父・家康の名代で秀吉に挨拶する為に登城していた秀忠は、苛々と手にしている扇を握り締めた。みしりと扇の骨が軋む。この日登城することは事前に秀吉に申し出ていたし、秀吉本人からも色よい返事を貰っている。それなのに、仮にも家康の代理として参っている秀忠を待たせるとはどういった了見だろうか。疑ってはならぬと分かってはいるものの、まるで徳川家そのものを軽んじられているような気がして不安が胸に広がる。よもや家康の名代が、まだ二十歳にも満たぬ若造であったせいで、彼の機嫌を損ねたのではないか、と勘ぐれば勘ぐる程、秀忠は落ち着かぬ。まだはっきりと家督相続が決定してはいないが、一人の兄は既に亡くしており、健在している兄も他の家へと婿に入っている。順番で行けば秀忠が次期徳川家当主となることは間違いはない。のだが、これといった功績も持たぬ秀忠は、家督争いの件も不安で仕方がない。せめて、さっさと秀吉と面会し、不安の種を少しでも消化したいところなのだが、秀吉は姿を現す気配すらない。
片手で握り締めていた扇子が、いつの間にやら両の手の間を行ったり来たりしている。その内に両の端をそれぞれの手が握り締めて、へし折らんばかりに扇の骨がしならせている。供の一人はその様子にも見てみぬ振りだ。秀忠の怒りの矛先を向けられるのを避けている、というよりは、何だか呆れられているような気がして、余計に秀忠の中の不満が膨らむ。
秀忠の不安やら怒りやらが充満した室内に、襖の外から声がかかった。浮かび上がった影は折り目正しく廊下に手をつけており、とても秀吉とは思えなかった。声もすっきりとした若々しさを感じさせるもので、還暦を目前としている秀吉とは似ても似つかぬ。秀忠は胸のつっかえをそのまま声に乗せて言葉を返す。影の主は、秀忠の不機嫌に気付いているだろうが特に調子を変えることなく、爽やかさすら感じさせる声で入室の許可を求めた。
秀忠は目の前に伏す人物を、見定めるようにじろじろと全身を眺めた。小柄である。身のこなしにそつはなく、こういった場に慣れているように感じられた。秀忠が大仰に顔を上げるよう声をかければ、秀忠よりも歳を重ねた青年と目が合った。
「秀吉さまは準備に手間取っておられます。準備が整うまで、わたくしがお相手させて頂きます。」
そう言い、もう一度頭を垂れた。いくら年上でも、秀忠とこの青年とは身分が違いすぎる。片や家康の名代、片や秀吉の小姓だ。彼の発言に激怒してもよかったのだが、家康の面目が脳裏を過ぎり、寛大な顔をして彼の発言を許した。天下の徳川が、数刻待たされた程度で腹を立てるとは懐の狭いことよ、と噂されるのは我慢ならなかったからだ。
「そなた、名は?」
「は、真田源二郎信繁と申します。」
***
信繁は、正直げんなりしていた。廊下を歩いていたら秀吉に捕まり、文字通りの悪ふざけに付き合う羽目になってしまった。からかうようにして人の度量を試したがるのは、秀吉の悪い癖だと信繁は思う。そうして、あれよあれよと話は進み、現在信繁は、徳川家康の名代として上洛した秀忠の相手をしている。相手をしろ、と言われても、話好きな秀吉・家康ならまだしも、まだまだ尻の青い(と信繁からもそう窺える)緊張しきりの坊ちゃんに何を話しかければよいのやら。下手に冗談を言って相手をからかって、彼の逆鱗に触れたらそれはそれで厄介だ。こういった手合いは、大体自尊心がやけに高いと決まっているのだ。
それに個人的な話ではあるけれど、信繁自身、あまり徳川家に良い印象を持っていない。大坂城に勤めている以上、家康やその御付の人間と顔を合わせる機会も多く、半ば刷り込みのように植え付けられていた徳川家嫌悪の感情は薄まりつつあるが、それも信繁自身が個人として接することができた人間に対してのみだ。初対面の人間には、どうしても厳しくなってしまう。
「真田、と言うことは、そなた、信幸の縁者か?」
「はい、信幸はわたくしの兄です。」
信繁が今も徳川家に嫌悪(もしくは憎悪だろうか)を抱いている原因は、まさにそれではなかろうか、と信繁自身思う。信繁の兄・信幸は、家康の養女を娶っている。しかもその養女というのが厄介で、本多平八郎忠勝という徳川家でも特に大物だ。形は徳川の人間を真田家に迎えたことになっているが、実質、信幸が徳川家の一員になったのだ。しかも、この縁談が決まったのが、信繁が上杉家へ質へと行っている時期である。信繁にしてみれば、知らぬ間に大切な兄が徳川へ奪われた、と言ったところだろうか。
信繁の中に、ふと悪戯心が突如沸き起こった。からかってやろうというよりは、半ば八つ当たりだ。そうでなくとも、信繁は本来、こういった畏まった場が嫌いなのだ。腹いせの一つや二つしても、罰は当たらぬのではないだろうか。そんな信繁の内心を知らぬ秀忠は、取り繕った澄まし顔で、手の内で扇を遊ばせている。
「信幸はよぅ仕えてくれるわ。あの男を父に持っておるなどと、到底思えぬ。」
真田家は一度、徳川に辛酸を嘗めさている。圧倒的な兵力さを物ともせず、徳川の精鋭を追い詰めており、表面上は良好さを保ってはいるものの、未だ遺恨の念は深い。神川合戦を根に持っている徳川の武将は案外に多いのではないだろうか。あの一戦のおかげで真田家の名を大きく知らしめる結果となり、徳川もまた、城攻めが不得意であるなどと不名誉な烙印を押されている。実際真田家には、禄高こそ及ばぬものの、戦の手腕や戦術は徳川家に優っていると考える面々も居る。
「兄上は優しく聡明であらせられる。ですがわたくしは、どうやら父上の性を強く引き継いでしまったようで。今もこうして、あの徳川どののご嫡子がどのような面構えをなさっているのか、好奇心で覗かせていただきました。」
「それで、そなたは、わしを見て落胆したのか。」
信繁はそれには返事をせず、さて?と首を傾げて見せた。単純な挑発に、彼は乗ってくるだろうか。信繁は表情を繕って、じっと秀忠を見つめた。こうして二言、三言交わした程度で、彼の度量が量れようはずもないが、信繁は彼の特徴をよくよく捉えていた。どうやら徳川家次期跡取りとしての重圧を感じているのか、他人の目が気になって仕方がないようだ。信繁が僅かに表情に感情を滲ませれば、彼は噛み付くように声を荒げた。
「気に入らぬ、と顔に書いておるぞ。何が気に入らぬ?」
「ふふ、随分と青いことを仰る。そういうことは、胸に秘めて口に出さぬが賢明でしょうに。」
途端、顔を真っ赤にした秀忠に、信繁はしまった、と内心舌打ちをした。面倒事は嫌いなのだ。信繁の発言が、彼に我を忘れさせる何かに触れてしまったのか分からないが、信繁はどう秀吉に弁明しようかと現実逃避をはかる。その間にも秀忠は信繁の胸倉を掴みかかろうと、乱暴な手付きで腕を伸ばしてきた。おそらく何も考えいないだろうが、押し倒して首を絞めるぐらいのことはして来そうだ。信繁は迷いなく己の胸元へ伸びた手を反対に掴み返して、そのままぐるりと手首を捻る。秀忠の勢いを利用して彼を地に伏せ、後ろ手に締め上げる。その上に馬乗りすれば、ろくに訓練されていない秀忠の抵抗を奪うことは容易かった。彼はまさか己より小柄な信繁に反撃されるとは露にも思っていなかったようで、身体を弛緩させている。秀忠の供としてこの場に居合わせている男も信繁の反応までは予期できなかったようで、あわあわと腰を半ば浮かせてはいるものの、そこからの動きは見られない。不測の事態に弱いのだろう。全くもって、無用心この上ない。
ただ、物音を立ててしまったのが不味かった。秀忠が最初に踏み出した一歩と、彼を畳へ伏すその時に、大きな音が出てしまった。当然、人がやってくるのは間違いなく、この現場を見られた時の反応もまた、予想の範囲内だ。
「げ、源二郎どの!何をそのような無礼を…!いえ、源二郎どののことですから、何か理由があったとは思うのですが…、」
「お互い、少し大人気ない行動に出てしまっただけですよ。どうも、失礼を致しました秀忠どの。」
こう言ってしまえば、秀忠が何も言い返してこないだろうことを見越している。信繁は同意を求めるように、いっそう深い笑みを向ければ、秀忠も納得いかぬ顔をしてはいたが、一応頷いてはくれた。
秀忠に手を貸して秀忠の身体を起こした信繁は、放心状態の彼が目を覚ます前に、そそくさとその場を後にした。すれ違った小姓には、秀吉さまを催促してくる、と耳打ちしたが、余程の鈍感でもない限り、信繁がこの場から逃げ出したと思うに違いない。信繁はある程度、部屋から離れ、その場で盛大に絞り出すようなため息をついた。天井には数人の忍びの気配があったから、おそらくはこの状況も秀吉の耳に入っているだろう。彼がどうやって己をからかうか、それからどうやって上手く逃げようかと考えれば考えるだけ億劫になる。
その時だ。
「よぅ!源二郎ッ」
と背後から大きな声で呼び止められた。ああ秀吉だ。信繁はいっそ恨みがましい目で秀吉を振り返った。信繁の視線の意味にも気付いているだろうに、秀吉はかっかと笑っているだけだった。
「どうじゃった?徳川の子倅は。」
「そうですね、気が長いのか短いのか、よく分からぬお方でしたよ。早く行って差し上げてはいかがですか?」
「そなたが挑発するとは、珍しいこともあるもんじゃ。どういう風の吹き回しじゃ?」
まるで心の内を見透かそうとでもしているかのように、秀吉は人の良さそうな笑みで信繁の眸を覗き込んだ。人たらしの異名は、こうして人の心を素早く正確に読み取る特技があるからこそだ。信繁は逃れるのも変な話だと無理矢理己に言い聞かせて、にこりと笑みを作った。作り物の笑みであることは、信繁だけでなく秀吉も察知しただろう。
「少し、そう少しだけ、気が立っていたんでしょうね。わたしも、あの方も。」
「それで、どうじゃった?面白い奴であったか?それともただの愚物か?」
信繁はため息をついて、さっと顔を伏せた。信繁は常々、彼に試されているのだと思っている。この方はこの方なりに、わたしの可能性を探っているのだ。
「わたしは結城少将を存じております。あの方と比較したくはありませんが、そうですね、あの徳川どののお世継ぎとは思えません、とだけ言っておきましょうか。」
「難しいことよの、優秀な父を持つということは。誰もがおんしらのように、うまいことなってはくれぬからのぅ。」
では会うて来ることにしようかのぅ、おんしの尻拭いも兼ねて、な。そう言って信繁の頭を軽く小突いて、あの、人の良さそうな笑みを貼り付けて、秀吉は信繁が来た廊下を進んで行ったのだった。
1595年辺りなら、秀忠16歳・信繁25歳(生年1570年とした場合)です。いつまで経っても徳川の人たちの生年が覚えられない、です。秀康は信繁より若いよ!って思ってても、いつの間にか逆転してしまう…。
リクの内容としても、面白いものを頂けのでちょっとはりきったんですが、どう見ても信繁が秀忠いぢめてるようにしか見えません(…) 秀忠の設定は結構あったはずなんですが、今回全く活かせてないという…。とりあえず、うちの二人は仲が悪いです。秀忠はツンデレ的な何かだと思いますが、信繁さんは何ていうか、眼中に入れたくない的な。これはCPと言っていいものか(悶々)
何はともあれ<誤魔化した! リクエストありがとうございました!
09/01/03