清正の家の朝はとにかくせわしない。小柄な母はよく動く人で、二階で眠っている兄たちを起こす為に、何度もリビングと二階を行き来し、その間に掃除洗濯食事の用意をてきぱきとこなす。せめて多少の助けになればと、清正は兄弟の中では一番に起きて、お茶を淹れたりご飯や味噌汁をよそったりする。長兄である三成の部屋から漏れる目覚まし時計の電子音をBGMにすることは、そうそう稀な話ではない。よくもまあ、あのひどい騒音の中で睡眠にしがみ付いていられるものだと呆れる程だ。そろそろ食べ始めないと学校に間に合わない、という時間帯になっても、中々兄たちは下りてはこない。清正は構わず、手を合わせて食事を始める。いつもだったら、清正が食べ終わる頃にどたばたと正則が下りてきて、清正が玄関で母にいってきますを言っている時に三成がようやく一階に姿を現す。けれども、今日に限ってどのような奇跡が起こったのか、清正が一口目に味噌汁を啜ったタイミングで三成が姿を見せた。まだ完全に覚醒しきっていないようで、目つきは通常の二倍増しで極悪、絡まりやすい髪質の三成の髪は見事に寝癖でぐしゃぐしゃだ。それでも食欲はあるようで、清正の斜め向かいの指定席に座って、清正がつけた味噌汁に手を伸ばしている。
「おはよう」
 と、叩き込まれた挨拶を言えば、三成も条件反射のように、ちらりと清正を見て、「ああ」と無愛想な声を出した。これが、高校では中々に人気があるというのだから、よく分からない。確かに顔は整っているし成績もいいが、それ以外の要素は平均以下だと清正は思っている。生徒会長がお兄さんだなんてうらやましい、と三成を遠目でしか見たことはない人間ほどそう言うが、完璧なのは本当に見た目だけなのだ。

 つらつらと考え事をしながら食事をしていたら、三成の方が早く食べ終わっていた。流しに食器を片付けて、さっさとリビングを後にする。小さく「ごちそうさま」と呟いた声が清正まで届いていたとは、三成も思わなかっただろうけれど。
 ちらりと時計を見れば、余裕を持って登校する清正から見ても少しばかり早い時間だった。廊下ですれ違った正則もそう思ったようで、「お、三成、珍しく早ぇじゃん」と寝起きとは思えない大声を発していた。
 正則が起き出したおかげで、どうにか一区切りついた母もリビングにやってきて、三人での食事となった。三成は早々と支度を終えているようだが、髪についた寝癖直しに四苦八苦しているようだった。いつもだったら、簡単に梳かしてワックスで適当にまとめてしまうのだが、今日はやけに気合が入っているようだ。正則がにやにやとそれをからかって、三成も負けじと怒鳴り返しているが、その手は流れに逆らってはねてしまった髪を直そうと躍起になっている。
「三成、どうかしたのかぁ?」
「知らん。さっさと食え。遅刻するぞ。あと、口に物が入ってる状態で喋るな」
 なんだよ、つれねぇなぁ、とブツブツ文句を言いながらも、味噌汁でご飯を流し込む。母はそんな三成の様子に心当たりがあるようで、嬉しそうににこにこしている。
「そりゃあ、今日からまたあの子と一緒だもの。気合が入って当然だよ」
 あの子?と清正が訊ねるより早く、ピンポーンとインターフォンが鳴った。母が慌てて立ち上がったが、駆けつけるより先に玄関のドアが開く音がした。母を追いかけるようにリビングから顔を出す。正則もどうしたどうした、と清正が顔を出した上から、清正に半ば圧し掛かるように顔を覗かせている。リビングから玄関は直線の廊下で結ばれているので、ドアを開けてしまえば、こちらの様子もあちらの様子も筒抜けだ。

『おはようございます、三成さん』
『ああ、おはよう』
『少し早かったですか?』
『いや、問題ない』
『まだ支度途中でしたら、待っていますよ?』

 会話の相手は残念ながら、三成が遮ってしまって見えない。ただ、声の質は柔らかいが、明らかに男だ。はきはきと喋る分、こちらにまで会話の内容が聞こえてくる。どうやら右サイドの寝癖を指摘されたようで、三成は誤魔化すようにそこを押さえつけている。

 聴こえる声に、既視感を覚える。自分は、この優しい声の持ち主を知っているような気がするのだ。相手を気遣った柔らかな物腰を。どこか遠い昔、いや、最近のことだろうか。

『いや、いい。どうせ直らん』
『三成さんはきれいですから、確かにいらないお節介でしたね。多少寝癖がついていても、三成さんの本来のものは全く損なわれませんから』

「おやまあ、すごい口説き文句だねぇ」
 母が二人のやり取りを微笑ましそうに眺めている。正則が清正を押し退けるように前に出てきて、必死に相手の姿を見ようとしているが、三成が邪魔で見えない。三成越しに見えるものといったら、相手の黒髪の頭部だけだ。

「三成は昔っからあの子には頭が上がらなかったものねぇ」
「あの、あの子、というのは?」
 正則を押し退けて、清正が母の隣りに立つ。二人のじゃれあいはいつものことなので、母も特に何も言わない。
「あれ、言ってなかったかい?幸村だよ幸村。五年前に引っ越ししちゃった、真田さん家の。三成と同級生で、お前もいっぱい世話になったじゃないか」

 幸村、と言われて、夢の中の女の子の笑顔が唐突に脳裏に蘇った。いや、あの、女の子、なのだけれど、

「幸村、って、ありゃあ、男じゃないッスか」
 またしても、正則がにょきりと顔を出す。あれ、と顎で示したのは、三成とむず痒くなる会話をしている相手だ。正則の仕草はどう見てもチンピラのそれだったが、清正も同様に思っていたので、口を挟まなかった。だって、確かに幸村がスカートをはいていることはなかったと思うが、ランドセルだって赤かったし、大そう可愛らしい子だったのだ。幸村の笑顔はこちらまで幸せにしてくれる、あたたかいもので。

「何言ってるんだい。幸村は昔っから変わらずに、男の子だよ」

 清正の初恋は、今度こそ、呆気なく砕け散ったのだった。





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12/07/15