ら、殴り合いの喧嘩もしたことねぇの?」
唐突に、そう訊ねた。幸村は意図が分からず三成へと助けを求めて視線を寄越し、兼続は兼続でお前の家族は面白いな、愉快愉快と笑っていた。三成が、幸村の救援要請を受けて、
「意味が分からん。馬鹿げた言動は慎め」
と、乱暴な言葉を投げつけたところで、正則を清正が回収した。しゃがみ込んでいただけの正則を、横から突き飛ばしたのだ。折り目正しい二人に、これ以上情けないところを見せたくはない、という意地が、清正はもちろん、三成にもあった。
「すまん。こいつの言ったことは気にしなくていい。酔ってるんだろう」
そうして、正則を引き摺っていこうとする清正を、兼続の声が引きとめた。
「一度だけ、ありまするぞ」
清正が思わず動きを止めてしまったように、三成もまじまじと兼続の顔を眺めた。兼続は平素から義だ愛だ気概だと口やかましい男ではあるが、おおらかな性質で、滅多に怒ることはない。思わず呆けるのは仕方がないことだったろう。けれど、馬鹿一人はそうではなかったようで、
「マジで!」
と、清正の腕を振り払って、兼続に向かって身を乗り出した。男同士の熱い友情は、ガチの喧嘩してこそ、と思っている節がある正則にとって、その告白はとても重要なものだったのだ。兼続はふふ、と笑って、
「まだ幼き頃、景勝様とですな。一度きりだが、ゆえに記憶によく残っておりまする。私の惨敗でした」
私も景勝様も若かったなあ。
そう、まるで美しい思い出を語るように目を細めている。殴り合いというのは、言葉の通り、殴って殴られて、である。あの無口で思慮深い上杉景勝が何より近くに置いている兼続を殴ったというのも驚きものだが、その主を殴ったというのもまた、驚きだ。驚いた、どころではない。瓢箪から駒ぐらいのとんでもな話だ。
「景勝様が勝ったのですか?」
幸村だけが、全く驚いた様子もなくそう更に訊ねる。そうとも!と会話の中身とは全く不釣合いの朗々とした声で相槌を打つ兼続。侮れない、とは思っていたが、やはりこの二人、常人である三成(と思っているのは三成だけだが)にはどこか計り知れないところがあった。
「さ、さすがだ、兼続。これぞ忠臣の鑑だな」
なんとか三成がその言葉を吐き出してはみたものの、彼の言葉はまたしても三成の予想の外にあった。
「はっはっは、そんな高潔なものでもないぞ!言っただろう幼き頃だと。単純に、体格差で敵わなかっただけだ。互い、負けず嫌いであったからなあ」
この主従、四つ程景勝の方が年嵩だ。幼き頃と言う兼続の言を信じるならば、幼少期の四年は大きな差だったろう。そ、そうか、と声を絞り出すしかなかった三成を尻目に、今度は兼続が訊ねる。
「幸村はどうなのだ?」
幸村は誰がどう見ても温厚な青年で、人質として大坂に送られた当初は、父の評判もあり、色々と悪し様に言われたものだ。だが、一度とて喧嘩沙汰の噂を聞いたことはなかった。手よりも口が出る三成と、無意識に手が出てしまう正則、それよりも先に相手を睨みつけてしまう清正とは違い、幸村はそれらを笑って受け流していた。だからきっと、幸村はそういった経験はないだろう、と信じていたのだろう。ちらりと清正の顔を窺えば、三成と同じような思いのようだ。お前は期待を裏切ってくれるなよ、とでも言いたげな視線は、残念ながら三成にも通じるものだった。
「一度だけ、あります」
がくり、と三成・清正が同時に肩を落とした。正則は反面、目を輝かせ、兼続はただの世間話をしているような様子だった。場の一角が明らかに異質だったが、周りはそれを遠巻きに眺めるだけだった。
「して、その相手は?」
信玄公ではないだろう。もしかしたら、あの女忍びかもしれない。けれど、激昂したからといって幸村が女に手をあげることができるだろうか。
幸村は少しだけ視線をさ迷わせて、あっ、と声を発した。
「あんたら、何してんですか」
と、いかにも軽い調子で現れたのは、左近だった。もしかしたら、誰かに様子を見てこいとけしかけられたのかもしれない。確かに、彼以外にこの面子に声をかけられる者はいないだろう。
「左近どのです」
真っ先に、左近が首をかしげる。唐突に名を出されて、よく分からないのも当然だ。他の面々も、何の話をしていたのか分からなくなってしまう程度に、その名は予想外だった。
「俺がなんだって?」
「一度だけ、派手に殴り合いをしてしまった相手です」
げっ、と顔を顰める左近に、ああ本当なのだな、と誰もが覚った。
「わたしから殴りかかったんですが、あの時は大変でした。三日は顔の腫れが取れなくって」
しかも顔を殴ったのか!
まず三成がゆらりと立ち上がって、左近の胸倉を掴んだ。だがそこは身長差が残念ながらあって、傍目は左近に縋っているように見えなくもない。ただ、三成の据わった目を正面から受けている左近は、じわりと背中にいやな汗をかいた。三成が幸村を大切にしていることは、最早周知の事実だ。
「お前っ、よくも幸村を傷ものにしたな!しかも顔、顔を殴ったのか!よくそんな非道なことができたものだ!」
それは清正も同感だったが、三成の怒りとはまた別のところにある。清正にしてみれば、よくあの整った顔を殴りつけることが出来たな、だ。清正だったら躊躇う。男の顔だ、傷の一つや二つ、とは思うが、目の前にしたらきっと無理だろう。
ちなみに、正則は、すげぇカッケー!とよく分からないはしゃぎ方をしている。これはきっと、無視して良いだろう。兼続も三成同様、幸村を大事に思っている一人だ。同じように立ち上がるかと思えば、何やら嬉しげに頷いて、これぞ義だ!と、やはりよく分からないことを言っている。
と、そうこうしている間にも、三成の怪力にじわじわと締め上げられている左近は、それどころではなかった。殿、落ち着いてください、と言いたいが、割かし、呼吸が苦しい。
「三成どの!お、落ち着いてください!わたしだって左近どのを殴ってますので、おあいこなんです!」
しかも、頬の傷目掛けて、と言いながら三成の背後から、羽交い絞めにするように三成に抱き付けば、三成もようやく左近から手を離した。三成が力を抜けば、幸村も三成の身体を解放した。とことん、じゃれあいが多い面々である。
「あの節は、色々すいませんでした。わたしが未熟でした」
「いや、それに応えちまった俺も、まだまだ若かったしな。ただお前の一撃は効いた」
奥歯が欠けちまってなぁ。今もそのまんまだ。
そう言いながら、左近は頬の傷をさする。もう何年も前の話だ。痛みはないし、もちろん、何のわだかまりもない。こうして笑い話に出来る程度のものでしかない。
ふっ仲良きことは美しきかな。
そう兼続がまとめようとしているのを聞いていたが、三成には反論する気力もなかった。丁度目が合った清正が、同じような顔をしていた。やはり、計り知れん。三成は内心でそう呟くほかなかったのだった。
***
義トリオ+三馬鹿がわいわいやってたら可愛いよねぇぇ!!
11/09/05