大坂城の一室で、ささやかな酒宴が開かれた。参加しているのは、清正や正則、幸村や宗茂といった城の要所を任せられている将たちだった。揃いも揃って酒好きの面々で、戦が始まってしまったら皆で集まってのんびり酒も飲めないだろう、と召集がかけられた。宗茂が準備をした酒は相当強いもので、飲みおさめにと勢い良く飲み下す面々を早々に酔っ払い集団にしてしまった。決して弱いわけではない正則も序盤で既にへべれけになっている。宗茂は夜も更ける頃には、ァ千代を連れて部屋に戻ってしまった。こと女性に対しての気遣いは、他の追随を許さない宗茂である。去り際、甲斐姫にも声をかけていて、さり気なく早く部屋に戻るようにと忠告していた。幸村がそれに便乗して、くのいちに甲斐姫を部屋に送り届けるよう指示を出している。二人はまだ飲み足りなさそう不満げに口を尖らせていたが、幸村と宗茂両名から言われては抵抗も出来なかったようだ。渋々といった様子ではあったものの、素直に部屋へと戻って行った。
そして、現在である。清正と幸村以外に、素面の人間は皆無と言っていいだろう。正則は叫んだり誰かにからんだり酒をすすめたりと大忙しであったし、後藤又兵衛はその正則に強引に酒を飲まされ部屋の隅に放置されている。「又兵衛どのは酒に弱かったんですねぇ」とのん気そうな幸村の声に、清正も無言で頷いた。人は見かけによらないものだ。ちなみに、武蔵はこの集まりに参加していない。彼は酒が大嫌いで、においだけで気分を害してしまうらしい。同じような理由で、毛利勝永も不在だ。酒が飲めずとも、と同席していたら、おそらくは正則の標的になっていたろうから、彼らの判断は正しかったと言えるだろう。酔っ払いは容赦の仕方も知らないらしい。
なんとはなく、酔っ払っていない者同士、座が近くなった。周りの惨状(それは正しく惨状であろう)に幸村が苦笑を浮かべると、清正もつられて苦笑いで返した。先日のやり取りが嘘のように、幸村に変化はなかった。あるいはただ隠しているだけなのか。こういうところが、幸村の得体の知れないところだ。表情に隙がない。疑うこと自体が間違いなのだと思わせてしまう、裏表のない表情だ。
酒の肴にとぽつりぽつり会話を重ねたが、長く続くことはなかった。清正がどうにも会話に集中できなかったせいもあるだろう。幸村の相手に合わせてしまう性質はこういうところでも健在で、気まずい距離を彼の方から狭めてくれるようなことはなかった。
からむ相手がいなくなってしまったのか、正則が二人の間に転がるように座り込んだ(正則越しに部屋を見渡せば、死屍累々といった様子でそこかしこに寝転がっている人・人・人、だ)。二人の間には人一人はゆうに座れるぐらいの隙間が空いていたせいもあるだろう。会話をするには離れていたが、今更その距離を詰めることもできなかったのだ。幸村は相手の出方をひたすらに待つ男であるし、清正としても彼に何かを勘繰られるのは嫌だった。矜持が高いのだ(と清正は思っているが、ただ意地を張っているだけなのだとも自覚はあった)。正則は酒をすすめるように持っている徳利を持ち上げたが、その動作すら覚束なく、幸村が慌てて受け取らなければ酒が畳に染みを作るところだった。
「馬鹿、飲みすぎだ」
無駄だと分かっていながらも、清正はそう言って正則の頭を軽くはたいたのだが、彼は気にした様子もなかった。だいじょうぶだって、と首を勢いよく振るものだから、余計に酒が回ったのだろう、身体がぐらついている。
「これぐらい、飲んだうちにはいんねぇって」
舌足らずに言うものだから、説得力はない。清正はあからさまに顔を顰めたが、その一連の流れを眺めていた幸村からは、くすくすと笑い声が漏れてそれ以上怒る気にはなれなかった。身内だけの酒宴ときいて、初めからこうなることをある程度覚悟していたからでもあったけれど。正則は酔っ払い特有の支離滅裂さと、酒精の陽気さを余すことなく発揮して、大きな笑い声をあげながら「相変わらずこわいかおだなー」と清正を指さしている。むっと眉を寄せるものだから、余計に正則の笑い声が大きくなった。
「馬鹿、いい加減に、」
しろ、と今度は拳を握り締めたのだが、正則はそれをかわすようにくるりと身体を反転させて幸村に向き直った。二人のやり取りを眺めていた幸村が、驚いたのか目を丸くしている。幸村には、こういうやけに子どもっぽい仕草が似合っていた。年齢の割に大きな黒々とした眼を持っているせいかもしれない。
「ゆきむらー、お前はいいやつだなあ」
彼の頭の中でどんなやり取りが行われたのかは誰にも分からなかったが、正則はそう満足げに叫んで、ごろりと寝転がった。力尽きた、とも言えるかもしれない。
「あ、」と互いに無意識に声が漏れた。彼が頭を乗せたその下には、身内の酒宴でありながら正座を崩さない幸村の膝があったからだ。幸村の太腿に片頬を預ける形で、正則は眠りについてしまった。
後から考えれば、その時点で正則を起こすなり、幸村に楽な姿勢をとるよう言うなり出来たはずだ。けれども清正は、次の幸村の行動をじっと見つめ思い出したように酒をちびちびと舐めるだけで、彼らに口を出すことはしなかった。あるいは、出来なかったのか。どうも清正は、己が声を荒げることで彼の空気が壊れてしまうのを極端に恐れているようなきらいがあるようだ。彼の纏っている空気はどこか孤立したがりで、他と馴染むことを好まないように清正には感じられた。
幸村は清正の睨みつけるような視線に気付いていないのか、気付いていながら知らん顔をしているだけなのか、彼の視界には正則しか入っていないようだった。まず、長身な正則が背を丸めて縮こまっている体勢から、手足が自由にできる楽な体勢になるよう導いてやったり、それが安定すると今度は懐から扇子を持ち出してぱたぱたと彼に風を送ってやったりと実に甲斐甲斐しい。酒に飲まれた火照った頬にとって、そよ風が存外に気持ちが良いことを知っている清正は、余計に口が挟めなくなってしまった。幸村の、なんともまめなことだ。時折、寝言なのかいびきなのか、眠っている時ぐらい控えめに出来ないだろうかと思う程の声量で正則が何事かを呟いている。持ち前の声量は、こんな時ですら発揮されるらしい。やかましい男だ。それでも幸村は表情を崩さず、むしろどこか嬉しげにその姿を眺めている。
「手慣れてるな」
ぽつりと、感想のような独り言のような声で呟けば、幸村は一瞬手を止めて清正を見た。いくらうるさい正則のいびきが聞こえていようとも、実質は二人きりの状況だ。近いような遠いような、会話をするには遠くとも、部屋に起きている人間が二人しかいないとう状況では近いと言えなくもない距離では、拾われてしまうような声音だったろう。
「そうでしょうか?」
と、幸村は小首をかしげた。子どもっぽい動作のはずが、清正の脳裏に過ぎった感想は、なんて無防備な、であったことが、誰よりも清正には意外だった。幸村の目が直視できるはずもなく、さり気なさを装って正則に視線を落とした。平和そうに幸村の膝で惰眠を貪っている男は、いつもと変わらない馬鹿面だった。
「重いだろ?そんな奴の頭、放り出してやればいい」
容赦のない言葉にも、幸村はふふ、と笑い声をもらして、「そうはいきませんよ」と扇子の風を送り続けている。どうにも、距離間が掴めない。先日、痛烈な本音を漏らした本人とは思えない。あるいは、気にしているのは清正だけで、幸村にとっては清正の言など当に忘れているのかもしれない。ただ、杞憂にするには、清正の中の幸村像が邪魔をする。彼は、そういう短慮な人間ではなかったはずだ。
短い沈黙が流れた。パタパタと扇子を扇ぐ音だけが響いていたが、唐突に幸村が口を開いた。彼なりに、話題を提供しなければ、と思ったのかもしれないし、清正には考えが及ばないような気まぐれが彼の中で起こっただけなのかもしれない。真田幸村という男は、清正にとっては宗茂以上に掴みどころのない男なのだ。
「羨ましいです」
そう、ぽつりと呟いたきりだった。清正は彼の言葉の真意をはかりかねて、
「誰が?」
と問い返してみたものの、幸村は曖昧に笑うばかりで返答はなかった。言葉の選択を間違えました、とでも言いたげに、さっと視線をずらして、再び口を開いた。やはり、先の答えではなかったけれど。
「あまり酒を召してはおられぬようですが、お嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃない。そういうお前は、……相当飲んでるな、強かったのか」
幸村の辺りを見回しただけでも、数本の空いた徳利が転がっている。これを彼一人で空けたのだろうか。それに彼のことだ、皆のところへ回るだけで、それぞれから酌を受けているに違いない。幸村が一人でいると、ついつい構いたくさせる何かがあった。何を言ってもあの穏やかな笑みで「ありがとうございます」と丁寧に頭を垂れるものだから、声をかけた身としても気分が良い。
「強いと言いますか、酔ったことがありません。ですから、酒の飲み方よりも介抱することばかりうまくなってしまったようで」
そう言いながら、幸村の手が優しげに正則の額を撫でた。ついつい清正も目でその動きを追う。酒で体温が上昇したせいで、額に薄っすらと汗をかいている。幸村の指が、丁寧な仕草でそれをすくい取る。そんなことまで、してやる必要はないだろう、と思ったのが先か、身体を乗り出したのが先か。一瞬にして身体を伸ばして距離を詰めた清正は、まるで止めろとでも言いた気に幸村の手首を掴んでいた。前かがみに近い体勢で、左手は身体を支える為に畳に突き立てられている。清正の指が、幸村の手首に食い込む。突き出ている骨が、丁度中指の腹にあたって何故だか心臓がはねた。優しげな手つきとは裏腹に、清正が力を込めても中々折れそうにない、しっかりとした男のものだった。
冷たい、とまず清正は思った。酒に酔わない性質というのは本当らしい、と冷静な振りをして分析をしたところで、自分が一体何に触れているのかに気付いた。まるで鈍い。酔っているのは自分なのかもしれない。
幸村は何も言わなかった。何故清正の指が手首を握り締めているのか、彼は問い詰めなかったし、更に言うならば驚きもしなかった。いや、驚いた声を飲み込んでしまっただけなのかもしれない。幸村の視線が、清正の指先に集中している。清正も同様だ。自分の身体のことながら、この指はこの次どういう行動を取るのだろう、と見守ることしか出来なかった。
「清正どのは、」
幸村に名を呼ばれて、清正の肩が僅かにはねた。幸村は気付いただろうか。敏い彼のことだ、気付いていただろう。けれどもそれを清正に覚らせなかった。彼の態度が変わらぬ以上、清正も素知らぬ顔を続けるほかなかった。
「ちっとも酔いませんね」
まるでまじないをかけられたようだった。さっと身を引いて、清正は先程の位置に身体を戻した。同様に、幸村の手首も解放する。幸村は一瞬躊躇するように動きを止めたが、清正の視線から逃れるようにもう一方の手と重ね合わせて手を組んだ。畳についていた手の平には、くっきりと跡が残っていて、滑稽だなと自嘲した。どうにも、真意が読めない。幸村は清正の行動をどう思っただろうか。
ようやく、幸村の言葉が頭で意味を結ぶ。それは、どういう意味なのだろうか。酔っ払いではない人は介抱し甲斐がなくてつまらないと言いたいのか、だからもっと酒を飲んで酔っ払ってしまえと言いたいのか。決して言葉が足りないわけではないはずなのに、ちっとも彼との会話には確信が持てない。
「…楽しそうだな」
と、呟いたのも、実は半信半疑であった。幸村の浮かべる表情はいつもと変わらず穏やかで、それを楽しい、と言ってしまっていいものなのか、清正は分からなかった。会話を続けなければ、と思って何とかしぼり出した単語でしかなかった。
「楽しい、と言いますか、少し昔を思い出しまして、つい嬉しくなりました」
幸村はそう言って、少しだけ視線を下げた。その先には、馬鹿面で高いびきをかく正則の顔があったが、彼が思い浮かべている人物は正則ではなかっただろう。いくら清正の頭が鈍くできていたとしても、それぐらいは分かる、分かってしまった。あたたかい昔の思い出を懐かむ時、幸村はそんな顔をするのか、と意識からは遠い冷静なところが感想を漏らしたが、清正がその意味を正しく理解する前に、幸村の言葉が清正の思考を使い物にならないものにしてしまった。
「三成どのは、酔うと人肌恋しくなると言いますか、物寂しくなってしまう方でして。よく、わたしなり兼続どのなりの膝を無意識に借りて酔っ払って眠っていました」
彼にとっては、とても懐かしいあたたかな思い出なのだろう、ふふ、とこぼれた笑みがそれを如実に証明している。けれども、すぐにハッと目を見開いて、慌てて口を覆ってしまった。そもそも、石田三成という男に対しての認識が違う二人だ。幸村は、先の隙のなさがどこへ行ってしまったのか、言ってはいけないことを言ってしまった、と顔を俯けて表情をなくしていた。清正は、幸村と同じ気持ちにはなれなかった。確かに、二人の間で石田三成という男の名を出すのは、あまりに軽挙であっただろう。一概には言えぬものの、清正や正則が関ヶ原の折に西軍についていたのであれば、彼は死ぬことはなかったかもしれないからだ。これはどこまでいっても"もしも"の話であり、第三者の目から見た"そうだったかもしれない話"でしかない。清正が唯一、真田幸村という石田三成の友人に対して抱く、負い目であった。あの日の選択に後悔はないし、そもそも、戻れやしない過去をとやかく言うほど清正は懐古主義ではない。過去のことを悩むなら、どう挽回するかを悩んだ方が、うん何倍も効率的だ。
幸村の口を閉ざさせた原因は、清正が持っている負い目であり、幸村と三成の深い友情ゆえだろう。けれども、清正は彼と同じ気持ちにはなれなかった。彼がこんなにも手慣れているのは、三成のせいなのかと、どんな感情よりも早くそう思ってしまったからだ。自然に下がった視線の先には、正則が幸村の膝で眠りこけている。この場所に、三成がいたのだろう。同じように彼の膝に頭を預けて、小さく背を丸めて、ここに寝転んでいたのだろう。その額を、酔っ払うことのない幸村の心地良い指が撫でる。三成が眠る様を、幸村は優しげに眺めていて、
むすりと黙り込んだ清正に、幸村は何を思っただろう。どうせならば、あの頭でっかちがそんな殊勝な態度も出来たのか、と一笑に付してやれば、幸村も落ち込むことはなかったろうし、今後の二人の気安い関係に繋がったろう。けれども清正は、そうすることが出来なかった。彼にしては迂闊であった。余裕がなくなると周りが見えなくなってしまうのは、清正の悪い癖だった。自分の中の感情を収拾することに気をとられて、気勢を読み違えている。ただし、それは幸村も同じだったけれど。
どれだけそうしていたのか。何とか感情が治まりつつあった清正は珍しく、何故こうなってしまったのか、と今の状況を悔やんでいた。そもそも、何故こんなにも気まずい空気になってしまったのか。この馬鹿と、あの馬鹿とが重なって見えてしまったのか(これとあれとでは、顔の造りから体型から全く違うのに!)。幸村にあんなことを言わせてしまったのか。自分も彼も酔っていないのは、この馬鹿が寝こけているのは、一体何のせいなのか。
確かに今日の清正は酔っ払いではなかったが、連日の疲れが溜まっていたのかもしれない。脳の処理にいつもの精彩がなかった。だからだろう、間違った結論に至っても、彼には全くと言っていいほど自覚がなかった。
互いがじっと身を固くしていたせいで澱んでいた空気が、急にかき回された。清正が弾かれたように立ち上がり、正則の襟首を乱暴に掴み上げたせいだ。幸村が思わず驚いて顔を上げる。丁度目が合ったが、清正が先にそらしてしまった。かけるべき言葉が見つからないのだ。
「馬鹿、起きろ。戻るぞ」
清正の暴挙に、流石に目が覚めたようだ。寝ぼけた声を上げながら、辺りをきょろきょろと見渡している。確かに、目覚めと共に首を軽く絞められているのだ、驚きもするだろう。
「え、あ、ちょ、清正、」
「ほら、立て。肩貸してやる。しっかりしろ」
貸す、というよりも、肩に担ぎ上げているような体勢だ。不安定な状態に幸村が思わず腰を浮かしかけるが、それをさせまいと清正が声を発した。有無を言わさぬ、強い口調だった。
「じゃあな。悪いが、先に帰る」
幸村が咄嗟に「清正どの」と呼んだが、既に清正は背を向けていた。結局清正は一度も振り返ることなく、その場を後にしたのだった。
みっちゃんに夢見てすいません。正則が好きですいません。
あ、おまけの幸村サイドです。思いっきり蛇足。
10/04/20