数日が経った。三成は相変わらずの多忙な毎日を送っていた。仕事に没頭していなければやっていられないのだ。あの日、三成はもう一度己の想いを吐露し、すぐにあの部屋を立ち去ってしまった。幸村はどんな表情で己を見ていただろうか。確認すら出来なかった。彼からの拒絶がこわかったのだ、おそろしかったのだ。いっそのこと嫌ってくれた方が楽だと思いもしたが、実際にそうなってしまったら、三成は立ち直れそうになかった。彼の一番にならずとも、彼が微笑を送ってくれるだけでいいではないか、とこの数日の間そう思い聞かせてきた。幸村と会う機会もない間はそう思うことができるだろう。だが、いざ顔を合わせてしまっては、その自信もなかった。人間というものは、まったくもって意志の弱い生き物だ。
三成は故意に幸村を避けていた。幸村も三成の切実なる想いを覚っているのか、無理に顔を合わせようとはしなかった。一度だけ廊下で擦れ違ったものの、幸村はさっと道をあけて軽く頭を下げただけだった。三成はその反応にすら応えることができず、共に居た左近に必死に話を振って、その場をさっさと通り過ぎてしまった。三成は繕う術を何一つ知らなかったのだ。
そんな中、上杉の使者として、直江兼続が上洛した。三成とは知己である。互いに主を支える立場にあり、また歳も等しいことから、自然と二人は親しい関係になっていた。
兼続は、三成を一目見るなり、おや、と僅かに表情を顰めた。それを見逃す三成ではない。三成にとってはちらりと視線を送っているだけなのだが、知らぬ者の目には睨み付けられているように感じるのだ。だが兼続は、三成の険しい視線に怯むことはなかった。
「随分と疲れた顔をしているではないか。」
「雑務が溜まっているだけだ。」
「違うな。」
兼続はすぱっとそう斬り捨てた。三成が気落ちしている原因が、仕事ではないことを既に見抜いてしまっている。
「石田三成ともあろう者が、何とも可愛らしい悩みを抱えているではないか。」
どきりとするのも当然だ。遠い上杉の地にあって、三成の恋心を見破るとは。兼続は人の心が読めるのか。そう思った三成だが、驚いた表情を見せても、兼続はにやりと意味ありげに笑うばかりで答えはくれなかった。種明かしをしてしまうと、兼続は三成よりも前に左近と会っており、その時に大まかなことを聞かされていたのだ。上杉で数年人質として過ごした過去のある幸村は、兼続とも親しくしていたのだ。しかし三成は、家臣を疑う愚を先日のことで思い知ってしまったものだから、その疑念はわいてはこなかった。兼続はやはり変な男だ、という認識を抱え続けることだろう。
「お前は当事者ではないから、能天気なことを言っていられるのだ。これは存外に苦しいぞ。死んでしまいたいぐらいだ。」
三成が面と向かって弱音を吐くとは、本当に珍しいことである。兼続も、これは相当憔悴している、と覚ったのだろう。追撃の言はなかった。
「お前の不幸は、恋をした相手が幸村であったところだろう。」
何故しっている、と三成が兼続を見据えた。
「なに、密かに噂になっているぞ。お前と幸村の間の空気が、どこか気まずい、とな。」
噂など流れてはいない。兼続の出まかせだ。だが三成は、己がそういった噂に興味がない分、その出まかせを信じてしまった。何と言う醜聞だ!と心の中で罵った。
「あの子は、やめておけ。これはお前の為に言っているのだぞ。あの子が相手では、いかにお前でも分が悪い。」
何の話をしている。俺は恋の話をしているのだぞ。戦をするわけでもないのだ。分が悪いとは、中々どうして悪い冗談だ。三成の不満を読み取ったのか、兼続は愉快そうに笑った。この男も、大概ひどい。三成の不幸を笑っているのだから。
「三成。これはあの子との戦いだ。だが、戦の結果は既に決している。お前の負けだ、惨敗だ。勝つ見込みが塵ほどもない。」
「そう言われて、すごすご引き下がれるわけもないだろう!俺は納得できぬ!」
惨敗だと言われては、三成の矜持が黙ってはいられない。三成は元から鋭い目を更につり上げて、兼続を睨み付けた。
「お前はあの子を知らな過ぎる。あの子は、恋が出来るような器用な子ではないのだよ。」
「お前に幸村の何が分かる!!」
「少なくとも、お前よりも外の目で、あの子を見ているつもりだ。あの子はまさに義と愛の申し子だな。愛をよく知っている。知りすぎてしまって、それ以外のものに見向きもしない。」
ひやりと、兼続が三成を見た。あの子は清らかだろう美しいだろう。それゆえに、目を盲いてしまったのだ。あの子はそうして、お前にとっての悪夢を、あの子にとっては最上に甘やかな幻想を、生涯見続けるだろうよ。
三成は反論しようと大きく口を開いたが、兼続がそれを見越して手をかざした。穏やかな表情であった。過激なことを口走った人とは思えぬ程、兼続の表情は優しかった。
「お前のそれは恋だろう。ああお前もそれは気付いているのだったな。だが、幸村がお前に好きだと言ったその感情は、愛なのだ。あの子は恋を知る前に、愛の深さに心酔してしまったのだ。お前たちは、その辺りから既に擦れ違っている。擦れ違いなどとは生温いな。天と地ほどもかけ離れてしまっている。それ程までに、恋と愛とは別物なのだ。愛というのも漠然としているな。私の掲げる愛は愛染明王から拝借しているが、あの子は違う。そうだな、耶蘇では博愛と言っただろうか。あの子の心はまさに博愛なのだ。」
はくあい、と三成はゆっくりと唇を動かした。そんな甘ったるい言葉を、まさか兼続の口から聞かされるとは思いも寄らなかった。
「そう、博愛だ。隣人愛とも言っただろうか。その精神は、とても清らかであろう。だが、所詮は人だ。そのような清らかなものに溺れてなどいられない。人は欲がなくては生を繋げぬのだ。見返りなく人を好くのは難しい。不可能に近い。精神の高みに辿り着くのは、困難なのだ。私はお前とは懇意にしているが、その始まりとて打算があったのだ。お前に近付いておけば、いざと言う時、上杉に有利に働くだろうと見透かしてのことだ。持ちつ持たれつ、私たちは存在していく他ないのだ。あの子には、そんな下心すらないのだろうな。だが間違えてもらっては困る。あの子は存在としては何よりも高潔な場所に在るだろう。あの精神の美しさは真似が出来るものではない。天性のものだ。しかし、それゆえに、人としては我らに劣る。人とは血を家を名を継ぐものなのだ。生きとし生ける物すべてがそうであろう。生き物は己の存在すら風化させてでも、その細胞を繋いでいくものなのだ。あの子には、それがない。あわれな子だよ。」
分からぬ。と三成は兼続の長々とした台詞を斬って捨てた。兼続はその返事を見透かしていたのか、お前らしい、と苦笑した。あわれなのは、俺だお前だ。幸村を穿った捉え方しか出来ぬこの世だ。そう嘆いてしまいたかった。
兼続は己の言葉に満足したのか、小さくため息を吐いてから立ち上がった。三成はその様子をただ見送っている。この男が掲げる義と愛も、案外に薄情である。
「私は切支丹ではないが、愛を掲げる耶蘇教には学ぶこともある。お前も一度、しっかりと宣教師の言葉に耳を傾けてはどうだろうか。」
そう言い、兼続は部屋を後にした。残された三成は、ぼんやりとその背を眺めていた。一度行長の言葉を真剣に聞いてみようか、とふと思った。もしかしたら、幸村の想いも理解できるかもしれない。
だがしかし、三成の思惑はあっさりと破れてしまった。禁教令が下されたのだ。見せしめとして、二十六人もの信徒が処刑された。三成もこの件には深く関わっている。表向きは、あまりに広まりすぎた耶蘇教の結託をおそれた為とされている。信徒たちの絆の深さは、一向一揆で経験済みだ。石山本願寺の戦では、秀吉も痛い目に合っている。確かに、そういった面があることは確かだ。だが実際の理由は様々である。湊に停泊する外の国の者たちが、農村の者をさらい、奴隷として連れ去ってしまう、というものもある。また、宣教師を通して外の国の者たちのはっきりとした征服欲を嗅ぎつけた、とも言える。彼らは宣教師とは名ばかりの、商人であり、侵略者であったのだ。