数日が経った。お互い、あの日以来顔を合わせていない。というよりも、三成が極めて多忙であった為に、幸村も遠慮をしたのだ。あの日を境に、三成が纏う空気が僅かに変わっていた。口を開けば辛辣な姿は健在だが、浮かべる表情から険が抜けている。穏やか、とは言いがたいが、四六時中刻まれていた眉間の皺がきれいさっぱりなくなっている。それだけでも十分人の印象は変わるものだ。三成自身、いつまでも幸村の空気の余韻を感じ、ふわふわとした心地のままなのだ。今までは忌々しいと思っていたものにも、不思議と苛々することは少なくなっていた。三成も己の変化には気付いている。やはり、案外に己は恋に落ちているのかもしれない。

 三成の変化にいち早く目をつけた人物が居る。太閤秀吉の正室・ねねであった。豊臣の母として皆を見守る存在であり、また秀吉の天下取りに多大なる尽力をした人物でもある。豊臣の家臣たちは皆一様にねねには頭が上がらない。斯く言う三成も、ねねには逆らえぬ人間である。三成が忙しさに目を回していてもお構いなし、唐突に三成の屋敷へと訪れた。多忙なのだ、寝る間を惜しんで始末をしなければならない仕事が入っているのだ。にも関わらず、三成はねねの応対に身体を空けた。三成にとって、ねねとはそういう存在である。
「おねね様、俺は忙しいんです。用事があるのなら、しかるべき使者を立ててください。」
「ま、久しぶりに会ったっていうのに、冷たい子だねぇ。」
「性分です。」
 三成はぷいと顔を背ける。こうして不機嫌そうにしていれば、ねねとて長居はしないだろう。しかしねねは、あろうことか三成の顔をまじまじと見つめ、満足そうににんまりと笑みを作った。そして、こら、あたしの話はまだ始まってもいないよ!と両の手で三成の顔を挟み、強引に首の軌道を元に戻してしまった。
「いいね、いいことだよ、三成。うん、本当に、良い変化だね。」
 うんうんと首を振る。離してください、と三成は腕を振り回せば、ねねは案外あっさりと三成から手を引いた。
「空気が柔らかくなったね。これもあの子のお陰かな?」
 あのこ、と三成はそこだけを繰り返す。
「折角だし、ちょっと散歩してきなさい。幸村は町に居るから。そうだね、新しく出来た教会の近くにでも居るんじゃないかな。お母さん公認の逢引だよ。」
「何故おねね様がそんなことを知ってるんですか!」
「いやだよぅ、お前、隠してたつもりなのかい?うきうきと幸村の屋敷から帰ってくるお前を見れば、一目瞭然じゃないか。」
 三成は反論しようと大きく息を吸ったが、その間合いを見透かしたねねが、
「ほらほら、さっさと行っといで。お前があまりに人目を気にするものだから、幸村にちゃ〜んとお化粧して、可愛い着物着せといてあげたから。早く行かないと、変な虫が付いちゃうよ?」
 と、強引に三成の背を押すものだから、三成は慌てて立ち上がり、ねねへの挨拶もせずに駆け出さねばならなかった。当然、その様を見ながら舌をぺろりと出し、嘘も方便ってね、と微笑むねねの姿など知る由もなかった。


 ねねが言っていた教会の辺り、とは、三成が幸村に想いを告げた、あの建設途中だった教会のことだ。数日前に完成している。しかし三成には、おねね様も気の利いたことを…と感心している余裕はなかった。取るものもとりあえず駆け出した三成だ。頭の中では無理矢理に女装をさせられ、悪漢に言い寄られている幸村の図が浮かんでは消えていく。
(おねね様、普通に迷惑です!)
 寝不足の身体は既にふらふらだ。だが三成は止まるわけにはいかなかった。さながらその顔は鬼の形相である。擦れ違う人々は、避けるように三成に道を譲っていた。

 教会周辺は静かなものである。人々の喧騒から離れた場所に作られている。瞑想に集中できるよう、という配慮かは分からないが、確かに、教会からは清廉な空気が感じられた。
 幸村は、確かに居た。教会の入り口辺りを歩いていた。三成が声をかけようと息を吸い込む。拍子に咳が出た。全力とも言える力で走ってきたのだ、三成の体力ではよく持った方、と言うべきだろう。幸村は三成の咳き込む音に振り返った。幸村は三成を見つけるなり、にこりと微笑んだ。三成はほっと胸を撫で下ろす。ふわり、と心が軽くなったようにすら思える。だが、ここで三成は、ねねに嵌められたことにようやく気付いた。幸村の姿のどこが女装であろうか。化粧もしてない。いつもと変わらぬ、三成から見ても少々地味な色の羽織りであった。
「三成どの、そんなに急いで、どうなさいましたか?」
 問われ、三成は閉口した。おねね様に嵌められたのだ、とは言えるわけもない。そもそも、酷使した肺は呼吸をするのが精一杯のようで、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返すばかりだ。見兼ねた幸村が、身体を半分に折って息を整えようとする三成の背をさする。どきりと心臓が高鳴ったが、その手を拒むことはしなかった。今の状況では、何より幸村の好意はありがたい。

「大分落ち着かれましたね。」
 幸村は手ぬぐいを三成に差し出しながら、ふふ、と笑った。幸村には、力いっぱいに駆けっこをする子どものようにでも見えていたのかもしれない。三成は手ぬぐいを受け取りながら、ああ、と適当な相槌を打つ。未だ脈は早鐘を打っている。幸村が隣りに座り、己を心配しているのだと思うと、当然のことのようにも思えた。
「お前は、ここで何をしていたのだ?」
「おねね様に散歩でもしてきたらどうか、と言われましたので。つい、ふらふらとこの辺りを歩いておりました。」
 三成どのは?と訊かれ、言葉が詰まる。
「お、俺は、いや、俺もお前と同じようなものだ。」
「私のような者にも、おねね様は良くしてくださいます。本当に、ありがたいことです。」
「おねね様も、お前に礼を言っていたぞ。」
 本当ですか?と幸村が目を見開けば、本当だ、と三成はやけに胸を張って頷いた。心当たりはありませんが…、と続ければ、それがお前の良いところだ、と今度は心の中で呟いた。
「俺が変わったと、良い変化だと、おねね様が言っていた。これもお前のお陰だ。」
 三成は僅かに目を伏せた。あまり想いを口に出さぬのが三成である。これだけの言葉だが、幸村が直視できぬ程の恥ずかしさがあったのだ。しかし幸村は、赤く染まった三成の耳を指摘せず、ただふわりと笑った。
「それはやはり、三成どののお力でしょう。三成どのがお優しいからこそ、良い方向へと変わっているのでしょう。私は何もしておりませんよ。」
 そんなことはない!お前は己の良さを全然理解してないではないか!お前は、すごい奴なんだ!そう言ってしまいたかった。それ程までの衝動が三成の中を駆け巡った。だがしかし、勢いよく顔を上げた途端飛び込んできた幸村の笑顔が、その衝動を吸収してしまった。お前ですら気付いていない、お前の良さを俺はこれでもかと言う程に知っているぞ、理解しているぞ。その事実だけで十分ではないか。幸村は他人に押し付けて満足するような、さもしい人ではない。なれば、彼をやきもきさせるぐらいならば、この信頼は俺が大切に大切に保管していよう。そう、思った。

 三成はふと、教会を見上げた。この町では、一番の規模ではないだろうか。だからこそ、建物そのものが雄大であり、荘厳である。三成に倣い、幸村も教会へと視線をやった。異国の文化だ。異国の宗教だ。だが幸村には、この静寂がよく似合った。見上げる姿すら、一枚の絵のようだ。
「前もこの辺りに居たが、お前は切支丹であったか?」
 幸村の目が、あまりに優しげであったせいだ。愛しい我が父よ、と呼びかけているように三成には見えたのだ。ああ違うのだった。幸村は、デウスそのものなのだ。
「いいえ。ただ、強く勧めて下さる方がおられるものですから、どういったものだろうと思いまして。何も知らぬ人間が興味本位で覗いては、イエス様に叱られてしまいますね。」
 ふふ、と幸村が笑う。軽やかな、無垢な笑みだ。叱られるものか。そんな風に笑うことの出来るお前を、誰が邪険に扱うものか!イエスもきっと、お前の清らかさに諸手を上げて歓迎するに違いない。
「三成どのは、どうなのですか?」
「行長が何かと勧めてはくるがな。その気は全くない。」
「あのお方も、熱心な方ですから。」

 三成は、幸村の横顔をぼんやりと見つめる。幸村は飽きぬ様子で教会の姿を眺めていた。
 本来、人という生き物は重い。命を背負っているのだ、当然だろう。一つ一つの動作や仕種、無意識の内に作られた表情や雰囲気には、その人間が今まで生を送ってきた分だけの重量が多かれ少なかれ染み出るものだ。人という存在は、たった一人であっても、――重い。
 だが、幸村はどうであろう。ふわりと表情に笑みを乗せる、その空気に、人の生の重々しさはない、息苦しさはない。幸村は、そういった世俗のよごれを超越した場所に存在しているのだ。我ら人間が苦しい辛い悲しい憎ましいと感じることも、彼はその笑みを浮かべるだけで、身の内に受け入れ浄化してしまうのではないか。

 三成はふっと言葉をこぼした。本心だ。隠す必要もない。己の良さに気付かぬ幸村。そのままで良いと思った三成。だが、こればかりは幸村に伝えたい、彼は知っていなければいけない、と義務のように思った。
「お前には、イエスの精神の美しさが、よく似合っている。」
 三成にとって、イエスとは心の美しい人だった。そう聞いていたせいもある。愚かなまでに人を信じ、神を信じた男だ。愚かであったが、その一途さは美しかった。何故あの男の言葉が、人の心を救うのか。それは、あの男の心が清らかであったからだろう。打算や猜疑、下心など何もない、幼稚な言葉であったからだろう。三成からしてみれば、経典のどの頁を開こうとも、どれも甘ったるい文字の羅列にしか見えぬ。だがそれは、三成を経由して届く言葉だからだ。あれは、甘さではない、そのように斜めに読むものではない。あれは、優しさなのだ。

 幸村は、三成の言葉に一瞬、困ったような表情をした。大袈裟です、と幸村が苦笑する。
「私には、イエス様の教えよりも『我に七難八苦を与えたまえ』と唱えた山中鹿之助どのの言葉の方が、よほど性に合っているように思えます。」
 では、お前の言う七難八苦とは?幸村が、苦しい辛い助けて、と哀願する時とはいつであろうか。この世に生を受け、人であるからこその重みが、難であり苦なのだ。幸村にはそれがない。三成の目には映らぬ。幸村の言う、七難八苦とは?それを与えよとはどういうことなのだ。
「私などより、三成どのの方がおきれいですよ。」
 幸村は言うなり立ち上がり、市の方へ行きませんか?と三成を誘った。三成は言葉を引っ込め、彼の言に従った。


 大坂の町は活気で満ちていた。往来には人が溢れている。ぎゅうぎゅう詰めにされたような状態であった。三成はその中を歩くのだと思うと、途端眉に皺が寄った。今の三成に、人ごみを掻き分けて歩くような体力は残っていない。立ち尽くす二人だったが、幸村が何かを思いついたように、一瞬表情を明るくした。幸村が先に歩き出す。幸村は一歩を踏み出すと同時に、三成の手を取ったのだ。幸村はそのまま歩を進めたが、三成はぴくりとも動けなかった。つないだ手から、幸村の熱を感じる。指の鼓動が皮膚の厚みを通して三成の心臓にも響いた。
「お嫌ですか?」
 反応のない三成にそう思ったのだろう。僅かに目尻を下げて、不安そうに三成の顔を覗き込む。三成はその視線にハッと気付き、慌てて何度も首を横に振った。言葉が出てこない。勢いのあまり、繋いでいる手をぎゅっと握ってしまった。幸村がびっくりしたように目を丸くしている。顔が赤くなるのを感じた。しかし幸村は、すぐさまにこりと笑みを浮かべ、
「はぐれてしまって、寂しいですから、ね?」
 と、三成がやったように、幸村もぎゅっと手を握り返した。


 三成は人ごみを、幸村に引っ張られるようにして進んだ。周りに段々と人が居なくなっても、三成は気付かなかった。地に足が付いていないような、夢の心地である。気分がふわふわとしていた。熱で浮かされた時に、どこか似ていた。
(、熱い。)
 触れた箇所が、熱い。じとりと汗ばんでいるのは、きっと己の掌だ。人の熱だ、幸村の、ああそうだ、紛うことなき幸村の熱だ。ふと、脳裏に夢の情景が浮かんだ。あの日、三成は夢で幸村を抱いた。その夢は、ちっとも現実味を帯びてはいなかったし、顔すら判別付かぬような曖昧なものでしかなかったはずだ。けれども三成は、目を覚ますなり、あれは幸村だと思った。それ以外にはないとすら思った。
(ああいかぬ。お前をけがすわけにはいかぬ。)
 考えぬようにしていた分、おぼろな形しか残していなかった像が、指から伝わる熱を糧に鮮やかな色を持ってしまった。前を行く幸村の姿に、ぴたりと重なってしまった。
 心臓が早鐘を打った。先程の肺を酷使してのことなどでは、もちろん、ない。ぎゅう、と縋るように幸村の手を握った。幸村は何も言わずに笑った。子どものようなことをする、とでも思ったのだろう。お前の中の石田三成は、子どものようでなければならなかったのかもしれぬ。

 三成は足を止めてしまった。辺りに人は居ない。城へと戻る一本道。この道だけは、いつも人通りが少ない。もし、この瞬間、彼を引き寄せ接吻したら、彼はどんな顔をするだろう。勢いにまかせ、二人、その辺りの草むらに逃げ込み、彼の肌のもっと奥に触れたら?髪をすき、眦に唇を落とし、そうして二人、裸で抱き合い、彼の中へこの欲を解き放ったら―――。


「みつなりどの、」

 幸村の声に、三成の肩がはねた。幸村がゆっくりと振り返る。ああ、見られてしまう、欲望に染まった己を、みにくい己を、見透かされてしまう、彼をけがして、
「もう少し、このままでもよろしいですか?」
 幸村はふわふわと笑った。軽やかな笑みだ。生の重みがまるでない。欲の欠片もない。当然、三成の欲など、幸村は知らないだろう。きっと幸村は、人が抱く劣情があることすら知らぬに違いない。頬を染めた三成を見ても、人混みで疲れたのだろう程度の認識であるはずだ。熱が急速にしぼんで行く。浄化とはこのことであろう。幸村にとって、手を繋ぐという行為は、情愛の証に違いない。















***