武蔵は幸村の横顔を見つめる度に、隙のない奴だなぁと、とつい心の中でぼんやり呟いていることに気付く。むしろその横顔は隙がはっきりと見えていて、幸村の顔をつつくにも、身体をくすぐるのも容易だろう。だが武蔵の思う、隙のない、とはそういった類のものではない。
例えば、武蔵が何気ない口調で、「どうしてお前は大坂の戦に加わったんだ?」という問いに、「さぁ?何故だろう。実はわたし自身よく分かっていないんだ。」と答える。そんな風に返されると、武蔵はもう曖昧に相槌を打つしかその続きを繋ぐ方法はなく、彼の核心に迫ることが出来ない。幸村はのらりくらりと武蔵の矛先をかわしている。けれどもそれは決して上手い方法ではない。幸村の逃げ口上は決まってどこか拙さを感じさせて、わたしの心に触れてくれるな、と常に気を張っているように見受けられた。武蔵は、幸村が表面に貼り付けている表情だとか言葉だとか、見た目で幸村の人柄を表現するものが、決してその心内を表しているわけではないことを、早々に知った。覚った、の方が正しいだろうか。
とにかく幸村は、必ずと言ってしまって良い程、己の心の中を見せようとはしなかった。だがそれは、武蔵の存在を拒んでいるのではない。幸村は武蔵が隣りに立つことを極々自然に許していたし、武蔵もその気安さに甘えていた。底の見えぬ幸村ではあったが、他人のあれこれに興味が持てぬ武蔵には丁度良かった。彼もまた、武蔵から武蔵個人のあれこれを訊ねてはこなかった。寂しいという感情より安堵の方が優り、冷たさと表裏一体の生温いやさしさを享受した。武蔵と幸村は、隣り合って存在しながら、お互い孤立していたのだ。
ひ と り よ が り 主 義
大坂の頂点に君臨する豊臣秀頼だが、時々、城の者の目を盗んで武蔵の元へ訪ねてくることがあった。武蔵は単純にそれを喜んだが、それを手引きする幸村は決して良い顔をしなかった。考えれば至極当然なことで、秀頼にもしものことがないとも限らないのだ。煩雑に人が入り乱れている城内であるからこそ、秀頼一人が数刻居なくなっても気付かれずに済むが、取って返せば、それほどまでに城内には様々な人があふれているのだ。その中には、当然徳川の間者も紛れ込んでいる。武蔵には直接関わり合いのないことだが、幸村率いる真田忍びが、既に何人もの間者を斬り捨てていると小耳に挟んだこともある。いくら優秀な忍びであろうと、全てを駆逐するのは不可能に近い。幸村はその危険性を知っている分、複雑な思いなのだろう。
秀頼は今日も武蔵と向かい合って、他愛ない会話を重ねている。幸村は周りの警備をすると言って、今日は珍しく同席していない。これは軍議で何かあったな、と武蔵はいらぬ詮索をして、すぐに首を振る。そこからは、己が踏み込んでよい領域ではないように思われたからだ。
「武蔵は、いつまで経っても幸村との距離が変わらぬな。」
「大将、そりゃどういう意味だよ?」
秀頼は無垢な笑みを浮かべている。歳の割りに、表情は幼い。蝶よ花よと育てられた証拠だろう。
「あの左衛門佐があっさり隣りを許した存在であるのに、いつまで経ってもそこから動かない。二人して、必死に今の距離を保とうとしている。幸村であれば、それも理解できる。幸村は、己のことを臆病者だと言っていた。だが、それに合わせる武蔵はなんであろう、と。」
「大将には、幸村がそう見えるのか?」
「さぁ、どうだろう。武蔵ばかり幸村を独占していて、あまり私とは話す機会はないからなぁ。」
「それは、」
どうだろうか、と思わず言いかけて、途中で口を噤んだ。確かに幸村はよく武蔵と共に居るが、それは何も武蔵である必要はない。城内のごたごたに嫌気が差しているだけなのだろう。そして、それを連想させる諸々とも顔を合わせたくないだけだ。後藤又兵衛然り、毛利勝永然り、目の前の豊臣秀頼もまた、然り、だ。
「大将の言葉は高尚すぎて、俺には理解できねぇよ。」
「そうだろうか。私は武蔵の心の思うままに吐き出される言葉の方が、よっぽど魅力的に聞こえる。」
「そんなこと言ってっと、母ちゃんにまた叱られるぞ。」
「そうだな。皆の頭痛の種だ。もちろん、その種には私も含まれているだろうけれど。」
「どこでそんな皮肉、覚えて来るんだよ…。」
「ふふ、私はもっと、世間勉強が必要だと思うのだ。」
では、そろそろお暇しようか、と秀頼が腰を上げた。あ、と咄嗟に声を出してしまったが、その先に続く言葉はない。彼の口から幸村のことを聞きたいというのは、決して間違いではなかったが、自分たちの間にある雁字搦めになった無言の約束事を破ってしまうような気がして、その先を訊ねることが出来なかった。丁度幸村も入り口から顔を覗かせている。秀頼を催促するつもりだったようで、武蔵はそれ以上声をかけることが出来なかった。幸村は秀頼と武蔵を交互に眺めて、小さくため息を吐いた。疲れているのか、と武蔵はぼんやりと思ったが、見上げた秀頼の横顔にも同様の疲労が刻まれていて、自分一人が蚊帳の外に居るような気がして仕方がなかった。
ここ数日で、大坂城内は随分と様変わりした。人も物も溢れかえっている。いよいよ開戦も間近なのだろう、すれ違う人々は忙しなかった。武蔵はその中を、特に目的もなく歩く。まるで己だけがその風景から切り離されているような気がして据わりが悪い。武蔵は彼らのように、何かに急かされて歩を早めることもなければ、疲労と興奮と不安がない交ぜになった感情を持て余しているわけでもない。ただ、入城した時と同じように、見知った顔の面々に会いに行ったり、そうやって掴まえた一人と鍛練をしたりして、日々を潰している。目的がないというのも、いささか考えものだなぁ、とぼんやりと空を見上げた。澄み切った空ののん気さを武蔵も見習いたかったが、生憎、周りは空を見上げることすら忘れているような忙しい連中ばかりだった。
そんな中、後藤又兵衛に呼び止められる。何事かと訊ねれば、幸村を探してきて欲しい、とのことだった。根は真面目だが面倒臭がりでもある幸村は、波風が立たない程度の息抜きがうまい。そんな調子で、軍議も出席したりしなかったりだそうだ。軍議自体に出席したことのない武蔵には、その場がどんな億劫が空間なのか想像するほかなかったが、あの幸村が逃げ出す程なのだから、相当に厄介な場に違いない。そもそも、女嫌いというか、苦手というか、そういう性質の武蔵にとっては、淀どのが同席している時点で、息も詰まる思いになること間違いなしだ。その口から小言ばかりが飛び出すと聞けば、幸村でなくとも欠席したくなる。そういうわけで、幸村はよくふらりと居なくなるらしい。居なくなったその行方が、時は武蔵の隣りであったり、町中であったりするのだ。又兵衛が武蔵を呼び止めたのも、彼が側に居ることに希望をかけたという理由もあるだろう。
探してきてくれ、と言われて、早々に武蔵は途方に暮れた。武蔵は幸村のことを何も知らぬのだ。例えば、彼が町中の贔屓の店がどこだとか、必ず行く場所だとか。そういった単純なことすら知らない。そもそも、武蔵は幸村の好みすら知らないのではないだろうか。武蔵は何故だか急に不安になって、町中を進む歩を速めた。
幸村を見つけたのは、偶然と言うほかない。賑やかな町中を抜け、町外れまで辿り着いてしまったのは、人ごみに酔ったせいだ。もともと、人の多い場所は好きではない。すれ違う人の、人寄せをしている人の、人生を考えると、もう駄目だ。人というものは重い。たった一瞬、すれ違っただけの人にも、己と同様もしくはそれ以上の人生の重みがあり、人の命の重みがあり、そんな重みを背負った人々で溢れている、この町。息苦しくて仕方がない、なんだか胃の辺りで何かが蹲っているような気がして、吐き気すら感じられた。そんな苦痛から逃げるように、人を避けて町外れまで早足で駆け抜けた。小川のせせらぎや、水車の音。決して人気がないわけではないけれど、自然に溶けるように共生している気配に、少し心が落ち着いた。そんな風景の中に、彼は居た。堤の上、簡単に作られた橋の、今にも崩れてしまいそうな手摺にもたれかかって、彼はじっと川の流れを見つめている。もしくは、その行為には意味はなく、ただ視線の先が川であったり、川魚であっただけなのかもしれない。だが、武蔵は幸村を発見しても喜ぶことが出来ず、その場で足が止まってしまった。
武蔵は幸村に貼り付けられた表情を凝視する。何て顔をしているのだろう、その表情の意味は何だろう。睨み付けるように見つめても、気配に敏いはずの彼は武蔵に気付かない。この世を儚んでいるような、否、この世に絶望しているような。表情には覇気もなければ、世界の極彩もなかった。今にも身を投げそうな、と嫌な言葉が脳裏を過ぎり、武蔵はつんのめりながら足を動かした。幸村が手摺に身を乗り上げたからだ。
(ああ馬鹿やろう、何考えてんだ、いや、何も考えていないから、あんな行動に出るのか?ああ畜生、間に合わねぇぞ!)
ちくしょう!と叫んだような気もする。必死すぎて、己の行動すらよく分からなかった。ただ必死になって幸村との距離を縮めて、背中から幸村の羽織りに掴みかかって、あとは力の限り、彼の身体を引っ張った。気付いた時には武蔵も幸村も橋の上で転がっていて、武蔵の荒い息が響いていた。幸村は尻餅をついた辺りを手で払いながら、立ち上がり様振り返った。そこには先程のような無表情は貼り付けられておらず、武蔵の良く知る、平和ぼけした隙のない幸村の顔があるばかりだった。
「…なんだ武蔵、どうしたのだ?びっくりしたじゃないか。」
「…びっくりって、そりゃ、俺の台詞だ!」
何だそれは、と幸村はからからと笑った。あの表情を見たばかりの武蔵には、この表情すら、作り物のように思えて仕方がなかった。
「それで、お前はどうしてこんなことをしたんだ?」
幸村の声に怒気は含まれておらず、どちらかと言えば好奇心で訊ねている様子だった。武蔵はようやく、己の勘違いであることに気付いた。誤魔化しても下手な嘘しかつけないと思い、武蔵は己の勘違いをそのまま告げた。幸村は怒るどころか大笑いして、目尻には涙まで滲ませている。なんだよ、そんなに笑うなよ、と唇を尖らせれば、悪い悪いと言いながらも、ちっともそんな素振りも見せず、また笑いも中々治まらぬようであった。
「ばっか野郎、そんなに笑うな。俺が馬鹿みたいじゃねぇか!」
幸村はまだ肩を震わせている。流石に居心地が悪くなって、武蔵はぷいと顔をそむけた。その時だ。
「人はいつか死ぬのだから、お前が勘違いしたとおり、今死んでしまえばよかったのかもしれないなぁ。」
武蔵は不穏な幸村の発言に驚いて、勢いよく振り返った。幸村と目が合えば、幸村はにこりと笑うだけだった。とても、あんな不穏な物騒な、投げ遣りな言葉を吐いた人物とは思えない。だが、これが武蔵の知っている幸村だった。表面と心が一致しないのだ。哀しい苦しいと嘆いた振りをしてみても、彼の顔はいつも笑みで構築されていて、武蔵にはどちらが本音か分からない。分からないのは、武蔵だけだろうか。幸村もまた、己の感情にすら鈍感になっているのではないだろうか。
「いつか死ぬって受け入れる体勢が出来てるんなら、何もそんな、死に急ぐ必要はねぇだろう。」
「そうして、受け入れる体勢を整えたまま待ち続けて、擦り切れてしまった人を知っている。あれは、まるで、拷問だ。」
幸村はそうして、先程と全く同じ、何もかもの表情を脱ぎ捨てて、あるいは無表情を貼り付けて、ただ茫洋と水面を見つめた。武蔵は思わず、その横っ面を殴りつけたくなったが、その衝動に支配されるより先に幸村がくるりと振り返り、又兵衛どのが呼んでいたのだろう?と武蔵の目を覘き込んできたものだから、武蔵は何とか彼に殴りかからずに済んだ。武蔵が頷いたのを確認した幸村は、厄介だなぁと言いたげに重たい、けれども気軽いため息を吐いて、さぁ行こう、武蔵も巻き添えだ、と先を歩き出したのだった。
鬱な幸村、とのリクにやっほい!好き勝手書くぞ!と意気込んだはずなのに、何か鬱?これが?みたいな状態になりました。おぉぉ申し訳ない…!CP指定がなかったので、これは武幸だろう!と思ったんですが、あれれ?みたいな(…) 秀頼さまを出したのは私の趣味です、すいません。鬱幸村が書けるよう、これから精進していきます。
09/01/01