二人は残り少ない帰路を歩いている。陽が暮れかけている。隣りを歩く幸村の顔にも夕日の橙が反射していた。三成がちらりと隣りの様子を窺がえば、幸村もまた、三成の方へ顔を向けた。
「先程、三成どのは私のお陰で良い方へと変化していると仰いましたが、それは私よりも左近どのの功が大きいのではないですか?」
何気ない様子であった。ああその時の幸村の顔は、確かにいつもと変わらぬ顔であった。それゆえ、三成は一瞬彼が何を言ったのかが分からなかった。遅れて理解が及んだ時には、既に足は止まっていた。腹の底からふつふつと怒りが沸いてきた。この男は、今なんと言っただろうか!
「何故、そこで左近の名前が出る?!」
三成はそう叫んだ。叫ばずにはいられなかった。だが幸村は三成の突然の激昂にも、大して驚いた様子はない。ただ、どうしたのだろうと小首をかしげるばかりだ。
「三成どのの一番近くに居るのは左近どのでしょう?」
(、ああ)
何かが崩れていくのを、三成ははっきりと感じた。ようやく、三成は悟った。俺はここ数日、あまりに舞い上がっていたのだろう。こんな些細な事実を見落としていたとは。幸村はデウスではない。ましてや、マリアやイエスなどではない。人だ、己と同じ人である。全てを理解するなど、到底無理な話なのだ。目が合い微笑み、彼の空気が己の頬をさらりと撫でる度、彼は全てを分かっているのだと、己の心を真に理解してくれているのだと勝手に錯覚していたに過ぎない。何故分かってはくれぬのだ。俺はお前だけで良いと思っているのに。お前の目には、左近が一番の理解者に映ったのか。では、何故それに嫉妬せぬ。俺だけか。こんなにも、狂おしいばかりにお前を好いているのは、俺ばかりなのか。恋などという幻想に振り回されているのは、俺だけなのか。幸村の穏やかな様子が、尚更悔しい。
「俺たちの間の話に、左近は関係ないだろう!」
「そんなことはないと思いますが…?私などより、随分と三成どのと距離が近いですから。昔から、人を見守ることだけは長けていたお人です。」
三成は勢いに任せて右手を振り上げた。しかし、幸村のきょとんとしたその顔を見た途端、その勢いはしぼんでしまった。幸村は何一つ理解してない。何が三成をこんなにも憤らせているのかを、とんと理解していない。
俺は人を好いたのだ。真田幸村という人に恋をしたのだ。欲情することに何の罪があるだろうか。いいや、今言いたいのは、そんなことではない。幸村は人だ、人という存在だ。人にはそれぞれに厚みがある、過去がある。その一片を誰と共有しているのかなど、他人には分からぬ。
正直に言おう。三成は幸村と左近の仲を疑ったのだ。今も、あの二人には何かがあったのだと思っている。とんだ阿婆擦れだ!いいや違う。生きている以上、何事かは起こってしまう。どんなに慎重に生きようとも、瑣末な出来事が積み重なってしまう。幸村は何も言わなかったではないか。それを己が勝手に勘違いしてしまっただけだ。幸村の身の潔白に縋りたかっただけだ。
「私は三成どのが羨ましいですよ。」
ふふ、と幸村は場違いにも笑った。怒りに顔を歪めてしまった三成を前にしても、幸村は笑っていられるのだ。この笑みに毒気が抜かれていた先程までの己は、きっと何か悪い病気にかかっていたのだろう。聞いたか、この声を。幸村は、左近と一番に距離の近い三成を差して、羨ましいと言ったのだ。清らかなものか、美しいものか。やはり幸村も人である。それも三成が一番に忌み嫌う、過去の情人という類であろう。そうやっていかにもそれらしく笑っているお前が、左近の前ではどのように変わってしまうのだろう。褥ではどう鳴くのだろう。左近はそれを知っているのか。この際、そんなことは関係がない。お前はそうやって他人と交わったことがあるのか。
三成は耐えられずに走り出した。するりと幸村の指が抜けて行った。三成は、そして一度も振り返らずに屋敷へと駆けた。当然、幸村がどんな顔で三成を見詰めていたかなど、知る由もなかった。