『椿の花が落ちるように、わたしは死を賜りたいと思います』
上田城での戦の折に幸村はそう言っていた。城の四方は徳川・北条の兵で囲まれ、皆が落城を覚悟していた。次の日には敵兵が攻め寄せてくるだろう。そんな中開かれたささやかな酒宴で、幸村は些か酔った風を装った慶次に訊ねられ、そう返答した。幸村はその場の五人の中で一番多く酒を呑んでいたようだが、ちっとも酔った様子はなかった。
場の温度が僅かに冷えたが、それを慶次が笑い飛ばした。
『あんたは根っからのもののふだねぇ、こりゃあいい』
と、手を打って笑っていた。
それに便乗したのは孫市で、
『俺はそんな死に様は御免だね。どうせ死ぬなら布団の中で死にたい。あがいてあがいて、最後まで生き恥ってもんをさらしてでも、長生きしたいさ』
この二人は、精神がなまじの人間より老いていたせいもあり、場の温度に敏感だった。不穏な空気を散らして、その言葉をただの世間話の類に変えてしまう術を持っていた。己は、兼続は、その流れを酒を啜りながら眺めていただけだった。幸村は常と変わらぬ柔らかな表情をしていた。常と変わらぬ、という点ならば、慶次も孫市も同様だ。けれども、政宗は違った。苦虫を噛み潰したくせに、それを誤魔化そうとして表情が歪んでしまっていた。若い。兼続とはそう歳は離れていないし、政宗と幸村は同い年であるにも関わらず、兼続が政宗に抱く感想は、若い、という印象がいつも着いて回った。
『桜ではいかんのか。わしは椿より桜が好きじゃ。桜の散り際の方がよほど美しい』
『散れば美しいなど妄想だ、政宗。昔語りの話をしているのではないぞ。人の命が散る様に美しいも醜いもない。その後にあるのは、残された者の悲しみだけだ』
矜持の高い政宗は、反論されることを特に嫌っているようだった。今も、噛み付いた兼続を睨みつけているが、ここ数日の付き合いでその眼に慣れてしまった兼続は、最早どうとも思わなかった。
『椿が良いのです。わたしは、椿が良いのです』
幸村が二人の剣呑な空気に割り込むように、静かにそう告げた。孫市が肩をすくめている。呆れているのか感心しているのか。彼の浮かべる表情は、繕いすぎて分からない時がある。
『桜の散り様は、人の心に残ってしまいます。長く尾を引くから、皆が美しいと仰るのでしょう。けれどわたしは、そのように人の記憶に留まりたいとは思いません。呆気なく、人の記憶にも残らぬ程苛烈に討ち取られたい。それが、誰かを残していかねばならぬ者の、最後の始末ではないでしょうか』
そう言って、何事もなかったかのように、幸村はするりと酒を飲み干した。慶次は笑っている、孫市は苦笑している。政宗は不機嫌そうに顔を顰めているが、あれの本心は違う。そんな考えしか出来ぬ幸村に憤っているのだ。そうして、何も言えぬ政宗自身に苛立っているのだ。兼続は、己は、一体どんな顔をしていただろうか。残念ながらこの場に鏡の類はなかったものだから、兼続は己の表情が誰に一番近いものなのか、分からなかった。
場は、そんな風に盛り上がったり下がったり、色々な話題が出た。明日は死んでしまうかもしれない。そういった緊張感はこの場になはなかったせいか、幸村の言葉がどこか遠いもののように感じられた。あれは、明日死ぬだろうか、死んでしまうだろうか。椿の花が落ちるように、呆気なく、いっそ笑ってしまう程苛烈に、燃え尽きてしまうだろうか。兼続はそうは思えなかった。あれは生き残るだろう。こんなつまらない戦で死んで良い魂ではない。これは予感だった。何の根拠もない、もしかしたら兼続本人の願望だったのかもしれない。
明日のことを考慮して、この最後の酒盛りも早くにお開きとなった。幸村だけが、片付けの為に残っている。兼続は、政宗が部屋の入り口で待ち構えていることを知っていたが、それに気付いていないふりをした。あれは、若い。幸村と同じ年のはずだ。それなのに、兼続は幸村に対しては、そういった感想は抱かなかった。政宗は、若い、幼い、未熟だ。それゆえに、兼続では出来ぬことを仕出かしてくれそうな予感がどこかにあった。
『幸村、』
畳に飛び散った酒を拭いている幸村が、兼続の呼びかけで顔を上げた。穏やかな青年だ。大よそ彼には、戦という雰囲気も、死という単語も似つかわしくない。だというのに、兼続は、己は、彼以上に美しいもののふの魂を持った者を知らぬ。椿の花が落ちるように死にたいと言う。それはいっそ見事であろう、美しいであろう。兼続は彼の思いを是とは言わぬ。けれども否とも言わぬ。彼はそれを選び取ることの出来る強さがあった、美しさがあった、信念があった。最早、兼続では影響を与えることが出来ぬ程、彼は完成し尽くされていたのだ。
幸村は、まだ部屋に帰らぬ兼続に、早く戻らなくて良いのですか?明日に差し支えませぬか?と、柔らかに問う。兼続は彼の気遣いにおざなりに返事をして、彼の側にしゃがみ込んだ。幸村は動揺しない。布を掴んでいる幸村の手の甲に、己の手の平を被せた。幸村の手は、酒を呑んだというのに冷たかった。
『けれど幸村、お前がどんなに呆気なく、あっと言う間に死んでしまったとしても、私の記憶からいなくなることはないのだよ。こうして言葉を交わし、手を重ねる奇跡を共有したのだから、お前は、お前が思っている以上の厚みを持って、私の心に居座っている。お前がどのように死んでしまっても、たとえ桜のようにはらはらと散っても、椿のようにぽとりと死んでしまっても、私はとても哀しく思うよ。だから幸村、死ぬことよりも生きることを考えなさい。己の死に様に夢を見るのはやめなさい。私はね、この戒めが一瞬のものであることを知っている。お前が思っているよりは、お前のことを理解しているつもりだよ。でも、だからと言って、口をつぐむことはしない。何もしないわけにはいかない。私はね、幸村、お前が思っている以上に、お前のことが大切なのだよ』
幸村の顔を覗き込めば、彼は細く息を吐き出したところだった。緊張とは、また違う。ならば、何だろうか。彼の感情は整い過ぎていて、察するのが難しい。にこりと微笑めば、困ったように彼も笑顔を見せた。巧みだな、と兼続は思う。彼は、人に見せる感情の誤魔化し方をよく理解していた。人の顔色が曇ることを忌避した結果、会得したものだろう。最初から頂点に立つべく教育された政宗には持ち得ないものだ。
親指の腹で、軽く手の甲を撫でる。幸村は何も言わず、ただされるがまま、己の手に視線を落としていた。彼は確かに兼続の言葉に耳を傾けてはくれるけれど、彼にとってはこの時が刹那のものでしかないのだ。彼は、兼続の言葉よりも、政宗の想いよりも、己の道を選ぶだろう。彼の鋼のように固い信念は、
『幸村、死に懸想して頬を染めるのをやめなさい。どのように生き延びるのか、生きるのか、生を紡ぐのか。お前のその心の熱を、そちらへ燃やしてはくれないだろうか』
兼続の想いを見透かしてでもいるかのように、幸村は一度も首を縦にも横にも振ってはくれなかった。兼続はそれを悲しいと思い、政宗は、あの竜は、悔しいと憤るのだろう。ああまったくもって、あの竜は若いな。
***
そういったやり取りがあったことを、清正は三成経由で聞いた。三成は怒っているのか悲しんでいるのかよく分からない表情で、俺はあいつらを見ていると不安になる、と言った。あいつら、とは、どうやら兼続と幸村のことらしい。
「兼続は、あれは皆が思っている程強い男ではないのだ」
そうは言うが、清正は兼続自身をよく知らない。そうかよ、と適当に相槌を打ったが、三成は気にした様子はなかった。誰かに言いたかっただけなのかもしれない。
「明るく振る舞ってはいるが、時折ひどく落ち込むことがある。あれは俺より余程潔癖だ」
もう一度、そうかよ、と言いそうになって、慌てて清正は口を閉じた。時折ひどく落ち込むことがあるのは三成も同じで、清正はそれを見て見ぬふりをしてきたし、幸村は、どうだったろうか。いつもと変わらぬように振る舞っているような気がする。兼続を潔癖だというが、聞いている分に度合いは大差ないように思える。互いが互いに理想を押し付け合っているだけではないだろうか。ただ、それを口に出すには、珍しくうまくいっている三成の交友関係にひびを入れるだけのような気がして、またもや口をつぐんだ。
「幸村は、俺たちとは違うものを見ている。それに向かって真っ直ぐに突き進んでいる。だが、俺にはそれが見えない。見えないということは、知ることができないということだ、理解してやることができないということだ。それは、心底おそろしいことのように思えるのだ」
「お前は、最近幸村と、その、仲が良いだろう?どう思う?」
「何が?」
ようやく会話らしいことを振られたが、清正にとってはまさに、何をどう思うと訊ねられたのか分からなかった。そう率直に訊ねただけなのだが、やはり数年来の蓄積のせいか、三成の目に一気に険が走った。清正はそれを面倒臭そうに見やる。そういうつもりはなかったのだ。顔を合わせたら喧嘩をしなければいけない、なんて決まりがあるわけでもなし。ただ、いつの間にやらそれに近い関係になっていて、いつの間にやらその関係も少しだけ改善されていて、結局二人はそんな宙ぶらりんな関係なのだ。
「鈍い奴だな。幸村が、椿の花が落ちるように死にたい、と言ったことだ」
「別に、どうとも思わねぇよ」
信じられない、とでも言いた気に、三成は清正を睨みつけた。確かに、親しい者に対して、少々冷たい物言いだったかもしれない。けれど、幸村はこちらの方がいいのだ。あれは、人と共有する熱を避けている節がある。三成のことを大切だと言う。三成も、幸村のことを大切だと言う。幸村は、けれどもその温度を厭うている。清正は、だから素っ気無く振る舞うことしか出来ないのだ。
清正は、抗議の視線にため息をついて、言葉を続けた。
「幸村らしいとは思うがな。あれは、一本の道を突き進むことに人生をかけてる奴だ。そんな奴がそれを望むんだ、俺らにはどうしようもねぇだろうが。横からちゃちゃ入れて、あの男の一生を台無しにするのか?それがお前の言う義か?愛か?友情か?そう思ってんなら、幸村の方がよっぽど気の毒だよ。あいつは、"それ"以外何も望んじゃいない。何も欲しがっちゃいない。唯一だ、ただそれだけだ。それを、お前は奪うのか、奪うことが出来るのか。そもそもお前に、そんな権利があんのか?」
「清正、俺は…!」
「腹、決めろよ。あいつと親しくするってのは、そういうことだろう」
きっと、直江兼続ってやつは、もう腹括ってるぞ。
そう告げれば、まるで捨てられた子どものような茫然とした顔で、三成はさっと清正から視線を外したのだった。
椿の花が落ちるように
12/01/02