武蔵は、伊達が徳川を攻めると聞き、衝動のままに馬を走らせた。徳川にも伊達にも属すことなく、三方ヶ原の中央の砦に陣取った。初めは単騎で駆けていたのだが、いつの間にやら人が集まり、一つの集団とも呼べる塊になっていた。周りを見渡せば、何やら見覚えのある人物がちらほらと見受けられる。ああこいつらは大坂で死ねなかった奴らだ、と武蔵は誰かに教えられるでもなく悟った。武蔵の戦は私闘であった。ゆえに彼らを巻き込む謂れはないし、武蔵も決して彼らを繋ぎとめようとはしなかった。だが、彼らは武蔵が何かを言う前に、言葉は無用、ここで戦働きをさせてくだされ、とそう目が空気が心が訴えるのだ。武蔵はその覚悟の重さを知っていた。その覚悟を背負ったまま戦場に赴き、ついには戻らなかった人を知っていた。武蔵は、その覚悟の重さだけは己では持ちえぬものだったから、何も言えなくなってしまう。引き止めなければ後悔する、やめろやめろやめておけ、無駄に命を捨てるなんて、そんな馬鹿はあいつ一人で十分だ。そう言わなければならないこと、そう言わねばならぬのが己であると、武蔵は自覚していた。
だが、あの目を見たか、あの空気を感じたか、まるで愛しき片割れを撫でるようにつぅと槍を扱くあの動きを。武蔵は目に焼きついているその光景が脳裏を掠める度、ふとした瞬間にその儀式と誰かの動作が重なる度、何も言えなくなってしまう。ああ俺にはその覚悟を止めるだけの言葉がない。
戦には勝てぬだろう。いや、戦にすらならぬだろう。それ程の兵力差であったし、武蔵自身が勝ちを欲しがらなかったせいもある。そもそも、何をもって武蔵の軍とも呼べぬ粗末な集団が勝ちを拾ったと言えるのだろうか。
それでも武蔵は、伊達の進路を塞いだ。大将だ、後藤の旦那だ、毛利だ。そんな奴らの仇を取りたいなどと、高尚なことを思ったわけではないし、もちろん、幸村を討ち取った伊達が憎かったわけでもない。いや、憎くはないか、と問われれば、それは否であろう。正直、幸村が討ち取られたと聞いた時、心が震えた。衝動のままに獣のような叫び声をあげたように記憶している。けれど、幸村の死を嘆くつもりはなかった。あいつはあいつなりに、満足していったのだ。そう思いたかった。ゆえに、武蔵はここに居る。伊達政宗とはいかなる人物か。本当に、幸村の首をあいつにやってしまってよかったのか。彼の覚悟を無視してでも、武蔵はしなければならいことがあったのではないか。
武蔵は大きく息を吸い込んだ。雨は上がっていたが、未だその名残を色濃く映しており、地面はぬかるんでいた。空気にもまだ湿り気が残っている。理由など、あってないものだろう。ぐだぐだと思考を重ねても、今ここに居る事実は何も変わらない。
大坂の戦ではほとんど幸村と共に戦場を駆っていたから、幸村直属の忍びたちが常に戦況を知らせてくれた。だが、今ではそれもない。何もない。気の利いた者が物見の真似事をしているのを、武蔵は黙って眺めていた。
武蔵は剣術家であると同時に兵法家でもあったが、兵を動かす機微には全く興味がなかったし、軍を手足のように操ることを苦手としていた。その分幸村はそういった、戦場の細かな移り変わりには敏感で、武蔵は彼の才能に感心したものである。
ある穏やかな日のことであった。幸村の話は、きっと無意識であろうが、軍略や戦略といったものに自然と流れていく。武蔵は幸村の話一つ一つが新鮮だったから、子どものように素直に幸村の言葉に頷いたものだ。一頻り語り終えた幸村に、武蔵は至極単純な感想をこぼした。
『よくもそこまでぽんぽんと策を思いつくもんだ。しかも、無駄がねぇ。』
感心した恐れ入った!と褒める武蔵に、幸村は苦笑を漏らしながら言ったのだ。
『きっと私よりも、武蔵、お前の方が兵の扱いは上手いはずだ。お前の柔軟な思考には、私では追いつけない。』
何を言っているんだ、と武蔵は思った。武蔵は戦場で兵をどう用いれば敵の虚をつけるのか、まったく分からないからだ。だから武蔵は素直にそれを告げた。幸村はやはり苦笑しながら、
『それはお前の経験が足りないからだ。』
と言った。武蔵は経験だけでは決して補えぬ、天性のものが幸村にはあると思っていたから、それは違うと思った。思ったが武蔵は言わなかった。続いた幸村の言葉が何やら悲しくて、それを誤魔化す為に笑わなければならなかったからだ。
『経験など積まぬ方が良いから、やはりお前はそのまま、策略一つ立てられぬ武蔵で居てくれればいい。』
武蔵は、純粋に幸村が好きだった。損得だとか、いい奴だとか悪い奴だとか、そういうものをすっ飛ばして、ただ漠然と、ああきっと俺は幸村が好きなんだなあ。幸村も俺が好きなんだなあ、と感じていた。彼にその感情を確かめたことはなかったが、武蔵は無条件に信じていたし、信じることが当然だとも思っていた。幸村もまた、武蔵と同じような自惚れを感じているのだと、やはり何の根拠もなかったけれどそう信じていた。その感情を、人は友情と呼ぶのだろうなあ。武蔵はそう思った。友、という響きが何やらくすぐったく、それ以上に胸がじわりと温かくなって、武蔵は途端嬉しくなった。ああ友か、友とは良い言葉だ。
武蔵と幸村が共有した時間は、互いの生において本当に僅かな時でしかなかった。だが、それゆえ武蔵の中に強烈に、真田幸村という男は未だ胡坐をかいて大きく存在している。死者を美化することは容易い。記憶の中の秀頼や、散々苛められからかわれた後藤や毛利は、既に美しい思い出と呼ぶものになってしまっていた。けれど、せめて幸村との思い出だけは、そのように誤魔化したりはしたくなかった。ひどい奴だった、優しい奴だった、ずるい奴だった、穏やかな顔をして企んでることは結構えげつなかった。武蔵の中の思い出が、決して美しいの一言では済まされぬ思い出が、べり、べり、とまるでひどいだとかずるいだとか、決してきれいとは言えぬ記憶がその音に表れているように、べり、べり、と剥がれては、たくさんの裏と表を見せながら溢れ出した。
***
『私は一人、取りこぼされたのだ。』
記憶の中の幸村は、いつも笑っていた。笑いながら、いつも何かを誤魔化していた。武蔵はその何かが分からなかったけれど、分からない方が良いとも思っていた。お前はきっと軽蔑するぞ、と幸村が時々、夜の闇を称えた、心胆をぞっとさせる眼でじろりと一瞥するからだ。武蔵はその眼が段々と怖くはなくなったけれど、幸村が一縷の隙もなく心の底から信じている、軽蔑という感情が何やらおそろしかったから、武蔵は決してそれを問うことはなかった。
ああ何の話をしていて、幸村は突然にそれを口に出したのだろう。徳川の軍勢がひたひたと迫っていて、もしかして、彼とその話をした次の日が、もしかして、あの戦だったろうか。
武蔵は、目の前の自分を丸っきり無視をして、遠い空を恋しい恋しいと見つめる幸村の様が悔しくて、思い切り自分の思いをぶつけてしまった。
『で、今度は俺が取りこぼされるのか。』
幸村が慌てて振り返ったから、武蔵は己が何を口にしてしまったのか自覚した。言うつもりはなかった、伝えるつもりはなかった、彼に知ってもらおうなどと、考えたこともなかった。いや、そもそも、取りこぼされるなどと、今この瞬間以外に考えたことはなかったのだ。けれども、言葉は武蔵を離れて幸村の耳に届いてしまった。幸村のただただ純粋に驚きの表情を見せている様を見れば、それは自然と悟ることができた。
『ああ!今のなし!忘れろ!ああカッコわりぃったらねぇ!厚かましいにも程がある!』
俺はきっと、そう伝えてしまったことを、いつまでもいつまでも未練がましく覚えているだろうけどな!武蔵は己の思いを語りたいという欲がひどく淡白な人間だった。けれど、ああこの時だけ、何故だかその欲がむくりと姿を現してしまった。ただ知ってもらいたいと思ってしまった。そして叶うならば幸村にその言葉を受け入れてもらって、理解してもらいたいと、厚かましくも思ってしまったのだ。
幸村は今度は目をこれでもか、という程に見開いて、『ああそうだなあ』とのん気に返事をした。彼は武蔵の言葉の何をそうだと思ったのか分からなかったけれど、幸村が存外に怒ってもいなければ、苛ついてもいなかったから、武蔵はひとまずほっと胸を撫で下ろした。
『お前はずるい奴だ。その上わがままだ。だからきっと、ああそれよりも、』
幸村は不自然に言葉を切った。だからきっと、に続く言葉を武蔵は聞きたかったのに、幸村が次に口を開いた時、そこへは繋がらなかった。
『お前はわがままな男だから、私はお前のわがままを叶えてやることができないぞ。お前のわがままは、こうして世間話をしているだけでも無限に生まれてきて、覚えているものもあれば、すっかり忘れてしまっているものもあって、きっと武蔵自身も忘れてしまっているものもきっとたくさんあって、』
武蔵は一方的に言われ続けるのが悔しくて、強引に幸村の言葉の合間に己の主張をねじり込んだ。
『それを言うならお前だってわがままだ。俺のちっぽけな願いを、これっぽっちも叶えてやる気がねぇんだからな。いいや、違うな。お前は、わがままってより、けちんぼだ。このケチ!』
『そうだ、私はけちだぞ。何せ、ついこの間まで九度山でひもじい生活を送っていたからな。家康に勝るとも劣らぬ吝嗇家だ。』
幸村は声を立てて笑う。武蔵もそれに続こうとしたけれど、その前に幸村が、再び話題をむしり返した。やはり、幸村はわがままだと武蔵は思った。それ以上にずるい奴だと思った。言わなくてもいいことを、伝えなくてもいいことを、幸村は口にしたからだ。それはきっと、触れなくていいことを言葉にしてしまった武蔵に対する意趣返しだろう。
『武蔵のわがままは覚えてはおくぞ。多分、ふとした瞬間に思い出すだろう。けれど私はこの通りの猪武者だから、一つのことしか見えなくなってしまって、だからふとした瞬間に思い出しはするだろうけれど、ふとした一瞬に忘れてしまうだろう。』
幸村はこの日珍しく多弁で、再び空を眺めながら、ふふ、と笑った。
『私はお前よりも厚かましい人を知っているけれど、お前以上にわがままな奴は知らない。だからきっと、そういうことなのだろう。』
何が、そういうこと、だ!武蔵は咄嗟に幸村の足を払い、彼の体勢を崩してやった。幸村は、『わっ』と情けない声を出して、その場に尻餅をついた。ふん思い知ったか!と、転ばせた張本人である武蔵がすぐさま手を差し伸べたが、幸村は手をついてまだふふ、と笑っていた。武蔵の手には気付いていないようであった。転んだ時に乱れたのだろう、大雑把に長さが整えられているだけの幸村の髪が、彼の顔を隠していた。幸村の手が小刻みに揺れていた。ふふ、ふふ、と身体が震えている。武蔵は幸村の表情が見えないことが急に不安になり、『馬ッ鹿!笑いすぎだ!』と叫んではみたものの、幸村の髪を払い除ける勇気はなく、彼の衝動が収まるのをじっと待っていた。『ああ、すまない。』そう言う幸村の声もまた震えていたけれど、武蔵はその声を聞いても、彼が笑っているのか泣いているのか判断がつかなかった。
***
武蔵は頭を振って、幸村の姿を隅に追いやった。幸村は、きっと幸せだったのだろう。そう思える自分は何とも薄情に思えた。俺はお前が居なくなって、物凄く悲しい。けど、きっとお前は、これでよかったのだと笑う。笑うのだ、あの男は。いつだって、笑えば武蔵のもやが晴れると勝手に思っていたのだろう。本当に、自分勝手なわがままな男であった。武蔵の無限に湧き出る小さなわがままを多少は聞いてはくれたが、一番大きなわがままだけは、あの男は叶えてはくれなかった。己の我を張ったのだ。
大きく息を吸い込む。これ以上待ってはいられない。身体が心が早く早く!と何かを急かしている。
「待つのは性に合わねぇ!出るぜ!」