はあ、と誰もいないことを確かめてから、高虎は小さくため息を吐き出した。疲れているという自覚はあった。任されている仕事はそう多くはないのだが、精神が参っていた。ようやく腰を落ち着ける居場所を見つけたと思っていたのだ。これは、と思う主を見つけたと思ったのだ。それが、病で伏せっきりになり、明日の命も知れずとなるなど、誰が予想できただろう。既に助からないと分かっていた。医術の心得はないが、あの方の顔色を見れば一目瞭然だ。どうすることも出来ない己がもどかしかった。浅井が織田に攻められ、落城の日を鬱々と待たされていた、あの日に心持ちは似ていた。ああ今日という日を生き延びることができた、明日は果たして生きているだろいうか。そうして死をただ待っていることしか出来なかったあの日。己は、無力だ。過去も現在も、それは変わる事がない。

「高虎どの、今、少々よろしいですか?」

 唐突に姿を現した幸村に、高虎は面白いぐらいに動揺してしまった。ため息を聞かれてしまったかもしれない。が、それを訊ねることはできなかった。振り返った高虎を見て、幸村は一瞬僅かに目を細めたが、そこで言葉が飛び出すことはなく、すぐにいつもの穏やかな笑みに変わった。

「別に構わない」

「では、少し出掛けませんか?馴染みの店主から、穴場を教えてもらったんです」


 高虎は幸村が促すままに町外れまでやってきた。人々の喧騒は遠ざかり、色濃い山のにおいが空気に混じるようになった。ああいつの間にか春になっていたのだ、とようやく気付いた。幸村は高虎の数歩先を歩いている。ぴんと伸びた背筋、きびきびと動く手足。彼は、何も変わらない。彼の旧主である武田信玄は、三方ヶ原で負った怪我が元で病が悪化し、そのまま帰らぬ人となったと聞く。主が日々死へと近付くその様を近くで見て、この男は何を思ったのだろうか。

「ここです」

 幸村はそう言って足を止めて振り返った。まるで仲間外れにされたかのように、桜の木が一本だけ生えていた。見事に満開を迎えていたが、両手を広げるように大きく枝が伸びていても、やはり一本しかない物足りなさは拭えなかった。さびしいな、と思った。一人でこれを眺める幸村の後ろ姿を想像してしまったからだろうか。
 桜の木の側には腰掛けるのに手ごろな石が転がっており、二人はそれに腰を下ろした。

「秀長さまの容態はどうですか?」

 幸村は高虎の方は見ずに、桜を見上げたまま訊ねた。高虎もまた桜を見上げていたが、その視界の端には、幸村の姿を捉えたままだ。動揺に気付かれるのは嫌だったし、表情を読まれるのもまた避けたかった。故の警戒だ。幸村と親しくなりきれないのは、この高虎の性質も関係しているのだろう。何故だか、彼に完全に心を許すことができなかった。

「皆で必死になって看病しているが、中々…。むしろ、俺たちがあまりに心配するものだから、秀長さまに気遣われる始末だ」

「じわじわと人が死んでいく様を見るのは、おそろしいことですから。それが大事な人なら尚更で、それなのに、目をそらすことができないから、余計にこわい。人を殺すことに慣れても、訪れる死に怯えずにはいられません」

「あんたでも?」

 意外なことを聞いた、と思った。それが思った以上に言葉に乗ってしまったようで、咄嗟に飛び出た言葉に、しまった、と思ってしまった程だ。幸村は少し首をかたむけながら高虎を見やり、ええ、と微笑んだ。笑うところではないだろうに、彼はきっと、それ以外の表情を知らないのだ。

「追い腹を、切ろうと思っていたのです。いえ、そうするのだと、そうなるのだと、信じ込んでいたのです。誰に言われたのではなく、ああ自分はそうするだろうなあ、と本当に思っていたのです」

 お館様は、

 幸村は桜を仰ぎ見たまま、静かに目を閉じた。彼の声に動揺はなく、揺れる感情の欠片一つもなかった。彼の声はあまりに平坦で、彼の言葉の意味が緩慢に高虎に届いた。言葉を頭で繰り返して、ゆっくりと嚥下しなければならなかった。

「お館様は、幸村のことをわたし以上に理解していました。わたしの手を握りながら、それだけは駄目だと、それだけは許さぬと。一人で起き上がることすら出来なくなってしまったのに、強く強くわたしの手を握り締めながら、」

「幸村、」

 幸村の言葉を遮ろうと名を呼んだが、幸村はゆるゆると目を開いただけで、彼の言葉は止まらなかった。こんなことを、訊きたいわけではなかったはずなのに。

「わたしは、昔から不出来な子で。人の役に立てるような知恵もなく、これといったとりえもありません。それならば、わたしは生きて死ぬまでを全うしようと。死ぬその瞬間まで見苦しくないように、みっともなくないように、と。わたしの些細な意地です」

 さぁ、と風が吹いて、桜がひらひらと舞った。この様を人は美しいという。果敢ない、哀しい、淋しい、故に美しい、と。幸村が求める最期とは、即ちそういうことではないだろうか。散る時に一斉に、いっそ呆気ない程未練なく散ってしまうから、桜という花は美しいのだ。幸村の纏う潔さや果敢なさは、無意識に桜を連想させた。淋しいと言って泣く人がいることを知りながら、それでも哀しげに微笑みながら、その歩みを止めはしないのだ。いかにも彼らしい。それが嫌だと思った。幸村自身が言ったのだ。人がじわじわと死んでいく様を眺めるのは、おそろしいことだ、と。

「あんたは、自分自身のことが余程分かってないな。誰も真田幸村をつかまえて、無能だとは言わないぞ」

「必死になって、繕っていますから」

「そうか?俺には、あんた程、自然体の人間はいないと思うが?」

 幸村は、そうでしょうか?と首を傾げる。高虎は、己の言葉が彼の心に響かない歯痒さを思い知って、口を噤むのだった。





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今まであんまり言及したことがないところに、初めて切り込んだような気がします。気がするだけで、読んでる人は、デジャブーとか思ってるかもしれませんが。毎度長くてすいません。
12/12/03