どたどたと大きな足音が廊下から聞こえた。左近は読書に耽っていた意識を仕方なく浮上させた。主が留守でよかった、きっとひどく不機嫌になってしまうぞ、と思っていたのも束の間、いきなり襖が開いた。同時に足音も消えている。
誰だろうと顔を上げれば、そこには三成が、荒い息に肩をはずませながら、目をこれでもかとつり上げて立っていた。髪が乱れている。なりふり構わず走ってきたのだろう。殺気すら滲ませた表情で、左近を睨み付けている。
「どうしたんです?きれいな顔が、すごいことになってますよ。」
少しでもこの空気を和らげようと軽口を叩いたが、しかし、三成はそんな左近の気遣いにも応えてはくれなかった。酸素を求めて呼吸をしている者とは思えぬ、鋭い声で三成は叫んだ。
「お前は幸村の何なのだ!!」
三成は不機嫌を顔に貼り付けたまま、無遠慮に部屋へ上がり込んだ。左近は素早く、三成の怒りの理由を覚った。
「何、と言われても、返答に困りますな。友人と呼ぶほど親しくはありませんでしたし。顔見知りのただの知人、と言ったところが妥当ですかね。」
この言葉に裏はない。本当に、幸村と左近の関係など、それだけなのだ。それを、あろうことかこの石田三成という男は誤解をしてしまっているようだ。そもそも、誤解をされる程の繋がりが、左近と幸村の間にはない。
(迂闊なことをしたものだ。)
そう思った。幸村に対してである。あの男は聡い。言葉の持つ重みをしっかりと理解している。普段はぼんやりとしているが、それは外見のことだ。あの顔に騙されてはいけない、あの空気に騙されてはいけない。左近も、そういう意味では幸村の才を買っている。
「殿は俺と幸村の何をお疑いで? 言っときますが、昔の俺たちの距離なんざ、今の殿たちに遠く及ばず、ですよ。確かに同じ軍に身を置いてはいましたが、理由もなく二人で出掛ける親密さは欠片もありませんでした。」
大袈裟に肩を竦める。殊更、俺たちは他人でした、と強調すれば、ようやく三成の顔から怒りが消えた。左近の素っ気無い反応に段々と冷静さを取り戻したようだ。それでもくっきりと眉間に皺が刻まれてはいる。怒りが抜けた後に残ったのは、虚無感とでも言うべきだろうか。
「その言葉、偽りはないな?」
「当然です。嘘を吐いても何の得にもなりはしません。そもそも、殿は何を誤解したんですか? 確かに幸村は引く手数多でしたがね、浮いた話一つ聞きませんでしたよ。」
それは左近が武田軍に属していた、本当に短い間のことだが、幸村のあしらい方を見る限り、彼はそういったものを拒絶していたと容易に覚ることが出来た。そういった感情を含んでしまった付き合いが煩わしのだ。好いた腫れたが億劫なのだ。
三成は遠くを見つめるように、すっと目を細めた。左近は慌てて思考を戻す。
「俺には、幸村がデウスに見えたのだ。」
へぇ、と適当に相槌。咄嗟に反応できた己を褒めてやりたい程だ。呆けた顔をしないよう、顔の筋肉に力を入れる。
「イエスにも、マリアにも見えた。俺にとって幸村とは、そういうものなのだ。存在しているということだけで、俺は救われたのだ。」
三成は思いつめた表情で、胸中を暴露した。いや、懺悔、と呼ぶべきだろうか。ああよりにもよってあの男を!あんな聖人が居て堪るものか、あんなひどい、ひどい人間が、
「だから、お前との仲を疑った途端、裏切られたと思ってしまった。幸村には随分とひどいことをしてしまった。」
三成が縋るように、言葉を求めて左近を見た。主と言えども人生経験は、はるかに左近の方が豊富である。こういったものに地位だの主従関係だのの情を絡めると、余計にこじれてしまうものだ。左近は内心ため息をついた。幸村に三成のような真っ直ぐな男は勿体ない。
「殿、その感情を、嫉妬と言うんですよ。」
殿が恋をしたのは、正真正銘、人間ですよ。神ではない、イエスではない。人として欠落している人間に、あなたは恋をしているのですよ。そう全てを言ってしまえたら、どれだけ楽だろう。彼の浮いた恋心にも、百年の恋も冷めるような衝撃が走ったりするだろうか。あの男はやめておいた方がいいですよ。殿にはまったく釣り合わない。殿がどんなに真摯に想っていても、幸村に届くのはただ熱っぽい欲だけです。言ってしまいたい。が、言えるものではない。
「それだけ幸村を好いているということです。己のものにしたいと思うのは、何よりの証拠です。」
ま、恋なんて色惚けの、典型的な症状ですよ。そう続けて、左近は努めて明るく笑った。殿が思い悩んでいることなど、皆が一様に体験するものです。珍しいことではありません。思い詰めるものでもありません。そう、態度で示した。矜持の高い三成に直接諫言するのは中々に難しい。これが戦のことであればいいのだ。だがこういった感情の入り組んだ問題となると、一から十まで教えられては、彼の矜持を傷付けてしまう。素直ではあるが、面倒な性質でもあるのだ。
一方三成は、左近の言になるほど、と思うものを見つけていた。幸村を穢されてなるものか!と躍起になっていたのは、左近の言う嫉妬であろう。三成はすんなりと己の中にある劣情を受け入れてしまった。人とはそういった生き物なのだ。劣情すら慈しみに変えることが出来る生き物なのだ。これは正しい情愛の形なのであろう。
この瞬間、幸村は三成の欲の対象となってしまった。いいや、それすらも清らかなものだ。三成が彼に欲情しているのは、彼が清廉だからだ。彼が真田幸村という無垢な存在であるからこそだ。清廉な彼に、三成は恋をしているのだ。では、彼からそれを奪ってしまったらどうであろうか。三成は幸村を好いたままでいられるのだろうか。恋に惑っていられるのか。恋の為に欲を捨てるのか、欲の為に恋を捨てるのか。いいや違う。人は時に醜く、そして時には神にも優る高潔さを持っているのではなかろうか。ならば、だ。三成が幸村にその欲をぶつけたとしても、その一時の醜悪もついには神の所業とも言える高潔さを孕むのではないだろうか。
「恋とは、中々に苦しいものだな。」
三成のぽつりとした呟きに、左近が苦笑をこぼした。知らぬのは殿だけですよ、と言われているような気がしたが、仕方のないことである。三成は生まれて初めて、恋をしたのだ。知らなくて当然なのだ。
決意をした三成の行動は早い。優秀な文官は行動力も持ち合わせていなければならないのだ。三成は顔を引き締めた。もうここには用はない。幸村に会わなければ、ああそうだ、彼に謝らなければ。三成はくるりと踵を返した。ここ数日の間に、走ることにあまり抵抗を感じなくなっているようだ。襖を閉じる時に、ぽつりとこぼした左近への感謝の言葉を彼がちゃんと聞き取ってくれたかは分からなかったが、三成は確認することはなかった。左近であれば、それぐらいは容易いであろう。訪れた時と同じように大きな足音を響かせて、三成は去って行ったのだった。
三成が部屋を勢いよく飛び出してからしばらくもせぬ内に、今度は幸村が顔を出した。三成の動揺とはあまりに違う幸村の様子に、左近はやれやれとため息を吐いた。落ち着いているのだ。一人散歩に出た帰りに、ちょっと立ち寄ってみました、とでも言いたげな顔をしている。三成が出て行った、この時間差も、幸村の計算の内ではないだろうか、と邪推をするだけ、左近の肩は重くなった。幸村は、とんと人付き合いというものが分かっていないようだ。三成の必死さをこの眼で見ている分、その思いは強かった。
幸村は左近が声をかけるのを待たずに部屋へと入り込み、左近の背に、彼もまた背を向けて腰を下ろした。殿は居ませんけど?と念の為に告げると、そうでしょうね、と優しくない返答である。優しい穏やかだと人に感じさせるのは、せいぜい彼が纏う空気ぐらいだ。その他もろもろの彼を表すものは、左近にはどれも一様に残酷に映った。
先に口を開いたのは幸村だった。左近も幸村には背を向けている。互いの表情は見えない。幸村が望んでの格好ではあったが、左近もひそかに安堵していた。きっと幸村は三成にとって、とてもひどいことを言うだろう。そんな言葉を吐いている幸村の顔など、直視できたものではない。
「私はデウスではありません。イエスでもなければ、その弟子でもない。」
そんなこと、左近はよく知っている。けれども、三成は違った。主が恋をした真田幸村という存在は、主にとっての神であり、イエスであり、マリアでもあったのだ。理解は出来なかったが、彼の崇拝めいた想いの丈の長さには同情をしてしまった。よりにもよって、何とも面倒な男に引っ掛かってしまったものだ。内心ため息をこぼした程だ。三成からすれば、幸村の無欲な様子は清らかに映ったのだろう、何よりも美しく見えたのだろう。幸村は一度として己の無欲を吹聴するようなことはなかったが、そういったものは雰囲気に染み出してしまうものだ。三成にとってその様は、何よりも高潔に見えたに違いない。三成自身、出世欲などとは無縁の生き方をしている。その忠義に一握の下心もない。共通する部分がないわけではないのだ。だが、三成の持たぬ出世欲と、幸村のそれとは性質が大きく異なる。幸村は、人に欲情する、劣情を抱くといったことが出来ぬのだ。彼の生にそれらの感情は必要ないのだ。女子を抱く情も知らねば、接吻一つで心を躍らせる慶びも知らぬ。左近に言わせれば、『異常』の一言である。体たらくもいところだ。人としての高みに居るのではない。一番肝心な所が欠けているのだ。それに気付けなかった三成は、あわれと言う他ない。彼に情を傾けても、それが返ってくることはないのだ。褥を共にしたとて、その慶びを共有できねば何ら意味がない。あわれであろう。
幸村は小さく息を吐き出した。ため息、とはまた違う。落胆、に少し似ていた。ああやってしまった、と後悔しているようにも見えた。
「三成どのを傷付けてしまいました。」
そう切なげに言うのだ。声だけを聞けば、彼を励ましてやらねば、という思いがむくむくと顔を出す。だが左近は、彼の孤高がそう錯覚させるのだと知っている。彼の空気に飲まれてはいけない。
「お前は、人の欲をもっと見るべきだ。」
「よく父上に言われます。」
早い切り返しだ。幸村は左近がそう言うだろうことを分かっていたに違いない。彼とて分かっているのだ。分かっていながら、
「それでも直らないのか。」
「最早、直らぬでしょう。私は今まで不便を感じたことがありません。」
「これからは、分からないだろうよ。」
「要りませんよ。」
まるで先を見透かしているような、やけにはっきりとした声だった。幸村は情を交わす慶びを、要らぬと言ったのだ。分からない理解できない、いいや本当は理解をしたいのだ。だけれども、どうすればいいのか分からないのだ。そういった次元の話ではない。彼はきっぱりと、情や欲を斬り捨てたのだ。
「私には、一生要らぬものです。」
ならば何故、三成を好きだと言ってしまったのか。迂闊だ。ここぞという時に、ぽろっとボロが出る。左近の記憶の中の幸村は、そんなヘマなどするような人物ではなかったはずだ。
「それならどうして、殿の気持ちを受け入れちまったんだ。」
「私も、三成どのを好いておりますゆえ。」
「あんたの"好き"は、俺たちが使う"好き"とは、あまりに違うものだろう。」
ふふ、と幸村が吐き出した声が、左近の鼓膜を震わせた。この男は、その違いを嘆かなかった。笑うのだ。笑いながら、受け入れるのだ。違う違う。受け入れるという行為は、最後の慈悲であるはずだ。最初に持ってくるものではない。反抗し、互いに変化を求め、それでもどうしてもうまくいかなかった時に、ようやくその手段をとるのだ。左近には、幸村の世界はやはり理解できない。
「あんたに殿は勿体ない。」
それでも幸村は、ふふ、と呼気を吐いた。穏やかな声だ。これが会話の合間でなかったら、何とも優しい声だろうと安堵するところだ。だが違うのだ。そこは怒るところなのだ、嘆くところなのだ。そして左近に掴み掛かり、思い切り罵倒をするところなのだ。幸村には、それがない。知っています、と笑っているのだ。何が知っています、だ。左近は幸村の男ぶりを知っている、彼の才を認めている。左近が勿体ない、と告げたのは、そんな単純な部分を貶しているのではない。三成とは違う、恋を知らぬ男の性質の悪さを幸村は本当に知っているのか。
「どうせなら、私のことを捨るよう、言ってくださればよかったのに。」
主に聞かせてやりたい言葉だ。ひどい、ひどいことを言う。お前は殿のあの剣幕を知らないからそんな無責任なことが言えるのだ。あの必死さを知らないから、縋るように見つめたあの目を知らないから、
「生憎、主君の色恋にまで口を出すようなお節介じゃないんでね。」
「主が道を違わぬように導くのも、家臣の立派な役目ではありませんか。」
「色に溺れるような主じゃない。仕事に支障のない内は、俺は動かないぞ。そもそも、俺がどれだけ説得しても、聞き届けてくれるような殿じゃない。あの人も強情だからな。」
かさかさと擦れる音がする。どうやら幸村は手持ち無沙汰に畳を撫でているようだ。
「そんなことはありませんよ。三成どのも、左近どのの言でしたら聞き届けましょう。三成どのには、左近どののお力が必要なのです。あの方が結局最後に縋るのは、私などではなく、左近どのに他なりますまい。」
幸村はやたらはっきりと断言した。主が聞いたら卒倒してしまうかもしれない。幸村は、そんな感情を抱えながらも、三成に好きだと言ってしまったのだ。けれど、幸村ほどの人物が、つい口に出してしまったその感情が、並大抵のものではないと左近は思っている。他の人間と同じ意味で抱く"好いた"なれば、幸村も言ってしまわないだろう。特別に三成を好いている。けれど、それが三成と同じ意味を含んではいないのだ。
「それで、お前に何が残る?」
愛し愛され、そうしてようやく情が結ばれるものだ。独りよがりだ。幸村の感情の押し付けである。
「見返りが欲しいわけではありません。」
幸村は他人からの何かを受け入れられる程、夢想家ではない。他と己との壁は高いが、境界線は薄かった。幸村は三成からの何かを求めているわけではないのだ。幸村にとって、石田三成が己を好いている、三成という男が存在している。それだけで、もう十分なのだ。無欲なのではない。彼の抱く妄執は、その程度の容量しか持てぬのだ。
静かに空気が揺れた。幸村が立ち上がったのだ。左近は横目でそれを捉える。襖の向こうから小さな足音が段々と近付いてきた。すっと流れるような、まるでそうすることが正しいような型にはまった動作で、幸村はそっと襖に手をかけた。足音が部屋の前で足を止めた。その瞬間だ。幸村は丁寧に、けれども鋭い手つきで襖を開け放った。三成が一呼吸を置いていた丁度その時だ。三成が面食らったように、幸村を見つめている。左近の場所からは幸村の表情は見えない。だが、あの男のことだ。今もにこりと笑っているのだろう。聖母のよう、とはよく言ったものだ。あの男のすること成すこと、エバを誘惑した蛇の狡猾さを思わせる。聡いのだ。鋭すぎるゆえに、三成にとっては慈悲深く、左近のような人間には、どうにも不完全に見えてしまう。
「今、お暇しようとしたのですが、三成どのが来てくださってよかった。」
三成どのを探しに行こうと思っていたところです、と言外に触れている。したたかだ。左近がその嘘を暴露せぬと分かっているのだ。
「俺もお前を探していた。入れ違いにならなくてよかったな。」
違う。幸村はここで三成を待ち伏せしていたのだ。
三成がちらりと左近を見た。席を外せ、ということだろう。まったく、ここは一応左近の部屋なんですがね、と内心ぼやきつつも、彼の命に従った。三成がうまく幸村を丸め込むのか、それとも幸村が我を通すのか。予想するには、あまりにも容易いことであった。
三成は、左近が去って行く足音が消えるまで、微動だにしなかった。ぴんと張られた静寂を和らげるように、三成が大袈裟に息をついた。正直、身体が重い。寝不足に加え、過度な運動をしている。それでも、そんな疲労を二の次にしてしまえるのが、幸村という存在であった。襖に手をかけたまま、己を見詰めている幸村の脇を抜け、三成は先程まで左近が腰を下ろしていた場所に座った。ため息をつき己を落ち着け、座れ、と幸村にすすめた。
幸村は素直に三成に従った。三成の前に正座をしている。
「先は気を悪くさせた。」
三成がまず切り出した。三成が突如様子を変貌させ、幸村を置いて帰ってしまったという事実だけでも、十分幸村の気に障ったことだろう。更には、三成の脳内で幸村を侮辱するような、今となっては口に出すことも憚れる数々の罵倒もあり、三成はしおらしくうな垂れた。己の中で幸村を穢してしまったのだ。
一方幸村は、いいえそんなことはありません、と三成の懺悔すら目に入っていない様子であった。表情が明るい。思えば三成は、幸村の落ち込んだ様子というものを見たことがない。物事を良い方へ、良い方へと捉える性質である、と思えば三成の気分も上昇しただろうが、三成から見ても、幸村は決して楽観的ではなかった。観察眼は鋭いが、その分析をする思考がいささか若すぎる。感情を知らな過ぎる。幼いのだ。
「私の方こそ、三成どのを不快にさせてしまいました。申し訳ありません。」
お手本のように、幸村は身体を半分に折って平伏した。三成が膝を進める。幸村は三成が予想していたより随分と長いこと頭を垂れていたが、己の中で間を取っていたのか、ゆっくりと顔を上げた。凛と表情を引き締めている。今更ながら、真田幸村という男は、気持ちの良い、爽やかな若武者であることを思い出した。丁度、顔を上げた幸村と目が合った。幸村は無意識に内だろうか、にこりと微笑んだ。三成はもう一歩、距離を詰めた。言葉よりも、幸村と触れ合いたかったのだ。
「幸村、」
「はい。」
三成が幸村に手を伸ばす。前腕を掴めば、着物越しに幸村の熱を感じた。
「もう少し、お前の中に踏み込みたい。」
「どのように?」
幸村が首を傾げる。無知である。幸村は、三成の中に芽生えている劣情に対して、あまりにも無知であった。無防備であった。
「このように――、」
ぐいと腕を引いて、傾いた幸村の身体を抱き止める。分かっていないのか、思考がついていかないのか、幸村は抵抗をしなかった。幸村がそれを望んでいる、と三成は思いたかったが、それだけはないだろう、と思っている。案外、抵抗した後に残る軋轢をおそれているだけなのかもしれない。
乱雑な思考を追い払って、三成は腕を掴んでいた手を、幸村の頬に添えた。ようやく幸村も意図を覚ったのか、目を大きく見開いている。もう、気にしてはいられない。勢いに任せ、三成は己の唇を彼のそれに押し付けた。油断して半開きだったその口内を蹂躙するのは容易かっただろうに、三成は触れるだけ触れて、さっさと顔を離してしまった。意気地がなかったのだ。
三成はその後の動揺に怯え、幸村の腕を放し、己の方から距離をとった。あまりに性急であった。接吻をするのに確認をとるのもおかしな話だが、色恋に対してあまりに無知な幸村には、その行動全てを説明してやらねばならなかったのかもしれない。だが三成は、全てを説明した上で拒絶されるのがこわかったし、何より、穢らわしいと思われることが我慢ならなかった。
幸村はぼんやりと三成を見つめている。確かに先程合わさった唇だが、今は幸村の掌で覆われていた。僅かに救いであったことは、そこに侮蔑などの感情が浮かんでいなかったことだろうか。幸村はただただ驚いているように見えた。青ざめているのは、むしろ三成の方だろう。
「いやだったか?」
声が震えていた。訊かずともいいものを、一向に幸村からの反応がないものだから、そう言わずにはいられなかった。否定してくれ!と祈っている己は、あまりに滑稽だ。
「いいえ、」
幸村は焦点を外したまま、もう一度、いいえ、と弱弱しく首を振った。
「お前とは、こういった繋がりを持ちたい。お前が俺を好きだと言ったその言葉を、劣情に染めてしまいたい。お前にも恋の愚かさを知ってもらいたい。」
幸村がゆっくりと三成を見た。そしてまた、首を横に振った。おそろしいことを仰る、と表情が物語っていた。
「おやめになった方がいいです。あなたを傷付けます、今以上に、あなたを、私の無神経さが、」
「好いた者同士が揃っていて、何故それを拒絶する!」
幸村は、おそろしいことを口走った。震えている。幸村の声も、己の心も。何故何故、とお互いに嘆いている。何故何故、と。何故理解してくれないのだ、何故分かってくれないのだ、何故、見ようとしてくれないのだ、と。
「恋とはいつかさめるものでしょう。」
冷める、覚める、褪める。彼はどの意味で言ったのだろう。
「私はただ、おそろしい結末を知っているのです。こうして私を好きだと仰る三成どのが、いつか、この恋からさめてしまったら、」
「やめろ!」
聞きたくはない!と三成は強引に幸村の言葉を奪った。
「さめぬ。俺がさめぬと言う以上、絶対にさめぬ。俺のこの想いは、たとえどんなことがあろうとも変わらぬ!」
お前は焦がれる胸の苦しさを知っているか。こうしてお前と空気を共にするだけで生まれる温もりを、幸福を。
「そのような保障はどこにもありますまい。人の言う"絶対"ほど、変遷するものはありませんよ。」
自嘲すれば、その言葉すら人らしいものになっただろうに、幸村は平然としていた。幸村は人に縋らない。人の愚かさに縋ることはしない。人の思想に依存はしても、存在に寄り掛かりはしないのだ。
「お前の言葉とて、根拠はあるまい。俺が信じられぬのか。」
いいえ、と幸村は優しく首を振った。三成を信用していないのではない。人を許容していないだけだ。己の言葉はそんなにも軽いだろうか。いいや、違う、違うのだ。幸村に三成の想いの深さは十分に伝わっているだろう。ただ、その想いが恋となってしまった時、恋をした人間の情の深さが信じられぬのだろう。恋が出来ぬ男ゆえ、仕方のないことでもあった。坂を転がるように落ちるのが恋。確かに、三成はそうやって幸村に恋をした。あれは、衝動的と言うほかあるまい。幸村はそうやって、衝動で生まれた感情が長続きするものかと、頭から否定しているのだ。
「お前は、イエスのように高潔すぎるのだ。」
ついと飛び出した言葉。あまりにも漠然とした表現であった。
「耶蘇教が伝える慈愛をお前も知っているだろう。お前は、それをあまりに求めすぎているのではないか?」
「耶蘇教の教えなど、私などでは理解できませぬ。そもそも人は、救われる為に生きているわけではないでしょう。」
少なくとも、幸村はそうなのだ。三成は、別段救いを求めて幸村に縋ったわけではない。だが結果として、そういったことも言えるのだ。人が無意識の内に求めているものだろう。救いとは、そういうものではないだろうか。人が生きる上で、物を食べ衣服を纏い住み家に寄るように、救いを求めるものではないだろうか。
「三成どの、私はあなたのことが好きです。好きだと告げた思いは、今も何一つ変わりはありません。ですが、だからこそ、あなたの想いに応えられぬのでしょう。私は"恋"という感情を斬り捨てた人間なのです。」
きっぱりとした拒絶の言葉だ。だが、それは果たして本当に、拒絶であっただろうか。好きであることに変わりはない。ただ三成と同様の意味を持っていないのだ。
「それでも、」
「それでも俺は、お前が好きだ。」