文禄2(1593)年、豊臣秀次が死去した。秀次の血縁者たちの処刑も滞りなく終わり、大坂は以前の慌しさを取り戻していた。その中に属しながらも、信繁は周りの忙しなさに置いて行かれたような、物寂しさを感じていた。誰もが彼の死を知っているのに、最早噂話にものぼらない。この間まですぐそばにいて、手を伸ばせば届く距離に、確かに彼はいたはずなのに、誰も彼も、その事実を忘れてしまっているかのような錯覚だ。いや、彼らはそうしてかの人の死を遠い場所へと追いやってしまった。ここでは、過去は悼むものでも悲しむものでもない。ただただ、過ぎ去ってしまった今でしかないのだろう。信繁は彼らの感覚についていくことが出来ずにいた。

 信繁は届いたばかりの文を膝に置いて、ぼんやりと庭先を眺めている。短い文は読み直すまでもなく、自然と頭に内容が入っていた。伊達政宗からの誘いだ。行かぬわけにはいかない。信繁は小さく息を吐き出して立ち上がり、縁側に立った。そして顔に無表情を貼り付けながら、びりびりと紙片を破り始めた。一連の流れは、まるでそうすることこそが正しいのだと思わせる程、迷いがない。短い文はすぐに紙吹雪と化した。手の平に溜まった雪を、信繁ははらはらと庭先に舞わせた。無表情である。が、しかし、ここに彼の子飼いの忍びが一人でも居たならば、その無表情の無意味さに気付いただろう。彼は必死になって感情を消しているだけなのだ。

「小助、おらぬか、小助ー。少し出てくる。留守を頼むぞ。」
 分かりましたー、と間延びした声が返ってくると、信繁は思わず苦笑して、出掛ける仕度を始めるのだった。








たとえばわたしが、彼らを○○したとして、

(結局わたしは、たとえ話しかできない)








 政宗は機嫌の良さそうな笑みで、信繁の来訪を歓迎した。こちらからの一方的な誘いだったが、信繁の都合は大丈夫だったようだ。信繁は少々困惑した表情で、機嫌の良過ぎる政宗の言葉を受け取っていた。
 部屋の中、上座も下座もなく、向き合いながら他愛ない会話を重ねている。信繁は正座のままだが、政宗は足を崩している。信繁が、何気なく政宗から視線を外した。ようやく室内の装飾に目が行く余裕が出てきたようだ。政宗は彼が目を離す瞬間を、実はじっと待っていたのだ。さり気なさを装って、政宗は懐の扇子と取り出し、小気味良い音を立てて開いた。信繁が音に気付いて、再び視線が戻ってくる。目をこらして政宗の手に握られている扇子を見つめていた信繁だが、小さく息を飲む音が政宗には聞こえたように感じられた。
「それは、もしや秀次さまの?」
 信繁はその名を呼んでから、迂闊にも口に出してしまったことに気付いたようだ。政宗の眼をちらりと窺うように覗き込んだが、政宗は知らん顔をして惚けた顔を貼り付けた。彼から引き出したい表情は、これではないのだ。
「あ、ああ、そうじゃった。頂いたものじゃ。気に入っておったゆえ、すっかり失念しておったわ。すまん、うっかりしておった。」
 政宗は殊勝な態度をつくろい、扇子で口許を隠しながら、そっと信繁の表情を見据えた。故人の、しかも信繁とは繋がりの強かった人物の名残に、彼はどんな表情を見せてくれるだろうか。政宗は信繁がこぼすだろう 隙 を見極めんと鋭い視線を更に鋭利にさせた。一瞬でいい、一瞬でいいのだ。空気に敏い政宗は、決してその一瞬を見逃すことはない。政宗にはその自信があった。悲哀でも苦悩でも、虚無でも、何でも良い。彼が感情の一片をこぼしさえすれば、政宗はそれを足がかりに彼の心の中へ入り込むことができる。政宗は確信すらした。死んでしまえばそれまでだが、嫌疑をかけられながらもこうして生きている政宗には、秀次の死すら利用することができるのだ。

「秀次どののことは、」
 政宗は駄目押しの一手を繰り出す。泣いて悲しんで、この世の理不尽を嘆けばよい。あの事件は、関わっていれば関わっている程、底の読めぬものだったからだ。何故彼は切腹せねばならなかったのか、何故彼の血縁者や家来たちは処刑されねばならなかったのか。政宗は説明する言葉を持たない。彼もそれは同じだ。彼は感情を収拾できるだけの言葉を持たないのだ。あの事件は、豊臣が長年抱え続けている傷口を広げただけだ。未だ血は流れ続け、膿は治まる気配すらない。

 政宗は信繁の一瞬の感情の吐露を今か今かと待ちわびた。けれども、その祈りにも似た願いはついに叶うことはなかった。信繁は表情を一度も崩すことなく、ぶれることすらなく、政宗の発言を遮った。静かな湖面に映る月を連想させる、ひどく落ち着いた声で、
「もう、終わったことです。」
 と、囁いた。
 それはまさに囁いた程度の小さな声だったが、場には凛と響き渡った。そして苦笑しながら、
「冷たい男なんです、わたし。」
 と、表情をつくろった。
 そう言った信繁に、一瞬、政宗が待ち望んでいた隙が生じた。しかしそれは、政宗が予想していた感情のどれ一つとして当てはまらなかった。それは、諦めだ。政宗の誤算である。彼は諦めることを知っていたからだ。諦めることで、感情の乱雑さを見事に己の中に完結させていた。政宗はふと、物寂しさを覚える。政宗は諦めを知らぬ男だ。諦めることがどのようにして感情の昂ぶりを整理するのか、知らないのだ。欲しいものは、どんな手段を尽くしてでも手に入れる。政宗にはそれだけの度量と誇りと力があった。だが彼はどうであろう。今までにどれだけのものを捨てたのだろう。彼は、諦めることでしか真っ直ぐに歩けぬのだ。


 そうして、信繁に対してわだかまっていた澱みが、その時ようやくすとんとあるべき答えを見つけたように感じられた。政宗は、彼が知っている以上に、信繁のことを見つめていた。彼が誰に好意を持ち、嫌悪を抱き、何を厭み、何を好いているのか、政宗は真実に近い場所でそれを感じ取っているだろうと自負している。
 彼は上杉景勝を好いていた。豊臣秀次に好意を抱いていた。太閤殿下に、石田三成に、大谷吉継に、彼が関わっていた、関わっている人々を好いているし好いていた。彼らの好意を信繁は知っていたし、彼らの好意に応えたいとも思っている。思っているはずだ。それなのに、彼の態度はいつもそれを裏切っている。好意を受け入れながら、一歩引いた場所で拒んだ振りをしている。聡い者なら誰でも気付くだろう、彼はどこか歪なのだ。

「何故、上杉景勝から逃げ出した?」
 政宗の心が読めるわけではない信繁にとって、その問いは不意打ち以外の何ものでもなかっただろう。彼は目を伏せることで感情が乱れることを拒んだようだった。視線を落としながら、冷静を装った声で呟く。
「質問の意味が分かりません。」
「いいから答えよ。」
 信繁は尚言い募ろうとしていたが、政宗の真っ直ぐな視線に負けたのか、ため息と共に呆れを吐き出した。彼はそうやって諦めるのだ。
「おそろしくなったのです。」
 信繁は平坦にした感情のまま言った。

「人という存在の重み、深み、あたたかさに、わたしはおそろしくなったのです。だから逃げました。わたしは人がおそろしいのです。」
 信繁は顔を伏せたままだ。表情が読まれぬのをこれ幸いと、政宗もつい本音をこぼしてしまった。


「わしも、か?」


 一瞬の沈黙。政宗は己の失言に気付き、信繁はその言葉に、じわりと心に混乱が広がった。信繁はゆっくりと顔を上げる。その顔には苦笑を浮かべていた。それは決して同情ではなかったが、同時に政宗の内心を読み取ったものでもなかった。政宗は何度も何度も彼に想いを囁いてきたが、今ほど本気を滲ませたことはなかっただろう。我ながら、必死すぎる、無様だ、と思ったが、政宗は彼の言葉を遮ろうにも、言葉が見つからなかった。
「…ええ。ただの他人であったのなら、顔見知り程度であったのなら良いのに、あなたはそれ以上を望まれる。その感情の厚みが、なによりもおそろしい。」
 信繁は言いながら、困惑の笑みを見せていた。政宗は時々、この男が言葉にする感情と実際にこの男が抱いている感情との差異を思う。おそろしいと言っているくせに、政宗には人が好きで好きで仕方がないと言っているように見えて仕方がない。

「景勝どのから頂いた小刀は、あちらを出る時に置いて参りました。兼続どのから頂いた筆も同様です。秀吉さまから頂いた衣は燃やしました、三成どのから頂いた茶器は割りました、義父上から頂いた馬はどこぞの兵卒にやりました。」
 一息でそう告げて、信繁はちらりと政宗の顔を覗き込んだ。しかしすぐに言葉は再開された。
「…秀次さまから頂いた扇子は、二つにへし折って火にくべました。」
 信繁が、この話は終わりだ、と言う代わりにゆっくりと口を閉ざした。しかし彼は、政宗が求めた核心の部分に触れてはくれなかった。政宗が欲している答えを、彼は与えてはくれなかった。政宗にとって、誰が彼に好意を抱いていようが、関係のない話だ。同様に、彼が誰それに想いを寄せているのかも、政宗にとっては他人事でしかない。結局自分たちは、独りよがりな恋をしているに過ぎないのだ。

「わしが送った文は?」

 感情を押し殺した声で訊ねれば、流石の信繁も政宗の思いを考えあぐねたのか、そこから何か想いを感じ取ろうと政宗の目を見つめた。しかし政宗は助け舟を出さずに、じっと彼の視線に受けた。政宗が彼の無表情に何も感じ取ることができなかったように、彼もおそらくは同様だろう。眼を見て感情を読み取るなど、それが想い人である程に困難なのだ。

「頂いた文は例外なく、千々に破って庭に散らしました。」




***




 場を沈黙が支配した。信繁はもう潮時だろうと、場の重苦しい空気を霧散させる明るい声で、
「場を白けさせてしまいましたね。そろそろお暇させて頂きます。」
 と有無を言わさぬ口調で告げ、立ち上がった。政宗が続いて腰を上げる。反論をしてこぬということは、彼も見送りに立っただけなのだろう。彼に見つからないように、信繁はスッと眼を細めて、先程の彼の表情を思い出す。こんな男に引っ掛からずとも、もっと楽な相手はたくさんいるだろうに。ああきっと、それは己も同じだ。不毛な問答に、彼がどんな嫌悪感を抱いたのか、考えるだけでも億劫だった。結局信繁も、彼が己のそばからいなくなってしまうことに怯えているのだ。

 簡単な挨拶を済ませ、信繁は「それでは、」と軽く頭を垂れた。そのまま彼に視線を合わせずに、さっさと去ってしまえばよい、とした信繁の思惑は、彼にまんまと破られてしまった。
「信繁、」
 と呼び止められ、文を差し出された。流れるような動きに、咄嗟に手に取ってしまった信繁だが、すぐに思い直して、受け取れません、とその文を突き返した。先程の言葉を聞いていなかったのか、はたまた冗談だとでも思っているのだろうか。信繁はもう一度、先の言葉を再び繰り返した。この文も破り捨てねばなりません、とはっきりとそう告げた。けれども政宗は、よいよい、と手をひらひらと振るばかりで、信繁が突き返した手紙を取ろうとはしない。ついには信繁も根負けして、では、ありがたく頂戴いたします、と、渋々その手紙を懐に収めた。この人は、わたしがどんな想いで手紙をびりびりと切り裂いてしまうのか、知らないのだ。だがそれを言ってしまうのならば、折角書いた手紙を破り捨てられてしまう側の気持ちを、信繁は知らない。いいや、この人は風流なお人だから、きっと数え切れぬ程の手紙をしたためているに違いない。そしてそのたった一角を担っているだけのわたし宛の文をどのように扱ったとしても、この人はちっとも傷付きもしなければ、これといった想いが浮かぶわけでもないだろう。そう結論付けてみたものの、彼から送られる文の想いの厚みを知っている信繁は、ただしこりが心の中に沈むのだった。


 信繁は帰宅するや否や、やはりと言おうか、すぐに自室まで飛んで行った。途中小助とすれ違ったが、彼は信繁に声をかけることはなかった。必死の剣幕に、信繁の内心を読み取ってくれたのだろう。
 襖を開け放って縁側から庭を見下ろす。彼がいつも紙の雪を降らせているのは、決まってこの場所だ。懐の文を乱暴に広げて、紙面に目を落とす。短い文には、もうすぐ自国へ帰らねばならぬこと、信繁に会えなくなるので寂しいと、政宗らしい達筆な字で感情豊かに綴られていた。添えるようにして、信繁ですら知っている離れ離れの恋人への切なさを歌った歌が書かれている。信繁は思わず表情を曇らせた。こんなにも想いの詰められたものを、どうしてわたしはびりびりと破らなければ気が済まないのだろうか。びり、と丁度歌が綴られている箇所を切り裂いた。挨拶が、彼の名が、己の名が、想いが切々と語られている部分が、びりびりびりと耳障りな音と共に亀裂が入る。一文字すら読めぬ程に細かく裂け続ければ、信繁の目には涙がたまっていた。涙で視界は霞んだが、それでも構わずに、一心不乱に手を動かし続ける。悲しいのか苦しいのか切ないのか。信繁にはこの涙の意味を知らない。ただ、彼の想いを貶めているようで、涙が溢れてきてしまうのだ。はらはらと雪を降らせながら、信繁はひっそりと涙を流した。

 もし、この様子を政宗が見ていたのならば、こう言っただろうか。
(まるで、心を千切っているような、)











暗い!互いに矢印が向いているのか、非常に分かりにくいですね、すいません、力量不足です。うちの信繁さんは、ちゃんと伊達さんのことが好きです。それを表面に出さないだけで。
本編で秀次事件終わらせてないのに、終わった後の話書いちゃいました。伊達さん的に一番着け込みやすい時期っていつだろーと考えてたらこの軸になってました。何か、色々すいません。伊達が必死すぎてすいません、信繁が可愛くなくてすいません<重要! どうしてこうも人様と離れていくのか分かりません。
とまぁ、こんな感じになりましたが、どうでしょうか?少しでもご期待に添えたら!と思いますが…、うん、精進します…。
09/03/22