真田幸村は武田の家臣であった。しかし、長篠の戦で大敗した後、武田の家は傾き、ついには滅んでしまった。小さい田舎大名でしかない真田家は、その後、主を北条、徳川、上杉、と変え、今では豊臣に従っていた。幸村は豊臣に出された人質であった。
大坂暮らしにも慣れてきた時分である、未だ豊臣に従わぬ北条を討伐すべく、豊臣秀吉は腰を上げた。幸村もその軍に従い、小田原にまで来ていた。
さて、その真田幸村である。性格は至って温厚であり、いつも笑顔を絶やさぬ穏やかな好青年であった。若いながらも謙虚さを忘れず、されど己の意見を有していないわけではない。誰の目からも好印象であり、また大坂城での評判も中々であった。気難しい石田三成ですら幸村には笑みを向ける程である、その程度は知れよう。清廉潔白を身にまとったような青年である幸村だが、一つだけ他人には明かせぬ秘密があった。幸村は女子であったのだ。
幸村は真田昌幸の子として生まれた。歳の近い兄が一番の遊び相手であったが故に、自然と人形遊びを覚えるよりも、木の棒を握ることが多くなった。幸村もその方が自分の性に合っていると思ったのだろう、むしろ進んで刀や槍、弓の稽古に励んだ。女子にしては勇ましい限りだが、別段隠し立てする必要はない。だが、昌幸を初め真田家の人々は、幸村が女子である事実を秘匿した。幸村のたっての願いであった。女子として生きるよりも、一人の男としてお家の為に働きたい。それが幸村の想いであった。兄が幸村とは違い、身体を壊しやすい体質であったのも影響しているだろう。幸村は自我が芽生え始めた頃、既に女子を捨てていた。女子である自分を忘れていた。
幸村は秀吉を初め、豊臣の人々に己のことを話してはいない。彼女自身、あまり触れたくはない事実であったし、その必要性を感じていなかったからである。女であろうとも武人である。その槍の腕は男に劣るものではない。
今、幸村の隣りで談笑する三成もまた、幸村が女子であることを知らぬ。幸村は事実を知った三成が、今と同じように接することを拒むとは思ってはいなかったが、やはり言えなかった。もう一人、上杉家の重臣である直江兼続は、幸村が上杉家へと人質になった経緯もあり、その事実を理解していた。幸村が女子である事実をすんなりと受け止めているごく珍しい人物である。この三人、以前から交友はあったものの、こうして小田原で再び知遇を得た。兼続などは三成の顔を眺めながら、なんとも柔らかい表情を出すようになったものだ、と一人微笑んだものだ。その表情を引き出したのが幸村だと思うからこそ、なんとも嬉しいものを感じていた。
その時である。殿、殿、と呼ぶ声に、三人が振り返った。三成は声の主が分かったようで、こっちだ左近、と名を呼んだ。幸村の表情が揺れた。
果たして、姿を現したのは、石田家の名物家臣、島左近であった。何の用だ、と感情の起伏に乏しい三成の声が、幸村の意識をするりと撫でていく。
「、さこん、どの、ですか?」
幸村らしくはない、歯切れの悪い声に、左近もまた動きを止めた。互い、死人を見たような顔で見詰め合っていた。何故、と問うのは愚問であろう。幸村は真田家の一員としてこの場に赴いていたし、左近もまた石田家の家臣として戦に参加していた。けれども互い、その目に浮かんでいるのは、何故この人がこいつが、今、目の前に立っているのだろう、その一言であった。
二人は縁あって、武田時代にはそれなりに親しくしていた仲であった。信玄公が健在していた頃は、刀術や槍術、軍略戦略、その他たくさんのことを語り合った。碁も幾度となく指した。だが、縁はそれきりだと互いに思っていた。縁があれば、あのようなことにはなるまい。
二人が、互いの出方を伺って沈黙していた。それを傍観していた三成であったが、痺れを切らし、
「それで左近、何用だ。」
と少々苛ついた声を発した。その声にようやく己の役目を思いだしたのか、
「ああ、秀吉さまがお呼びですよ。」
と呆けた声を出す。
「秀吉さまは、今どちらに。」
「ええっとですね、いや口で説明するより案内しますよ。俺も呼ばれてるんでね。」
この場に残されたくはない口実ではないか。誰もがそう思ったが、秀吉に呼ばれているのでは仕方があるまい、幸村も彼を引き止める手を諦めた。
三成は足早に秀吉の許へと向かいながら、後ろを歩く男を振り返った。常と変わらぬ表情をしている。三成が振り返ったことを機敏に察して、
「何ですか?殿。」
とまで言う。三成は
「何でもない。」
と顔をそらしながら、先程の左近の様子を思い出す。間抜けな顔をしていた。三成はそう思った。武田に身を置いていたことは知っていたし、もしやと思ってもいたが、やはり二人は顔見知りであったのだ。そう考えた三成だが、その結論では二人のあの沈黙は少々おかしいのではないだろうか。不仲であったのだろうか。しかし二人の相性はどうであれ、二人の性格から考えると、誰かとのあからさまな対立は考えられなかった。では、何だ。三成は手っ取り早く聞いてしまおうかとも思ったが、あの左近の様子である、もしかしたら訊かれたくはないことではないだろうか。そう思った三成は、結局しばらくはその疑問を誰にも打ち明けず、一人考え込むこととなった。
残された幸村たちである。幸村は二人が立ち去った後も、その後ろ姿をいつまでも追い続けている。見かねた兼続が名を呼びつつ手を引けば、
「あ、すいません兼続どの。」
と僅かに頭を下げた幸村と目が合った。兼続は気や雰囲気に聡い。幸村の性別もそうした所から、なんともなしに感じ取ったのである。
「すごい顔をしていたぞ、お前も、島どのも。」
「何分不意打ちでしたので、びっくりしました。」
確かに、あの時の幸村は単純な言葉で表してしまえば、驚いている、の一言に尽きるだろう。だが、驚き方が尋常ではなかった。三成と懇意にしている幸村である、その家臣としても有名な左近と出くわす確率は決して低くはないだろう。それを全く想定していなかったと言えよう。兼続が首をかしげるのはまさにそこである。上杉家で一時期預かっていた頃は、よく幸村と他愛ない話をしたものだが、その話からも幸村が確かな戦眼の持ち主であることは伺い知れていた。戦の変転が日常生活と同じというわけにはいかないが、幸村には思考の柔軟性があった。にも関わらず、である。
「一度切れた縁だが、もしや再び繋がるかもしれんぞ。」
兼続はそう快活に笑いながら、幸村の背をばしばしと叩いた。幸村がぎくりと形容するに相応しい表情を一瞬浮かべたが、兼続はおやおや、と思うばかりで追求はしなかった。
真田幸村と島左近は、小田原の桜咲き乱れる中、静かに再会したのであった。