隙間なく閉ざされた障子は、見えない結界が張られているかのような、えも言えぬ息苦しさを感じさせた。慶次は彼の部屋の前の障子を睨みつけながら、ピリピリと肌を刺激する空気に、思わず伸ばした手を止めた。大きく息を吸い込み気合を入れ、声をかけるより早く、その結界を壊すように、乱暴に障子を勢いよく開け放った。小気味良い音は、まるで四方を守っていた何かしらの呪物を破壊した音のように、高らかに響いた。
「慶次、声ぐらいかけたらどうだ。」
「気付いてたんだろ?必要ないさ。」
 兼続は慶次に背を向けたまま、一瞬も手を止めることなく書き物を続けている。さらさらと筆が紙を撫でる音が、いやに大きく聞こえた。
 慶次はしばらく兼続の背を見つめていたが、筆の音を掻き消すように大袈裟にため息をついて、足音を立てて入室した。腰を下ろした場所からは、兼続が必死になって何を綴っているのかまでは見えなかった。
「出陣の刻限が迫ってるんじゃないかい?のんびりしてていいのかねぇ?」
「ああもうそんな時間か。準備を急がなければな。優先順位を間違えてはいけない。」
 ふぅん、と相槌にしては鼻につく、独り言にも似た呟きは、兼続の一瞬の動きを止めることに成功した。兼続が、何が言いたい、と眉を顰めて振り返る。慶次は彼の不機嫌に素知らぬ振りをして、芝居かかった動作で肩を竦め一言。
「優先順位。」
 兼続にはその一言で通じるだろう。慶次の予想通り、彼は慶次の言いたいことを瞬時に覚ったようだった。ため息と共に吐き出された彼の表情は、年齢以上の老成さが感じられた。もしくは、そう見間違える程の疲労が彼に蓄積されているだけなのかもしれない。関ヶ原を生き抜き、徳川の世で身を縮めながらも体裁を保っている上杉家の家老となれば、疲労もひとしおだろう。
 慶次はそうまでして上杉家を護ろうとする兼続の想いが分からなかったし、理解も出来なかった。また、彼に訊ねることもしなかった。もののふの生き様を愛した慶次だが、一つの家に(もしくは人に)固執することが出来なかったからだ。忠義の美しさを純粋さを愚かさを好いてはいたが、それが己の心に生まれたことはなかった。慶次はもののふである以上に、根っからの戦さ人だからだ。

「どうせなら三成が、あの子も共に連れて行けばよかったのだ。」

 兼続は机の上を片付けながら、事も無げにそう呟いた。慶次は相槌すら打たず、兼続の手の動きをじっと見つめている。兼続は先程まで一心不乱に書き殴っていた手紙を、乱雑にたたんでいる。彼にとっては、その文も、上杉家以上に大事なものではないのかもしれない。
「あの男は気が利かぬゆえ、私もあの子も、今こうして苦しんでいる。生きるということは、こういうことだ。何度絶望しただろう、何度歓喜しただろう。その繰り返しだ。私たちは何度繰り返せばいい?慶次、お前に私の苦悩は分かるまい。だが同時に、あの子の痛みもまた、理解できまい。」
 兼続は冷たい声で言い放ち、慶次に向かって文を投げ捨てた。あて先は書いていない。だが慶次は、彼の心を揺さぶる存在を知っていた。友であった、同志であった、好きだと囁き、抱き合い、そうすることを互いに疑問を抱かぬ程度の親密さがあった。以前は気安い幸村という名が、随分と遠くなってしまった。
 慶次は投げ捨てられた文を丁寧な動作で拾い上げる。その間に、既に兼続はこちらに背を向けていて、丁度襖溝をまたぐところだった。
「これは俺に、渡して来いってことかね?」
「さぁ、どうだろうな。判断は任せる。」
「そうかい。」
 慶次は手にある文をじろりと一瞥して、さっさと懐にしまった。生憎、他人の手紙を盗み見るような良い趣味は持っていない。
「あんたの愛は苦しすぎる。」
 兼続の苦悩は分からずとも、兼続を苦悩させているその根底にあるものを知っている慶次は、咎めるようにそう呟いた。しかし兼続は先程の、老成したとも、ただ単に疲労しているようにも捉えられる表情を浮かべて、頬の筋肉を僅かに持ち上げた。笑おうとしているのだと理解するのに、結構な時間がかかってしまった。

「だが、あの子を苦しめているのは、愛などという愚かなものではない。」

 慶次はもう一度、「そうかい。」と力なく応え、兼続が去るのを眺めるしかなかったのだった。戦の準備は粛々と整いつつあった。







『 拝啓 愛しの友へ 』










 迷いに迷って、結局くのいちは慶次から預かった文を主に渡してしまった。まさに、渡してしまった、と言うほかない。決して仲の良いとは言えぬ傾き者から、馬が合わなかった三成以上に険悪さを漂わせる男の文を預かったのは、気の迷いとしか言えないだろう。けれどもくのいちは、何もその男の橋渡しをさせられたことに後悔しているのではない。その文を眺める主の姿を見て、初めて後悔に襲われたのだ。
 くのいちは、主である幸村の横顔を眺めながら、ふいに泣きたくなってしまった。雰囲気に聡いはずの主は、くのいちの変化に気付く素振りすらなく、いつまでもいつまでも、紙面に目を落としている。その表情はあくまで穏やかであったが、幸村をよくよく知っているくのいちからして見れば、感情を露にすることに疲れてしまっているように感じられた。怒るにも悲しむにも喜ぶにしても、心を躍動させるには、膨大な労力が必要なのだ。
「幸村さま、」
 そう控えめに声をかけてみたものの、幸村から返事はない。くのいちは一度として己と幸村との間の絆を過信したことはなかったが、くのいちの声すら届かない場所に立っている彼に、くのいちはどうすることも出来ず途方に暮れた。泣き叫べば、鈍い彼も振り返ってくれるだろうか、その文から意識を手放してくれるだろうか。けれどくのいちが持っている涙は血が滲んだ醜いものでしかなく、たとえこの世の全ての人にその愚かさを醜さを見世物にされても、主にだけは見られたくはない。その感情を、誰かは恋と呼んで慈しんだが、くのいちにしてみればただの醜悪な執着でしかなかった。そして、同じような執着を、あの男もまた持っているのだと、くのいちは漠然と理解していた。
「幸村さま、」
 再度くのいちは呼びかけ、強引に彼の手の中にある文をもぎ取った。破れてしまっても構わない、むしろそうなって欲しい、と無理矢理に主の手から奪い取ったはずなのに、文には主の指の痕と折り目が歪に正しくついているだけで、くのいちの望んだ効果はどこにも刻まれていなかった。思わず舌打ちをすれば、幸村がどうした?とくのいちの顔を覗き込む。ああやめてくれ、あの男が書いた文字をたった今まで映していた眼で、こちらを見てくれるな。くのいちはスッと顔をそむける。思わず力のこもってしまった手が、ぐしゃりと紙切れを握り締めていた。
「くのいち、」
「やっぱり渡すんじゃなかった。こんな紙切れ一つに一喜一憂するぐらいなら、いっそ受け取るんじゃなかった。受け取ってしまったのなら、さっさと燃やして灰にして、海に流してしまえばよかった。」
「くのいち、」
 幸村の声は変わらず優しい。けれどその中に、やんわりと、けれどもはっきりとした咎める調子が含まれていて、くのいちは余計に苦しくなってしまった。返しなさい、返して、と言われているような気がして、くのいちはぎゅうぎゅうと呪物を握り締めている力の行き場を失った。
「この男はさっさと幸村さま見捨てたのに、どうしてまだこの男の存在にもたれかかろうとするの?この男は、あの狐すら見捨てたくせに、どうしてまだ、幸村さまとの繋がりがあるって勘違いしてるの?図々しくって見てらんないよ!」
 幸村はやはり無言で、困ったように微笑むことしかしてくれなかった。仕方がないなぁと言いながら、この人がどれほど多くのものを諦めてきたのか、捨ててきたのか、落とした振りをしながらわざと、そうわざと置き去りにして、どれほどの人を惨めにしてきたのだろう。
「兼続どのは、わたしを討ちに来るわけにはいかないだろう。わたしの最期は、決してあの方のものにはならないだろう。だから、くのいち、それで許してくれないか?」
 そう、口調ばかりは穏やかな、そのくせ有無を言わせぬ声で、幸村は手を差し出した。返しなさい、さあさ、返しなさい、返して。確かにわたしとお前は、とても近い。いいや、『近い』という言葉と『同化』という言葉の間にあるような、それ程までにわたしたちの間を隔てるものは無きに等しいけれど。こればっかりは譲れない。いいや、これはわたし唯一の問題でしかなく、お前は嘆くかもしれないけれど、お前には全くの無関係なのだ。さあ、その文が皺くちゃになってしまう前に、わたしの手にそれを乗せて、お前は遠くでお泣きなさい。
 くのいちは目が合った瞬間、幸村の心を感じ取り、どうすることも出来ず、促されるままに幸村にその文を返すしかなかった。どうして誰も、この人に悲しい苦しいと涙を流すことを教えてくれなかったのか。そう嘆いたところでこの人の絶望が軽減できるはずもなく、くのいちは己の無力さに喘ぎながら、その場を後にするのだった。











この話を書き始める時にまず、過酷という言葉の意味が難しくって、うんうん唸ってました。ひどい話はよく書くんですが、過酷となるとレベルが上がってる気がするんです。日本語ムズカシイネ。過酷を辞書で引いて、細かく砕いていくと『厳しすぎる・ひどすぎる』になりました。また、『苛酷』にも変換できて妙に『無慈悲』という言葉が印象に残っちゃいました。どっちかっていうと、『過酷』よりも『無慈悲』重視の話になりましたが、少しでも気に入って頂ければ(陰気な話ではありますが)幸いです。リクエストありがとうございました!

08/12/31