煌々と焚かれている浜松城の明かりを視界に捉えながらも、武田軍は撤退を決めた。主・浅井長政の命で武田軍の与力として、今回の戦に参加していた藤堂高虎は、殿(しんがり)を務める真田幸村へと馬首を向けた。戦場では常に先頭に立ち勇猛に槍を振るい相手を圧倒する幸村だが、その横顔は高虎より幾分か若く見えた。初陣を済ましたばかりの青年の若々しさを彼は多分に持っていたが、その実、既に戦場という異常な空間に慣れきっていることは簡単に見て取れた。彼の横顔は至極落ち着いており、転がっている死骸を見つめるその瞳は、むしろ冷ややかだった。戦場の熱気に飲まれて興奮に頬を紅潮させることもなく、彼の端正な顔は顔色一つ変えることなく、馬の上で揺られている。
「高虎どのは、これからどうなさいますか?」
じっと眺めていることに気付かれたのかと思ったが、幸村の顔は正面を向いたままだ。元々気配に敏いのだろう。高虎が馬を寄せやすいように、馬を歩かせている速度が緩やかになった。
「長政さまは、武田の手助けをしてこい、と仰せだった。まだ、俺自身、力を出し切っていない。もうしばらく厄介になろうと思うのだが」
「わたしは、お戻りになった方がよいかと思います」
幸村は少しだけ顔を俯けてから、ゆっくりと高虎へと顔を向けた。今さっきまっで、声を張り上げ槍を振り上げていた人物とは思えない程、彼の纏う空気は静かだった。やわやわと風が凪ぐ。彼から漂うにおいには、血の腐臭がべとりと染み付いていた。よくよく見れば、髪にも具足にも、もちろん槍の穂先にも、赤が滴っている。
幸村の主である武田信玄が、戦の最中、徳川の忍びの手によって負傷したことは、その忍びが戦場中を吹聴して回ったせいで、皆が知ることとなった。たまたま幸村の近くに陣取っていた高虎は、幸村と共にその流言を聞き、遅れて幸村配下の忍びから正確な報告を受けた。幸村は兵を鼓舞し、激しい雄たけびと共に猛然と敵勢へと襲い掛かった。今から四半刻もせぬ前の話だ。その片鱗が、幸村の空気にはもう既になかった。
「何故だ」
「これから、色々と荒れるでしょう。武田も、今まで通りにはいきますまい。この混乱は、武田だけに納まりきらぬと思います。あなたは、あなたの一番大事なものの為に、その腕を振るうべきです」
幸村の声はあくまで冷静だった。武田という偏った立場に捉われることなく、全体の戦局が見えている。武田が一時でも機能しなくなれば、信長包囲網は無意味となる。その隙を見逃す信長ではない。その反撃ののろしとなるのは、果たして他の勢力に比べて軍勢の少ない浅井か、それとも混乱にある武田か。幸村の言いたい事は、高虎にも分かる。不可解なのは、幸村の冷静さだ。命に別状はないとは言え、敬愛している主が傷を負ったというのに、幸村の横顔はあまりに感情が平坦過ぎた。
「踵を返したその先に、お前の仇がいる。敵の総数は分からないが、大半は三方ヶ原に散っただろう。あの威勢の良いかがり火、俺は空城計の可能性が高いと見る。お前だってそうだろう。何故、攻めない」
高虎は手綱を引いて立ち止まる。幸村も、二三歩進んだところで足を止めた。
「武田の皆さまが決めたことですので」
幸村は振り返らない。その背はぴんと伸びていて、彼のもののふとして在り方がそのまま具現しているように見えた。もののふとして美しくあれ、と。彼の生き方の根底にある、暗示のような祈りのような、のろいのようなものだ。
「幸村。何故憎まない?何故激さない?敵討ちは十分な理由だろうに」
「怒りの矛先を誤るつもりはありません。徳川には優秀な忍びが付いていることを、我々は知っていました。数の上での不利を覆すに、敵方の大将を討ち取るのは有用だということも、もちろん知っていました。知っていながら、我々はその対処を怠りました。これは、我々の手落ちです」
「それでも、人はそこまで潔くなれない。割り切ることができない。幸村、あんたのように、」
うつくしいもののふであり続けることは、できない。
皆まで言えなかった。幸村が振り返ったからだ。幸村は笑みを浮かべながら、少しばかり遠くなってしまった味方の背を指さした。
「行きましょう。皆から遅れてしまいます」
その顔には、最早戦場で槍を振るっていた男の面影はなく、なんて男だ、と高虎を戸惑わせるには十分だった。この男はきっと、死ぬ最期の瞬間まで、もののふの美しさを貫こうとするだろう。確かに、彼にはその決意がよく似合っていた。ああけれども、彼を慕う周りの者にとっては、彼の唯一の決意は悲劇にしかならないだろうと、高虎は思ったのだった。
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12/12/02