「もうすぐ陣触が発表される」
 そう清正が言うのを、幸村はただ黙って聞いていた。腰から下にかけての鈍い痛みは、いつもより"マシ"なような気がしたから、なんとなく何かを予感してはいたのだ。
「俺もお前も出陣組だ。前線で戦えるぞ」
 うつぶせに寝転んでいる幸村からは、清正の顔は見えない。胡坐をかき適当に襦袢を引っ掛けただけの背中が、薄い明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がっている。
「そんな重要な機密、わたしに漏らしてしまってよかったんですか?」
「すぐに通達されることだ。漏れたところで、別に構やしねぇよ。三成も、俺の口からお前に伝わるだろうことを想定してるはずだ」
「はぁ」
 と、幸村は息をついた。気の抜けた声だった。清正は、それでもこちらを振り返らなかった。特に感想はない。幸村にとってそれは、ただそれだけのことだからだ。
「それなら、ここも取り壊さねばなりませんね。戦となれば、長いこと留守にしますし。随分と居心地の良い場所になってしまったものです」
「そうだな」
 清正の声には、僅かな寂寥が滲んでいた。幸村には、そういった感傷がない。そういったまともな感情を持ち合わせていない。彼が寂しいと思う気持ちは確かに分かるが、それが己にもあるかと言われれば首を振るだろう。出陣する前に片付けてしまわなければ。まずあの老人に話をつけて、解体の作業はこちらで人を手配すればいいだろうか。幸村の思考は淡々としていた。
「清正どのはお忙しいと思いますので、こちらで適当にやっておきますね」
「…幸村、」
「はい」
 ゆらりと影が揺れる。いや違う。清正がゆっくりと振り返ったからだ。灯りが弱い。彼の輪郭は分かっても、彼の顔までは判別できなかった。夜目の利かない幸村は、目を凝らすことをすぐに諦めてしまった。
「お前は潔さが過ぎる」
 ふ、と幸村は笑みを漏らした。清正が、何だ、と問い詰める。彼の声には、いつもそういった迫力があったが、幸村はいつも鈍いふりをして呆けた顔をしていた。わたしのような不出来な男は、阿呆なぐらいが丁度良いのだ。
「前にも、同じ事を仰いました」
「あれとこれとでは、話が違う」
「違いませんよ。わたしは潔くて、あなたは往生際が悪いということですから」
 幸村の記憶の中の清正が渋面を作る。きっと目の前の彼も、そういった表情を浮かべているだろう。そういうことが想像できる程度には、彼の感情が覚られるようになっていた。

「わたしは人を殺すことに恐怖しません、恐れません、慄きません。戸惑いも躊躇いもなく、悲しみも苦しみも、もちろん歓喜もありません。わたしは人の亡霊を恐れません、怯えません、同情しません。背中からじわりじわりと伸びる闇に、耳元に囁きかける居もしない影に、足元にうずくまっている血だまりに、わたしは何の感慨も抱きません。あまりに特殊です、人として欠落しています。わたしは人間の欠陥品です。けれど、悩んでもどうしようもないことですので、わたしはとうに受け入れました。わたしという男は、こういう性質なのだと」
 清正は幸村の腕を掴んで、その言葉を止めようとしているようだった。彼の荒い呼気が顔にかかる。図星を指されて、彼は動揺している。否や、自分たちが"そういう"性質であることは、互いによくよく知っていることではなかっただろうか。なれば、彼のおそれは何だろうか。幸村には分からない。それを受け入れてしまった人間は、未だそれに恐れ慄く人間の心など理解することはできないのだ。受け入れてしまえ。それはきっと、人の尊厳を捨てることになるだろうけれど。わたしの心はこんなにも軽やかで穏やかで、気持ちが良いのです。
「あなたはわたしを、おそろしい生き物だと言いますが、それは違うでしょう?あなたはわたしを通して、あなたの中の性質を見ているに過ぎません。あなたがおそろしいのは、自分自身に他なりません。何も感じることのできない自分があなたはおそろしくて、それを受け入れてしまった先をわたしに見ているから、あなたはわたしをもおそろしく思えるだけなのです」
 黙れと言わんばかりに唇に食い付かれて、流石に幸村の口上も止まってしまった。薄く開いていた咥内を彼は無遠慮に蹂躙していく。時折、甘噛みというには鋭い痛みが舌に走る。けもののような接吻をする人だなあ、とは幸村の感想だ。彼は何かを隠そうと、必死になって乱暴な振りをしていた。
「だからお前は、潔さが過ぎるんだ」
「だからあなたは、往生際が悪いんですよ」
 ふふ、と笑みをこぼせば、彼はばつが悪いのか、そっぽを向いてしまった。きっと彼がおそれるのは至極真っ当なことなのだろうけれど、幸村はそのおそれが手足を縛り喉を絞め付け、動きを鈍らせることこそが本当の恐怖だった。











タイトルは事変の『天国 へ ようこそ』から。
ことばを失くした我等は
11/10/30