小田原での戦も終わり、幸村は再び、大坂城へ詰めていた。最早人質というよりは、秀吉の元、そして天下の大坂の下で、智略や天下の趨勢、世の中の巡りを学んでいるという方が正しいだろう。秀吉も幸村を殊の外気に入り、股肱の臣である三成と共に侍らせていることが多くなった。他人との接触を極力嫌う三成であったが、幸村を挟むとその性質は幾分が和らいだ為、秀吉も面白くなったのだろう。大坂は平和であった。
そんな折である。幸村は秀吉に頼まれた書物を運んでいた。急ぎの用ではない。何かと暇を持て余し気味な幸村を気遣っての言付けである。幸村は書物を山のように抱えている。自然、前が見えにくく、足元も疎かになってしまった。廊下の曲がり角、人の気配を察知し、その場に立ち止まった。どんなに秀吉に気に入られていようが、幸村は人質の立場である。
幸村は僅かの間、通り過ぎていく人影を待った。しかし、曲がり角を折れ、その人物が誰であるか気付いた途端、幸村はどうしていいのか分からなくなってしまった。人影の正体は島左近であった。ぎしり、ぎしりと廊下が軋む。その音が段々と近付く。だが、幸村の視線は左近に注がれたまま、まばたきすらしなかった。左近もまた幸村の視線に気付いているだろう。凝視しているのだ、気付かずにはいられまい。
みし‥といっそう強く床が鳴った。幸村はその音に、ようやく視線を外し、勢いよく頭を下げた。しかし幸村の腕の中には、溢れんばかりに抱えられた書物が盛られていたのだ。慌てていたせいもあり、当然、その均衡が崩れ、一冊二冊、とどさどさと雪崩れを起こしてしまった。幸村は思わず小さく声を上げてしまった。落ちる書物を受け止めようと手を伸ばせば、更に三冊四冊とこぼれていく。腕の中にほとんど何もなくなってしまった。幸村は慌ててその場にしゃがみ込み、書物を拾っている。
「何やってるんだ。動揺し過ぎだ。」
頭上からの声に、幸村はしゃがんだ体勢のまま、顔だけを上に向けた。左近の声だ。左近は苦笑を浮かべながら、どっこらせの掛け声と共にその場にかがみ、幸村が落としてしまった書物を拾っている。
「お久しぶり、です。」
突然幸村が話しかけてきたものだから、左近は思わず幸村へと視線を向けた。しかし幸村は左近の方を見ないように、黙々と手を動かしていた。無造作に腕に抱え込んでいるものだから、きっとまた何かの拍子に落としてしまうだろうな、と左近は思ったが言わなかった。代わりに、
「ああ、そうだな、久しぶりだ。」
と、幸村の言葉に応える。
「もう、会うことはないと、そう思っていました。」
「ああそうだな。」
「もう言葉を交わすことなどないと、そう信じ込んでいました。」
「ああ、俺もそうだ。そう思っていた。」
落ちている本はあと一冊。幸村と左近の丁度真ん中に落ちている。幸村はどうしようか、と手を伸ばしかねている。左近が躊躇する幸村の心情を考えて、素っ気無い動作でそれを拾い上げた。
「ほら、これで最後だ。」
そう言い、幸村の抱え込んでいる山の頂上に重ねる。
場が沈黙した。幸村は顔を伏せて、努めて左近と目を合わさぬようにしている。三成や兼続が、既に二人の再会を見た時点で、この二人には何かがあると覚ったようだが、事実そうである。だが、二人共その事実を忘れていた。今となっては、本当にあの頃が存在していたのかすらあやふやである。再会した小田原での時、ようやくあの頃を思い出した程であった。互いに相手をどうでもいい存在だと思っているわけではない。武田ではよく二人で笑い合っている姿が見受けられた。だが、何故だか二人は、その事実を忘れていた、捨ててしまった、と言っても過言ではない。
沈黙に先に痺れを切らしたのは意外かな、左近であった。左近はこの沈黙を祓おうと口を開こうとした。その時である。ぎしり、ぎしりと再び廊下の板が鳴った。どうやら曲がり角の向こうを誰かが歩いているようである。その音に、ようやく幸村の空気が動き出した。幸村は慌てて立ち上がる。そのせいでもう一度バランスを崩しかけたが、左近が横から手を伸ばしたこともあり、どうにかこぼさずには済んだ。今度は体勢を崩さぬよう、軽い会釈をした。
「私は失礼します。ありがとうございました。」
そう口早に言うや、逃げるようにそそくさとその場を後にしたのだった。