幸村とは、石田屋敷の前で別れた。屋敷の廊下を歩きながら、ふと、幸村の用事を聞いていないことに気が付いた。彼は何を思ってあの近辺をふらついていたのだろうか。もしやまだ用事も終えていないのに、無理矢理引っ張ってきてしまったのではないか。そう思うと、踵を返し幸村の後を追いたくなったが、足を止めれば、聞き慣れた足音がどたどたと三成の耳に飛び込んできた。普段であればその乱雑な音に眉を顰めるところだが、未だ夢心地が続いている三成には、ああ少しやかましいな、程度にしか聞こえていない。足音の持ち主は左近である。
「殿、お早いお帰りでしたな。様子はどうでしたか?」
 本来の目的を思い出す。工事の進行状況を、全くと言っていいほど確認していない。
「忘れた。」
「は?」
「見てくるのを忘れた。」
 これは石田三成にしてみれば、至極珍しいことである。仕事人間とまで言われる三成が、言いつけられた仕事をさぼって帰ってきた、というのだ。思えば、三成の眉間の皺がきれいに消えている。雰囲気も、どこか軽い。いつもの重苦しい、ぴりぴりとした緊張感が霧散しているようだ。左近も極めて珍しい主の姿に、戸惑いを覚えずにはいられない。このように機嫌の良い三成を見るのは、初めてのことではないだろうか。


 三成は執務室に入った。当然、その机には書類が山と積まれている。資料かなにかだろうか、左近も三成の後に続いて入室し、近くに紙束を置く。あとは、さらさらと筆が流れる音、紙のこすれる音がするばかりだ。三成が書き物をしている側では、左近がごちゃ混ぜに置かれた書類の整理をしている。三成は、この静寂が好きである。左近も口を開けば軽々しい言葉を繰るが、場の空気を読むことに長けている人物である。三成に合わせることが上手いのだ。一定の速さで流れる筆。まこと、石田三成らしい筆運びが常であったが、今日ばかりは勝手が違った。進みが鈍かった筆が、今では止まってしまっている。気付いた左近が作業を止めた。筆の流れる音ばかりか、紙の摩擦音すら止んでしまった。その静寂に、小さく、三成のため息がこぼれた。これは、至極珍しいことだ。三成は仕事人間である。仕事に疲れた、とため息をついたことなど、一度もない。他人の神経を逆撫でする嘲笑に近いものは、憚らずによく漏らしてはいるが、このような思いつめた表情をするのは、まこと珍しいことだ。
「どうかしたんですか?帰ってきてからの殿は、ちょっとらしくないですよ。」
いつもならば、軽く怒号が飛んでいる。しかし三成は、左近をちらりと眺めただけだった。睨む、ではない。その眸に左近を映しただけなのだ。こんなこと、本当に本当に、ありえないことだ。
「幸村に会ったのだ。」
 気軽い、とでも左近は思っただろうか。先程の幸村の笑みが脳裏に蘇り、夢のようなふわふわとした感覚が再び胸に広がった。
「お前の言っていた言葉を教えてやった。そしたら、幸村は笑ったのだ。ぼろを出さぬよう必死だと、笑ったのだ。」
 状況説明にもなっていない。だが三成にとって、肝心なのはそこなのだ。あの幸村の笑みを見るがいい。あのようなに清らかに笑うことができる人を俺は知らぬ。左近も一度、あの笑みを見、その魂を感じるがいい。いいや、それも困る。幸村の清らかさを、誰かに汚されてなるものか。

「まるで、恋でもしてるようなわずらいようじゃないですか。」

 三成は大慌てで左近を見た。恋か、そうか。そうかも知れぬ。俺は生きてきて今まで、笑顔一つで救われることなど、一度とてなかった。これが、恋、か。心地良いものだ、穏やかなものだ。
 しかし左近は、三成の殊勝な態度にことさら驚いたようで、目を見開いて、本気ですか?と問う。本気とは何だ。俺は幸村を好いているぞ。この想いに本気も何もあるまい。

「幸村に好きだと言った。そうしたら、幸村も俺を好きだと言った。」

 三成は言葉にしてしまってから、教えなければよかった、と思った。そうだ、言葉にしてしまえば、たったそれだけだ。消えてしまう、朽ちてしまう言葉を交わしただけだ。だがな、左近。お前はあの時の空気を知らぬだろう。あのように清廉な空気がこの世のどこにあるだろうか。まるで極楽だ。いいや、我らの始祖が住み暮らしていたエデンではないだろうか。

「幸村が?それは珍しい。あいつは昔から、あまり人の好意に同意するような奴じゃありませんでしたから。」

 パン!と何かが頭の中で弾けたような、不意打ちに似た衝動であった。この男は幸村の昔を知っている。そして、今と過去とを比較することが出来る。お前は幸村の何を知っている。俺の知らぬ何をお前は知っていると言うのだ。三成が急に表情を険しくしたことに気付いた左近が、急いで言葉を言い繕った。
「いやあ、まあ、昔から人気はありましたよ。愛想は良いですからね。ですが、これといった相手は聞きませんでしたな。いや、俺が武田に居たのも、僅かな時間でしかないですが、」
 三成のこめかみがぴくりと痙攣した。三成が聞きたいことはそんなことではない。確かに、幸村に浮いた話の一つでもあってみろ、それはそれで大事だ。だが三成は、そんな愚かな業に幸村が堕ちていないことを知っている。ああ本当に、幸村は清らかなのだ。三成が怪しからんのは、ただただ、左近が幸村の過去を知っているという一点に尽きる。
「昔の幸村とはどういうことだ。お前は俺の知らぬ幸村を知っているのか。」
 ああそっちか。左近の声が聞こえてきそうだった。困ったように、左近は肩を竦めた。困った程度で済む左近など楽なものだ。三成は先程から、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられているように苦しい。
「そんな大層なものじゃありませんよ。特別親しかったわけでもありませんし。まあ確かに、垢抜けた感じはしますがね。」
 三成は耐え切れずに、バン!と机を思い切り叩いて立ち上がった。そのように邪まな眸で幸村を見るとは、無礼な奴だ!三成の眸にいつもの不機嫌さが広がる。そうなれば、左近も慣れたものである。苦笑を漏らして、場の空気を中和しようとしている。
「敵は多いと思いますがねぇ。殿のような感情を抱いているかどうかは別として、あれは人気がありますし。つい、目で追いたくなる。ま、左近は衆道になんぞに興味の欠片もありませんので、どうぞ安心して下さい。」

(そのような穢らわしいものではない!)
 三成は眉間に皺を寄せ、心の中でそう叫んだ。好きだと言ったその感情に、そのような劣情があって堪るものか。イエスを崇める人々の心に、肉欲的な何かがあるはずもないのだ。だがこの男には通じまい。幸村のあの笑みを知らぬこの男は、欲望を人間が皆平等に有しているのだと信じ込んでいることだろう。勘違いも甚だしい。だからこそ、幸村を好きだと言った己が抱く感情に、そのような劣情があるはずもないのだ。好きなのだ。ただ純粋に、その笑みが向けられ魂を感じ、そうやって彼の気に肌が触れているだけで、俺は救われるのだ。
 恋と左近は呼んだが、恋とは何であろうか。この感情は恋なのか、そうではないのか。それとも、"乞い"であろうか。

「やはり、恋、か?俺は恋にわずらっているのか。」
「さあ?ただ左近が見る限り、殿には既に幸村に対する独占欲がむくむくと姿を見せつつあると思いますがね。」
 独占欲、とは上手く言ったものだ。三成は、その言葉に含まれる下品さには目をつぶり、その欲が示す先を想像した。幸村を独占したいのではない。ただ、幸村の清らかさが、誰とも知れぬ男に汚されることが我慢ならぬのだ。あのような人を汚してはならぬ、彼に救われた己だからこそ分かるのだ。彼は己の手で護ってやらねば、権力の渦とも言えるこの世界では、その清らかさが奪われてしまう。イエスを護る弟子達は、その分無能であった。三成は幸村が十字架にかけられぬよう、言われのない人々の罪を背負わされぬよう、護ってやらねばならぬのだ。





 次の日、三成は幸村の屋敷を訪れていた。三成が暮らしているように大きな屋敷ではないが、かえってそれが安心した。案内された部屋には、幸村が既に座っていた。おそらくは彼の自室なのだろう。だが、いかにも生活のにおいがない。文机に向かってはいたが、どこか、浮いている。いいや、浮いているのは彼ではない。周りが彼に相応しくないのだ。幸村はにこりと微笑み、どうぞ座ってください、と勧めた。
「こちらから参ろうと思ったのですが、お忙しいだろうと思い至り、この通り、慣れぬ文を書いておりました。」
 幸村が今まで向かっていた紙を持ち上げた。墨で埋め尽くされたその文に、三成はまたしてもじわりと心にぬくもりが染みた。
「今後はそのような面倒なことはせずとも良い。遠慮せず、訪ねて来い。」
 ああ違うのだ。こんなつっけんどんなことを伝えたいのではない。三成の内心を見透かしているのか、それとも、三成の言葉を上手く読み取る術を心得ているのか、幸村は小さく声を出して笑った。あの、無垢な笑みだ。三成は心を奪われてしまったように、幸村のその笑みを見つめた。
「では、そのように致します。左近どのもびっくりなさるでしょうか。」
 そして、ふふ、と笑うのだ。左近の名前を出しておきながら、笑うのだ。邪推をしてしまう。いいや、幸村に限ってそんなことはない、そのようなことはあるはずもない。しかしながら、三成も人である。疑う心を無くすことはできない。

(左近は誤魔化したが、本当はよい仲だったのではないか。もしや、)
 言葉にして、幸村に問うのは簡単だ。幸村もそれが嘘であれ本音であれ、三成の言葉に答えをくれるだろう。だが、三成はその簡単な問いを訊くことができない。幸村の信頼を疑われることをおそれた。そして、猜疑などという醜い感情で彼の心を染めてしまうことをおそれた。

「左近にもそう伝えておく。お前が来たら、何があろうとも俺に通せ、とな。」
「それでは左近どのも困ってしまいますよ。ですが、ありがとうございます。」
 ふわりと、幸村が笑う。あとに会話は続いただろうか。ふわふわとした思考で、あまり記憶にない。この夢心地ばかりが三成の記憶を占領している。言葉とは他人との意思疎通の手段だとはよく言ったものだ。三成と幸村の間には、そんなものすら要らぬ。目が合えば微笑み、穏やかな静寂に耳を澄ませ、隣りの気配を肌で感じ、心から相手のことを想っていれば、言葉という輝かしい道具も霞んで見える。通じ合っているのだ、俺と幸村は、何よりも気高い次元で、何よりも高潔な想いで。

 三成はふと、何気なく幸村の肩に視線を向けた。よく目を凝らさなければ分からないが、そこに一筋の糸が垂れていた。糸くずが付いているのだ。三成はよしとってやろう、と腰を上げる。幸村はどうしたのだろうと視線を三成に向けるが、三成はそのままで、と動作をするだけだ。肩に触れ、糸くずを掴む。ふぅと吹いて庭に捨ててしまった。
「糸くずが付いていただけだ。」
 何気なく、そう告げた。幸村が何をしたのですか?と問いたげに見上げてきたからだ。しかし幸村は、三成の大したことはない、と続いた言葉も聞こえていない様子で、瞬間、頬を染めた。今まで一度とて顔色を変えたことのなかった幸村に、初心な羞恥が広がったのだ。幸村の心の声を代弁するとしたら、"三成どのの前で、そのようなだらしのない格好をしていたとは。恥ずかしい。"と言ったところではないだろうか。

(、口付けたい。)
 さっと朱が散った頬に、唇を寄せたいと思った。そうして生の喜びを互いに分かち合いたいと思った。あまりにいじらしい様子に、そんな考えが浮かんでしまったのだ。これは、何かに囚われているわけではない。情愛の証をはっきりと目に分かる形で示したいと思ったのだ。だが、それも出来まい。三成はそこから、今の感情とは違う何かに転んでしまうことを恐れたのだ。マグダラのマリアも、もしかしたらこのような想いを抱いていたのだろうか。

 三成はその衝動を必死に抑え込んで、そろそろお暇しよう、と慌てて立ち上がった。幸村も三成の動きに合わせて腰を上げた。無言の葛藤を幸村は気付いているのか、いないのか、三成の不自然さに追求はなかった。三成はその日の夜、幸村と褥を共にする夢を見た。















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