天下は豊臣の手によって着々と統一されていた。未だ東北や九州は抵抗を見せているが、直に豊臣が征伐隊を組み、しかるべき処置を施すだろう。大坂は平和であった。天下人となった秀吉の御膝元であり、また、商業を奨励する秀吉の政策もあり、各地の名物品だけでなく、遠く南蛮、明などからの輸入品で溢れていた。往来には宣教師たちの姿もさほど珍しいことではない。海外の文化がもたらしたものの代表として、まずは鉄砲を上げるべきだろう。ここ数年の間に、戦の姿は大きく変化していた。今や鉄砲の活躍なしには戦に勝つことができぬほど、鉄砲という技術は浸透していた。そして、何より、宣教師が伝え広めようとしている耶蘇教(キリスト教)は、戦に病んだ人々にあっと言う間に浸透してしまった。洗礼を受けた大名も少なくはない。
既に天下の帰趨は決している。力の持たない小さな大名や、豊臣との共存を望む大大名たちは、こぞって大坂へ人質を差し出した。徳川家康の次男や、宇喜多家の嫡男など、人々の話題を集めるお家も少なくはない。しかし、その中で特に目立つ存在があった。信州真田家からの人質である。別段、容姿はそこまで際立ったところはない。穏やかな物腰は、反対に迫力に欠ける部分もある。確かに徳川の軍勢を退けた武功は注目を集めたが、それすら、主家を点々とした所業のせいで霞んでしまっている節がある。前述した、徳川家康の次男・秀康や、宇喜多秀家らと比較すると、格という面でも劣っている。しかしながら、この真田幸村という男は、密かに人気が高かった。まずもって、秀吉が大層幸村を気に入っている。側に置きたがるのだ。自然、豊臣の家臣たちと顔を合わせることが多くなる。石田三成も、当然幸村と面識を持っている。だが、二人の繋がりといえばその程度であった。特別に昵懇にしているという事実はない。同席をしていれば、簡単な会話を交わしはするが、それ以上踏み込んだ話はしない。これはどちらにも原因がある。三成はあまり人と馴れ合わぬ性質であるし、また、幸村も三成が好まぬ愛想を周りに振りまいていた。それがあからさまな媚諂いに見えぬところは、幸村の美点であろう。実際、幸村と言葉を交わした者は、大概が彼に好意を抱く。常に柔らかく構える幸村には、どのような剛の者もほだされてしまうらしい。幸村のような穏やかな物腰の男が、人材豊富な豊臣家であっても珍しいのだろう。切支丹かぶれの男なぞは、幸村の笑みを聖母のようだ、などと大袈裟なことをのたまったこともある。三成は、それを否定したくてたまらない。あの男の笑みをお前はしっかりと直視したのか、と問い質してやりたい。あの男は、ただ無関心なのだ。あれは、にこにこと人形のように笑っていれば、それで万事上手くいくと思っている類の笑みだ。それを証拠に、あの男はどうして笑っているのか、誰も説明できぬではないか。何が面白くて笑っているのだ、何がお前の頬の筋力を緩ませるのだ。考えること自体を放棄している。あまりに無責任、かつ、粗雑だ。それを三成は、常々勿体ないと思っている。三成はほとんど盲目的に、豊臣秀吉という男に心酔していた。己にとっては、かの方こそ神である、デウスである。その神が、幸村を気に入っているという。秀吉は優秀な若者が好きだ。そうやって取り立てられたのが三成であるから、秀吉の趣味の良さは重々分かっている。そもそもかの人は神なのだから当然であろう。三成はそんな秀吉の慧眼に適った真田幸村という男が、あまりにも阿呆のように微笑んでばかりいるものだから、勿体なくてしようがないのだ。
三成の一家臣に、島左近という男がいる。三成が直々に仕官するよう働きかけただけあり、三成が期待する以上の働きを見せている。少々口が軽いところが玉に瑕だが、三成の張り詰めた空気の隣りには、彼ぐらい軽薄そうな男が居て丁度良いのかもしれない。三成も左近にならば、と打ち明けることが少なくはない。
今日も自室で筆を動かしているところ、左近が遠慮の欠片もない様子で襖を開けた。仕事に集中している三成には、声をかけても無駄だということを知っている。他の家では無礼にあたるだろうが、石田家では返事を待って襖の前で待機することこそ叱責される。いつもならば左近が居ようがお構いなしに業務を続ける三成だが、今日ばかりは丁度良かったと顔を上げた。それでも早く仕事に戻りたいのか、筆は握られたままだ。眉間にはここ数日の仕事の疲れか、くっきりと皺が刻まれていた。
「お前は確か、武田に身を置いていたことがあったな。」
「短い間だけですよ。武田との繋がりはないに等しいですな。」
左近は三成に応えながら、部屋の隅に腰かけた。三成はそれをつまらなさそうに眺めている。
「真田幸村とも顔見知りだと聞いたが?」
「まあ、少しなら。」
「秀吉さまはひどく気に入っておられる。一言二言、言葉を交わしたことがあるが、周りが騒ぐほどの男には思えぬ。」
一見するとただの凡愚ではないか、と言いたげな三成に、左近は思わず苦笑した。秀吉さまの名に傷が付く、とその先には続くのだろう。言葉が辛辣である。石田三成らしいとは言え、その言動が敵を増やしている原因だと、この主はいつか気付いてくれるだろうか。
「うまいこと、猫をかぶってるようですな。」
なに、と三成は思わず剣呑な視線を左近に向けた。ついと飛び出た言葉である。三成がその言葉の真意を探ろうとその視線で問いを投げかけたが、左近はこれは大変な失言、俺はこれにて、とそそくさと腰を上げてしまった。左近は三成の鋭い視線から逃れることが、まこと上手かった。
三成はこの日、珍しく外出をしていた。近々完成するという、建築途中の教会の視察である。外装はほとんど仕上がっていた。三成は教会を見上げながら、内心ため息をこぼす。異常な程早く蔓延する耶蘇教に、少々嫌気が差していた。親しくしている小西行長の影響で、多少は知識を持ってはいるが、その教義に感化されるようなことには至っていない。三成としては、主張される言葉の甘ったるさに鳥肌を覚えるほどであった。博愛主義など、自己満足である。子ども騙しのような主義主張を、まるで生涯の伴侶にでも出会ったような感激をもって迎えるというのだから、宗教という名の支配は恐ろしいものだ、とすら思う。博愛などという言葉の薄ら寒さに、三成はもう一度、今度は実際にため息をついた。
「三成どの?」
声をかけられ、三成は顔を声の方へと向けた。聞き覚えのある声だ。そもそも、一人で佇む三成に声をかけられる程の人間は、そうはいない。親しくしていたとしても、年がら年中不機嫌を顔に貼り付けている三成である、気安く呼びつけることは案外、難しいことだ。
視線の先に、その男は居た。幸村である。目が合った瞬間、浮かべていた穏やかな表情から、笑みを作った。この男と己とは、幼い頃からの知己である、と錯覚させるような、染み入るような笑みであった。三成も、これで中々に幸村にほだされているようだ。つい、彼の笑顔に誘われて、ああ幸村か、といかにも親しそうに彼の名前を呼んでしまった。まるで狐につままれたような不愉快さに、三成は表情を険しくした。元の顔は整っているが、それに乗せている表情は不機嫌そのものであるから、迫力が違う。
左近が言う、『猫かぶり』の一種であろうか、と、三成はその笑みの中身を見透かしてやろうと幸村をじろりと一瞥したが、幸村は微塵もうろたえる様子はなかった。それを度胸がすわっている、と良い方へ判断するのは脳が足らぬ者のすることだ。この男、おそらくは少々感情が鈍いのだろう。
「何用だ。」
「三成どのが見えましたので、お声をかけただけですが、」
じろりと睨み付ければ、にこりと笑みが返ってくる。少々、どころではない。これは大幅に、足りぬ。
「ご苦労なことだ。そうやって誰にでも媚を売り、誰かの不興を買わねば良いがな。」
幸村は笑みを崩さない。彼の表情の筋肉はどうなっているのだろうか。よもやその笑みこそ、怒り心頭を表現しているわけでもあるまい。三成はどうしてか苛立ち、次々と言葉を繋ぐ。
「稀代の名軍師・昌幸どのも大層嘆いているだろうな。次男がその様ではな。子は親を選べぬが、同様に親も子を選べぬか。」
「良くも悪くも、表裏比興と呼ばれた男の息子が、無様なことだ。家康をも手玉にとった名誉も、お前が居ては薄れるというものではないか。」
ひどい罵倒である。三成にとっては半ば本音でもある。だが幸村は、やはり顔の筋肉をまるでそう使うことが正しい使い道である、とでも言いたげに、その表情を崩さない。穏やかである、静かな、湖面を連想させる涼やかさがあった。
「左近が言っていたぞ。猫かぶりとは、器用な真似をするものだ。」
そう告げた途端である。今まで笑みを護ってきた幸村が、きょとんとした表情を浮かべた。言葉の意味を理解した、というよりも、唐突に左近の名が出たことで意表を突いてしまったようだ。だがその表情も次の瞬間には別のものに変わっていた。ふふ、と声を上げて笑ったのだ。それは先程の、いかにもお上品そうな笑みとはあまりに違う。童のように無邪気な、軽やかなものだ。
(この男、こういった表情もするのか。)
新たな発見というよりは、これこそ意表を突かれたと言うべきだろう。決して打算などない。そもそも、こんな風に笑うことの出来る男に、打算だの媚だのといった邪気塗れの感情などないに決まっている。知らないのだ、持ち得ていないのだ。清らかである。心が清らかだと三成は心の底からそう感じた。聖母のような、と彼を表現した男も、あながち間違いではないなとすら思った。何とも勝手なものだ。
「では左近どのにお伝え下さい。ぼろを出さないよう、私も必死なのですよ。」
そして、悪戯をする子どものように、にっこりと笑う。言葉遊びを知っている、僅かなしたたかさが、なお良い。
(嗚呼!)
三成は心の中で叫ぶ。この笑顔を見たか、この心を視たか。このように清らかな生き物がいるのか、このように透明に人は生きられるのか。夢のような心地である。イエスは彼のような男だったに違いない。いや、聖母マリアか。どちらでもよい。三成は生来正直な男であった。
「、好きだ。」
三成は純粋にそう思ったのだ。だからこそ、持ち前の率直さから口を飛び出てしまった。三成自身、あまりにもするりと感情がこぼれてしまったものだから、それが己の心の中で吐露した言葉なのか、本当にこの唇を震わせ空気の波をもって音になってしまった声なのか、判断がつかなかった。
この想いに打算はあるか。いいや、あるまい。彼をどうしたい、こうしたい、彼を支配したい、などという陳腐な欲望など、彼を汚してしまうだけだ。いいや、そもそも彼にそのような感情を抱くこと自体が不浄である。
幸村は呆けた顔で三成を見ている。反面、三成は浮かされた表情で、真っ直ぐに幸村を見つめていた。あまりの熱意に、眸に薄っすらと涙が広がった。それは、唯一のものに出会った感動である。彼が居るだけで己は救われる、この世は平和になる、とすら思った。
しかし幸村はどうであろうか。唐突に己に熱っぽい視線を送り、好きだ、とそうはっきりと口にした男の心情を覚ることができるだろうか。それも同じ男からの意中の告白であったとしたら、どうであろうか。幸村は口を僅かに開き、間抜け面の印象を強くさせている。何とも、人らしい表情だ。幸村にはまったく似つかわしくはない。そう三成も思ったのだろうか。ようやく、あのあまりに自然にこぼれてしまった言葉が、口を飛び出し音になり、彼に届いてしまったことを覚った。そもそも、このような感情、他人に伝えるべきではない。言葉にしたが最後、欲に塗れて汚れ果て、朽ちてしまうに違いない。
(ああなんと浅はかなことを!)
死んでしまいたい程の羞恥であった。彼に思いを告げたことも確かにあるだろう。しかしそれ以上に、彼を汚してしまうことは、何よりも重い罪である。己の底の浅さを彼に見せ付けるだけだ。己の人としての醜さを彼に喧伝しているようなものだ。ああなんと己は浅はかな生き物であろう、けがらわしい生き物であろう、そして、人とはなんと救いようのない存在であろうか。彼のように清らかに、どうして己は生きられないのか。
三成は慌てて踵を返した。最早、彼と顔を合わせていることすらできない。顔が赤くなった。耳ももちろん赤い。面の皮が分厚いと自覚はしていたが、この時ばかりはそうも言ってはいられない。元々矜持は高い。己の無様さが許せる性質ではないのだ。幸村が静かに動く。空気でそれが分かった。放っておいてくれ、そして出来ることならば、今の俺の言葉を忘れてしまってくれ。お前に劣情を抱いたのかもしれぬ。だが、この際それは問題ではない。そのようなさもしい想いを、よりにもよってお前のような者に聞かせてしまったことが、何よりもの罪だ。聖母のような存在だ。この想いなど伝えずとも、僅かな時を共に過ごすぐらいの慈愛をかけてくれるだろう。だが、伝えてしまった以上、それも無理であろう。拒絶の言葉か、はたまた態度でそれを示されるだろうか。どちらも身を裂かれる程につらい拷問のように思えた。
「私もです。」
逃げ出そうとした、まさにその時である。涼やかな、柔らかな声が三成の鼓膜を震わせた。三成は恐る恐る振り返る。眸が合った。にこりと彼が笑う。まるで人が持つ愚かさやさもしさ、人の罪までもを許容しているような、深い笑みであった。染み入るような、温かな笑みである。イエスのようなマリアのような、
「私も、あなたのことが好きです。」
その後のことを、三成はあまりよく覚えていない。感情に任せて幸村に縋り付き、恐れ多くも彼を抱き締めたような感覚が、手の平に薄っすらと残っていた。