伊達政宗は奥州の雄である。政宗がその手に伊達の領土を確固たるものとしている間、既に中央では天下の情勢が定まりつつあった。流石の政宗も時の権力者となった豊臣秀吉には逆らえず、天下への道は閉ざされたかのように見えた。小田原で秀吉に膝を屈した政宗であったが、内心、天下への夢は尽きてはいなかった。確かに、乱世の天下取りでは一歩も二歩も出遅れた。伊達者と囃し立てられながらも、どこかで田舎大名がようも偉そうに、と思われていることを政宗は重々承知していた。が、それゆえ、政宗が秀吉よりも、徳川家康よりも優っているものがある。それは若さであった。秀吉が死去したその時ですら、政宗は男の盛り、武士の盛りであった。関ヶ原の戦の後、二条城で豊臣秀頼と対面した家康が秀頼の若さをおそれたように、政宗にも同様の念を抱いていたことであろう。次第に年老いていく己とは裏腹に、政宗には気が溢れていた。家康はその男の存在を密かにおそれながらも、討つでもなく潰すでもなく、身の内に取り込もうとした。豊臣へとなびく可能性のある男である。それならば、という思いもあっただろう。家康の思惑は、大方成功した。成功したが、最後の最後、大きなどんでん返しが待っていた。
何度も言うが、政宗は一度とて天下を諦めたことなどない。秀吉、家康、と天下人が移り変わっていく中で、虎視眈々と機会を狙っていた。しかし政宗は、時代を読む男であった。時代の流れを敏感に感じ取る男であった。その結果、最早武力で国は治まらぬ、と、武力で国を奪い国を広げ、武力によって政治を行うなど、もう古いのだと、そう悟った。家康に従順であったのは、そこに起因する。いずれ、この狸も死ぬ。その時こそ、徳川という家を乗っ取り、武力では決して成し得なかった、無血の天下を伊達の手中へ。政宗の欲は大きかった。政宗はそれをただ己を突き動かす欲望だと重々承知していたが、他人の目はその欲を野望と呼んだ。政宗の傲岸でありながら、一途さを伴う態度がそう呼ばせたのである。しかし政宗は、他人がそう感じ取っているのを眺める度に思ったものだ。そのように美しゅうものではない。清らかなものでも、真っ直ぐなものでもないわ。ただわしは欲しいだけじゃ。天下が欲しい、天下人の座が欲しい、幕府を開く力が、この国を変える力が。欲しゅうて欲しゅうて堪らんのじゃ。
ただ一人であった。あの直江兼続ですら、直接政宗には言わなかった。内心では罵倒していたのかもしれぬ、ただ言う機会がなかっただけなのかもしれぬ。だが、政宗は誰からもその指摘を受けたことはなかった。ただ一人を除いては。あの男はくすくすと笑いながら、気後れすることなく言ってのけたのだ。政宗は今でもその時のことを鮮明に覚えている。軽やかな笑い声、穏やかな微笑、爽やかな空気。あの男は常にそういう存在であった。その男が、政宗の目を見るなり言い捨てたのだ、『なんと欲深きお方。』と。その男こそ、真田幸村であった。
***
徳川家と懇意にしていた政宗だ。向かい合う軍勢は、みな見知った者ばかりだ。その中から一人、老人が進み出た。痩せ細った身体に重い鎧ががしりとしがみ付いている様は、いささか不便そうに見えた。政宗はその人を目を細めて認める。ああ、本多の爺だ。
「政宗公ともあろうお方が、なにゆえ乱を起こしまするか。これにて伊達家はお家断絶。ああ残念なりし。」
政宗が本多の爺と呼んだ本多正信とは、家康以上の狸である。此度の大坂攻めの悪巧みも、この老人の尽力あってのことだろう。ご苦労なことよのう。老人が未だ現役を退けぬとは。政宗はかの老人の言葉を笑い飛ばした。お家断絶?それは貴様らが万一勝利した時のことであろう。否!万に一つとて、その可能性はないわ!
流石に長生きをしているだけはある正信は、政宗の見下すような笑い声にもひるまなかった。
「徳川に従っておれば、栄華は思うままであったのにのう、」
政宗は流れるような動作で、ずどん、と正信の地面に一発、鉄砲玉を撃ちかけた。挑発というよりも、あの老人を黙らせたかったからである。
「ようほざく口よのう。竜の志、そなたには悟れぬわ!わしは独眼竜じゃ!竜は天下が欲しゅうなった!貴様なぞ踏み潰してくれようぞ!」
***
秀吉の生前、既に気運を読む者たちは、こぞって徳川へとなびいた。政宗もその一人であった。よって、後の関ヶ原の戦いで西軍に属した者たちと親しく付き合っていた幸村とは、あまり見知った仲でもなかった。小田原では配置場所がまず遠かったから、二人が会話をする機会はほとんどなかったのだ。幸村は大坂城では中々の評判であった。傅役であり、軍師であり、政宗の数少ない理解者でもあった片倉小十郎は、幸村の評判を聞くなり、ああして物静かな穏やかなお人になりなされ、と諭したものであった。しかし政宗は、そのようなつまらぬ人間にはなりとうないわ、と跳ね除けてしまった。政宗に届く幸村の噂はどれも、品行方正、ひっそりとその場に佇み、にこにこと穏やかな表情を浮かべながら他人の意見に頷いている、若いながら兎角出来た御仁である、とのことであった。政宗はその評判を聞くなり、幸村の名を一蹴した。ああそのような面白味の欠片もない人間にだけはなりとうはない、と。
夏の大坂はとにかく蒸した。雪国育ちである政宗は早々に暑さが嫌になり、滞在しているだけで機嫌が悪化していた。それでも小十郎は政宗の相手には慣れたもので、
『暑い!早う帰りたい、そうじゃ小十郎、ぬし、太閤に粗相を仕出かし、帰国する理由を作ってまいれ。ああそれにしても暑い、暑い!わしが天下を取ったあかつきには、このような暑い場所を居城とはせぬぞ。』
そう理不尽な物言いをする政宗の勘気も素知らぬ顔で受け応えしていた。言葉が過ぎますぞ、とたしなめる小十郎であったが、その目の奥が笑っていたことを、政宗は見抜いている。この男とて、そうなったのであればどれほど良いか、と感じているのだろう。
『そう言えば政宗さま、先ほど左衛門佐どのと擦れ違いましたよ。あの御仁は私なんぞにも頭を下げてくださいまして。それにしても、あのお人のなんと爽やかなこと。一時、この煩わしい暑さを忘れ申した。』
小十郎の言に興味を抱いたわけではない。だが政宗は確かに小十郎の言葉を受け、先ほどまで暑い暑いと文句を言っていたとは思えぬ俊敏な動きで立ち上がった。小十郎が、いかがなされました?と訊ねれば、会いとうなった、一目見てみとうなった。案内せい小十郎。そう言い、政宗は小十郎が後ろから付いて来ているのか確かめもせずに、足早に部屋を抜け出したのだ。
そこで政宗は、初めてしかと幸村を見た。第一に思ったことは、なんと腑抜けた男であろう、ということであった。政宗は幸村の顔に浮かんでいる表情を見て落胆した。武士とは常にぴんと張り詰めた何かを抱えている生き物である。柔の中に剛を、剛の中に柔の矛盾を、ごく自然に着こなす生き物である。政宗はそういった人種であった。それゆえ、幸村の気に政宗はがっかりしてしまったのだ。確かに物腰は柔らかい、浮かべている笑みは人に良い印象を与えるだろう。だが、それだけであった。
そう表情にも出ていたのだろうか。幸村はあの穏やかな空気を纏まったまま、上品にくすくすと笑った。男はもっと大口を開けて笑いたてるものじゃ!と常ならばそこで怒鳴り声を撒き散らすはずであったが、何故だかこの男の笑い声は不快にはならなかった。幸村の立てるころころとした声は、幸村の空気によく似合っていた。政宗が、今度は眉の間に皺を寄せた。幸村の声は確かに不快ではなかったが、矜持の高い政宗は、たとえ冗談であったとしても己を出汁に笑われるのがひどく気に入らない性質であるからだ。一瞬にして怒気を纏った政宗に気付き、後ろに控えていた小十郎が政宗の肩に手を置き、小声で政宗さま、とたしなめるが、政宗はうるさい奴じゃ、とその手を払い落としてしまった。背後で聞き慣れたため息が漏れた。
『何を笑ろうておる。これ、真田の。』
政宗の片目が、ぎろりと幸村に注がれる。不穏な空気を纏った、見る者を射抜く瞳である。しかし幸村は、笑みを止めはしなかった。ああおかしなお方、私なんぞをそう睨み付けて、何の遊びでございましょうや。そう言われているような気がして、政宗は鼻を鳴らしてその剣呑な色を僅かに散らした。
『噂に聞く独眼竜が、あまりにも人らしゅうて、なにやらおかしくて。失礼致しました、どうか、平に。』
幸村はまるで型にはめられたような見事な動作で、手をつき頭を下げた。一つ一つの所作が芝居染みていて、政宗はなにやら面白く感じた。なんじゃこの男は。こやつはそうして、この大坂を舞台に己を演じておるのではないか。政宗は、よい、と一言だけを発した。幸村はまたしても大仰に顔を上げ、ふわふわとした笑みを浮かべた。おそらくは政宗のその一言に、政宗の心境の変化を感じ取ったのだろう。捻くれ者じゃ、わしよりもこやつの方が、余程ひねておるわ。政宗は口許に笑みを浮かべた。その一瞬、この場に二人だけが存在した。互いにその一瞬に、互いの存在を感じ取ったのだ。政宗は幸村の根底に、己と同じ欲を感じた。極々当然のことのように、政宗は、幸村と己との間に僅かな誤差もなく通じる理念があることを、その目を合わせた一瞬に、全てを感じ取った。政宗の欲は天下を求める為に欠かせぬものであったが、幸村のそれは、ただひたすら純粋に戦を求める欲であった。
『気に入ったぞ幸村。いずれ貴様と手合わせをしてみたいものじゃ。』
『それは困りましたな。政宗さまのお召し物が汚れてしまいますゆえ、伊達者の名折れにございましょう。』
先ほどの険悪な空気は何であったのか。小十郎ばかりが二人の変化に途惑っていた。この邂逅ばかりは、小十郎とて分からぬものであろう。政宗は、幸村にもう一人の己を見出したのだ。ああおぬしの欲深きこと欲深きことよ!わしと瓜二つじゃ、わしそのものじゃ!目の奥がついつい笑ってしまう、ああこんなにも愉快なことがこれからの生に待ち受けていようか!
幸村は今にも笑い出しそうな政宗を見、実に楽しそうに言った。
『本当に、欲の深いお方ですなあ。』
ああそなたの名、覚えたぞ幸村。
***
「あまりにも、あやうい…。」
政宗はその言葉に笑った。ようほざきよる!本多の娘は余程幸村が大事であったのであろうなあ。政宗は銃口を向けたまま、稲は弓を構えたまま、政宗はその余興に口を開いた。
「当然じゃ!わしは戦をしておるのだぞ!貴様があの幸村をあやういと言うたは意外であったがの。流石、本多の娘じゃ。流石、流石、」
政宗はからからと笑い声を立てた。稲は己が侮辱されたと思ったのだろう。吊り上げた眉を顰め、政宗をじろりと睨め付けた。あやういはずよ、ああ見事な慧眼じゃ、見事、見事。ひゅん、と空を裂く鋭い音が政宗の耳元を通り過ぎた。稲が政宗目掛けて弓を射ったからだ。政宗はそれを避けながらも、未だ愉快愉快と笑っている。
「何がおかしいのです!」
「わしは感心しておるのよ。あやつは生涯を戦の中で過ごした男じゃ。いかなる時も、命を落とす己を受け入れておった男じゃ。あやういはずじゃ、あの男は常に戦場の空気をまとっておったからのう!」
ゆえに、常に色を見失うような愚かなことはなかった。激昂した幸村は、その場で敵に隙をつけこまれ死んでしまうからだ。だからこそ、幸村はいかなる時も政宗の視線に答えた。そらすことを良しとせず、誤魔化すことを良しとせず、穏やかに微笑み返すことでその毒気を中和し、受け入れてしまったのだ。あのような男にはもう会えぬな。己の眼光を、怯むことなく、睨み返すこともなく、己の柔と同化させてしまった男なぞ、最早時代が生んではくれまい。ああ己が摘んでしまったのだ、己が討ち取ってしまったのだ。あの大坂で、ああなんとも惜しい男を死なせたものだ。