慶長五(一六〇〇)年、某日。伊達政宗は、たった一人で真田幸村と対面していた。正確に言えば、上座に政宗が座り、その視線の下に幸村が跪いている。異様である。彼が政宗の城へ訪れたことが、ではない。彼が今この瞬間に、政宗の目の前で居住まいを正して座していることこそが、異様なのだ。
「何の真似じゃ。」
まるで本当の臣下であるかのように、幸村は恭しく政宗に頭を垂れている。確かに、政宗と幸村の身分はかけ離れている。彼の行動は決しておかしくはないのだが、政宗と幸村個人の話であるのなら、彼の仰々しさは不似合いだ。大坂城では、隣り合って縁側に腰掛けていたものだ。数える程しかないが、共に城下で買い食いもしている。幸村にとって、奥州の大大名という肩書きが無意味であったように、政宗もまた、豊臣家の人質という幸村の背負っている名は不用であった。
示し合わせることすらなく、自然にそういう接し方をしていたはずなのに、この手の平を返したような幸村のお行儀の良さは何であろうか。政宗は、ようやく顔を上げた幸村を凝視する。その顔に浮かんでいる表情はあくまで穏やかであった。平時と変わらぬ。いや、政宗の知っている平時の幸村というのは、何者ではない、ただの幸村のことだ。一番真田幸村という存在に近い、彼という純粋なただそれだけの人物のことだ。それがどうだ、貼り付けている表情は政宗がよく知るものだが、顔と表情との間にある糊の役割を果たしている感情が、どうもいかぬ。欲にまみれている。幸村の纏う欲は単純な、出世欲だとか金銭欲だとか、そういったキナ臭いものではない。厄介だと政宗自身思う、もっともっと獰悪な、性質の悪いものだ。単純が故に根が深い、破壊力を伴った、全てを焼き尽くすような戦への欲である。己の脳髄が導き出した最良の策を仕掛け、その策が成功するよう、その策へと敵を導き陥るように根回し手回しを善人の顔をして平気でしてのける。更に困ったことは、政宗はそんな風に幸村が意地の悪い顔をしてにやりと笑う姿が嫌いではないことだ。清廉な姿も好きだ、戦など知らぬと爽やかに笑っている姿ももちろん良い。だがやはり、真田幸村という男は、戦の熱を纏っているからこそか輝くのではないだろうか。
「使者の真似事など、してみました。」
「似合わぬことを、よぅするものよ。どうせあの狐や義狂いにも無断で来たのであろう。」
そなたはあやつらの手の平の上で踊っておれば良いものを。政宗は内心毒づく。政宗は、彼らが幸村を戦から遠ざけたいのだと知っている。そうして真田幸村の毒を抜き牙を落とし、自分たちの良いように染めようとしている。それもまぁ、悪くはないだろう。残念なことに、幸村は囲われた鳥になるには好奇心が旺盛であったし、またそんなタマではない。囲われる前に逃げ出すか、はたまた、捕まえて籠に放り込んでいたはずが、いつの間にやら脱出している。もしかしたら、彼は素直に捕まった幻をみせていただけなのかもしれない。どれにしても、性質の悪いこと以外の何ものでもない。
「政宗どのには、是非とも西軍について頂きたいのです。」
「寝言よ。聞く耳持たぬわ。」
政宗が先程、三成や兼続に無断と称した理由はこれだ。あの二人は徳川と誼を通じている政宗など、味方に取り込むことすら思考に及ばなかったに違いない。また、旗色を示していないとは言っても、敵方につく可能性が濃厚な政宗の本拠地へ、幸村自身を送り込むと進言などしてみろ、全力で止めるに違いない。危険極まりない。相手によっては刎ねた首だけが送り返される事も否定できない。幸村はそんな己の身を奔放と呼んだが、彼らは揃って無防備だと嘆くに違いない。政宗も不本意ながら後者に賛成だ。
「一つ、可能性を提示しましょうか。ここ奥州は、概ね、最上家、佐竹家、そして伊達家が支配しているのだとご推察します。その内、佐竹家はおそらく三成どののお味方になるでしょう。最上家、伊達家は今のところ旗色は読めませんが、伊達家と上杉家の関係、また秀吉さまがお亡くなりになってから今日までの政宗どのの動きを考えると、自然徳川にお味方するだろうと思われます。最上家は、そうですね、おそらく伊達家と足並みを揃えることでしょう。理由は政宗どのと最上どのがご親戚であること、けれども一番の原因は絶頂期ほどの勢いはないから、でしょうか。」
一息でそう幸村は言い、表情を変えずにどうでしょうか?と顔を覘かせる。そんなことは幸村に指摘されずとも知っている。気位ばかり高い叔父御を操るのは、ちと面倒だが難しくはない。
政宗が疲労を短く息を吐き出せば、それを合図と取ったのだろうか、幸村が「ですが、」と続きを告いだ。政宗は幸村とこういった言葉を交わす度に疲れがたまっている気がする。政宗と懇意にしているだけあって、幸村はよくよく政宗のツボを知っていた。どのような言葉を囁けば、政宗の心を躍らせるのか、血肉沸き起こるあの興奮を歓喜させるのか、眠りにつかせたはずの激しい気性を呼び戻すには、どのような言葉が必要なのか、幸村は自然と知っていた。おそらく、幸村も同様だからだろう。だから政宗は、それらの衝動を何とか押さえ込まねばならない。彼の悪巧みの性質の悪いところは、それらは困難であるが決して不可能な策ではなく、また、政宗の悪戯心をひどく揺さぶるものであるからだ。
「ですが、ここで伊達家が西軍に付けばどうでしょうか。佐竹はもちろん、最上も西軍。ここ奥州に上杉が相対しなければならぬ相手はいなくなります。そうすれば上杉家も足踏みをする必要はなく、徳川を背後から急襲できます。あなたが西軍の勝利を決めるのです。悪い話ではないでしょう?」
穏やかとしか呼べぬ瞳の中に、幸村は鬼を飼っている。政宗はそう思っている。あの瞳の奥が爛々と狂ったように燃えている様が、政宗にはよくよく見えている。畏れと喜びとがない交ぜになった興奮を感じ、政宗はぶるりと身体を震わせた。こやつはまっこと、おそろしい生き物じゃ。どうでしょうか?面白いでしょう?あなたしか出来ぬことです、わたし、は、あなただからこそ、この策を考えお披露目したのです、ほらほら、お早く決断なされませ。幸村の平静を装った眼がそう急かす。政宗は懐から扇子を取り出し、ぱん!と膝を打った。幸村に気圧され気味のこの空気を祓う為だ。
「無用心じゃの。仮にも敵対勢力に乗り込んできた割に、護衛一人つけておらんとは。」
政宗はあえて彼の言葉に返事をせず、彼の無防備な様を詰った。けれども幸村は、そうでしょうか?と言いたげに微笑み、天井を見上げた。
「天井に一人、二人、三人…、合計六人ですか。ご苦労さまです。」
「…。」
「わたしなんぞが気配を感じ取れたということは、わたしの忍びたちも当然、気配を感じ取ったでしょうね。さて政宗どの、天井に這うあなたの可愛い忍びたちは、果たして本当にあなたの忍びでしょうか?」
「…。」
「冗談です。」
政宗があからさまに顔を顰めたことを認めた幸村はあっさりとそう言い放ち、くすくすと笑った。忍びの体制や数では決して真田家に劣るものではないが、個々の能力を比較するのであれば、幸村に分がある。真田忍びの質の良さは全国にも屈指である。
「折角政宗どのの許へ訪ねて来たというのに、こんな話をするものではありませんでしたね。もっと、楽しいお話をしませんか?」
幸村はそう言い、ふと遠くを見るように、政宗の眼を射抜いた。政宗は彼が哀しいと言って笑う様をよくよく理解していた。寂しいと言って相手に縋る術を知らぬ幸村の、精一杯の泣き言である。
「…来い。」
政宗は言って立ち上がり、勢いよく襖を開け放った。充満していた空気が一気に弾け飛び、庭先の茂った濃密な緑のにおいがむっと政宗の顔に押し寄せた。その場で深呼吸を何度か繰り返し、どかりと縁側に腰掛けた。上半身を捻り幸村を振り返った政宗は、「座れ」と己の隣りをぱしりと扇子で叩いた。その有無を言わさぬ強引な態度に慣れている幸村は、はい、と微笑みながら短く答え、政宗の隣りに並んだ。足を投げ出している政宗とは違い、幸村は正座をし、ぴしりと背筋を伸ばして庭を眺めている。幸村の視界のほとんどが庭の風景を独り占めしており、隣りに居る政宗の姿など視界の端に映っているかもしれぬ程度。そのせいだろうか、幸村の反応が僅かに遅れた。政宗は断りもいれず、更に言うなれば幸村が身を引く前に、ごろりと彼の膝に己の頭を乗せた。
「あの、政宗どの、?」
「楽しいことをしようと言ったのは、そなたじゃ。」
困惑気味の幸村に政宗はそう言い放つ。幸村は政宗の我が儘を諦めたのか、はたまた許容したのか、ふわりと笑った。先程の血生臭い空気を感じさせぬゆったりとした時が流れていた。二人とも何も言わず、ただただ沈黙の中の気安さに酔っていた。
幸村は時折遠くを眺めては、哀しいという感情を瞳に閉じ込めてじっとその場に蹲っている。政宗は、彼のその心をよくよく理解していた。誰にも告げることなく、誰にも吐露することもなく、彼はその感情を大切に大切に抱え続けて大きくして、そうして、抱えきれぬ程の大荷物になっても尚、こうして哀しい哀しいと、口に出すこともなく、言葉に表すでもなくずっとずっと、
政宗はそっと腕を伸ばし、幸村の頬に触れた。庭に顔を向けていた、少なくとも庭を眺めていたように映る幸村の視線が、すっと政宗の顔に落ちてきた。
「ひどい顔をしておるのぅ。」
ふふ、と空気が揺れた。幸村が僅かな呼気に笑みを乗せたせいだ。
「あなたこそ。」
決して楽観主義ではない、だが悲観主義でもない。自分たちは他の目からすれば同情的な程に現実主義だった。起こってしまったこと、これから起こるだろうこと、その起こるだろうことの後の、悲劇や喜劇。自分たちはそれらの悲劇喜劇を、時に冷静に時に冷たく眺めることができるのだ。誰が使者に訪れようとも政宗の意思が変わることはなく、また政宗がどんな甘言で幸村をそののかしても彼の意が曲らぬことも、それは悲劇でも喜劇でもなく、限りなく現実に近い未来である。
「幸村、」
「はい。」
「……―――、」
政宗は結局、この想いを吐き出すことはなかった。そんなことをせずとも、一々声に乗せずとも、今この瞬間の自分たちの想いは共通であろう。戦を憎まず敵を憎まず、起こってしまう次々の転落にも、自分たちは真っ直ぐに立ち向かうだけだ。我らはただただ、共有する沈黙の尊さを美しさを、愛していたに過ぎない。我らの間に言葉など不要だ。
元々順応性の高い幸村は、膝枕、などという事態にも早々に慣れてしまったらしく、まるでそうすることが一連の正しい流れとでも思っているのか、政宗の髪を丁寧な動作で撫でていた。最初は愛いことをするものよ、とその動きを快く思っていたのだが、予想以上に心地良かったせいだろう、段々とうとうととしてきた。最近は水面下での戦支度、戦評定にも追われていて、睡眠は削られる一方であったことを思い出す。目蓋が徐々に重くなってきた。幸村もそれに気付いたのだろう、ひどく優しい声で、
「少しお休みになられては?」
疲れておられるのでしょう?と囁いた。幸いな申し出に断る理由もない。うむ、と短く返事をし、政宗は目蓋を下ろした。
「寝てしまわれたか。」
穏やかな、仕方がないなぁと言外に含ませた幸村の声が鼓膜を振るわせたのを境に、政宗はゆったりとした眠気に身を任せたのだった。
リアリストの恋
ほのぼの、になりましたでしょうか?リクエスト内容がそのままうちのダテサナだったので楽できる!と思ったんですが(こらっ)、私の書くほのぼのは殺伐さもプラスされたほのぼのだったことを忘れてました(…)この二人の話も書くのが好きなので、リクエストで指定して頂けて嬉しかったです。ですので、あの、そんな恐縮しなくていいですよ?
他の小説への感想もありがとうございます!こういう風に書きたい!と思っていることを見事に言い当てられて、嬉しいやら恥ずかしいやらです(や、ホント嬉しいんです!)
ではでは、リクエストありがとうございました!
09/01/25