竹中半兵衛は羽柴家にとって欠かすことの出来ぬ軍師である。その功績や数え切れるものではないことは、清正自身重々理解はしているものの、どうもあの軍師を好きにはなれなかった。羽柴家の双璧の一人である黒田官兵衛もそうだが、軍師という存在はどうにも人の心を見透かしているような節があり、あの目にさらされるのは居心地が悪かった。特に半兵衛は人の思考を読み取るのが巧みだった。そうやって自軍を数多の勝利に導いたというのは百も承知なのだが、苦手なものは苦手なのだ。そういった思いを抱く者は家中に多く、隣りを駆ける石田三成もその一人だろう。
設楽原で武田を滅ぼした戦の後ぐらいからだろうか。患っていた半兵衛の病は悪化した。戦を仕切るのは官兵衛に譲り、今は療養の身だ。それも清正が敬愛する主に多大に駄々を捏ねての隠棲だった。羽柴が拠点とする城から、馬で駆けること一刻程。山の中腹に位置するこじんまりとした庵で半兵衛は暮らしている。主に危急のことがあればすぐに駆けつけられる距離にある彼の住居は木々に囲まれており、人々の喧騒も届かずに年中ひっそりと静まりかえっている。木漏れ日の温度は心地良く、昼寝をするには丁度良い環境だ。それもこれも、半兵衛がねだったことだった。秀吉様は半兵衛様には甘い、と清正などは思うのだが、それを実際に実行した官兵衛様も中々に半兵衛様を甘やかしている、とは三成の言だ。
清正は現在、その庵を目指している。隣りには競うようにして馬を操る三成の姿もある。何を企んでいるのか、秀吉から二人で半兵衛を迎えに行くように命じられたせいだ。子どもの使いでもあるまいに、どうせなら一人の方がよかった、と内心で呟けば、相手も同様に考えていたのだろう、全く同じ瞬間に三成から舌打ちが漏れた。わけもなく苛々して、清正は少々乱暴に馬の腹を蹴って急かした。女のような面構えのくせに、負けず嫌いの度合いは清正と変わりない三成もそれにつられて速度を上げる。この分では、予定より随分早く到着するだろう。
半兵衛が療養している庵は小じんまりとしたもので、片手で事足りる程度の数人が寝泊りをしているだけなのだと聞いている。住み込みで半兵衛を世話をする人間は少なく、これがあの羽柴家の軍師の待遇か、と清正などは思うのだが、半兵衛はあまり己の周りをうろうろされるのは好きではないらしく、不満を聞いたことはない。あるいは、これも主に突きつけた条件の一つなのかもしれない。そのような人手不足に近い状態であるから、当然、馬小屋に人が駐在しているわけもなく、馬を繋ぐのも己たちでやらなければならなかった。馬小屋も必要最低限の屋根があるぐらいだったが、意外なことにそこには先客が居た。この廃れた庵には不釣合いの栗毛の名馬で、清正が好奇心でたてがみを撫でようとしてもつんと鼻先をそっぽ向けた。誇りが高いのだろう。これは、決まった主にしか愛想を振り撒かぬ厄介者だと早々に見抜いた清正は、馬には慣れているくせに中々うまく馬の手綱が繋げない三成を尻目に足早にその場を去った。彼は世間様が思っているよりは不器用であったし、清正はこの面構えの割に器用だった。
流石に門をくぐれば案内の者がいた。年は清正たちより幾ばくか下に見える、まだ年若い女性が愛想良く対応してくれたのだが、三成はもちろん、清正も決して人当たりが良いわけではない。既に癖になってしまった仏頂面を浮かべた二人に怯まない辺り、肝が据わっているようだ。それとも、あの性悪軍師の世話をしているのだから、それぐらいの図太さを身につけなければならなかったのか。若い風貌にしては落ち着いた雰囲気を持った女性を清正は一瞥して、そんな感想を抱いた。ここに訪れたのが二人ではなく秀吉であったのならば、口説き文句の一つも飛び出していただろうが、二人はあまり人の容貌を気にかける性質ではなかった。特筆するのであれば、人の造形の醜悪にだけは敏感な三成が、特に何を言わなかったことには触れておかねばならないだろう。
半兵衛の部屋へと通された二人は、同じ様に顔を顰めた。部屋の中央には布団がしかれており、その中には目当ての人物が確かにいたのだが。上半身を起こして脇息にもたれかかり、面倒くさそうに書を読んでいる。顔色は至って良好で、傍目は病人に見えない。寝巻きを着ていても、これといった病人らしさは伺えない。これならば、寝不足時の三成や常に不健康そうなもう一人の軍師の方が、よっぽど病人らしい。この人は仮病を使っているのではないか、という疑念がむくむくとわいてきた。
「二人共、相変わらず子どもが泣き出しそうなおっかない顔してるねぇ」
開口一番、それだ。清正はむすりと黙り込み、三成は眉間の皺を深くした。その様に笑みを浮かべた性悪軍師は、案内してくれた女性を手招きをして耳打ちをした。何やら二人を指さして話しているが、もちろん二人には聞こえない。ここで初めて女性が僅かに表情を曇らせたが、その意図までは分からなかった。こうも目の前で内緒話をされるのも気分が悪い。二人はそれを隠すこともせず表情を更に険しくしたが、やはり半兵衛は笑うばかりで弁明しなかった。少し長い内緒話を終え、女性が退室する。清正にはその目がどこか非難がましく訴えかけているように見えたが、気のせいだったろうか。親しい者の空気には敏い清正も、今さっき会ったばかりの、しかも女性の内心までは察することはできなかった。
「半兵衛様、秀吉様が至急出仕なさるようにとのご命令です。我らと共に下山して頂きます」
口調とは裏腹に、全く敬意を払っていない態度で三成は憮然に言い放った。文句を言うよりも、早く己の仕事を終わらせようと思ったらしい。それは清正も同感である。最も、この軍師にはどんなに文句を言ってもどこ吹く風、逆にこちらが舌戦に負けかねない。どのような戦であれ、負けるのは真っ平ごめんだった。半兵衛は、やはり二人の剣呑な視線を受けても屁にも思っていないようで、のん気にその場で伸びをした。
「まったく、最近の若者は年寄りを敬うってことを忘れすぎだよね。ま、そろそろかなとは思ってたけど、案外早かったかな」
「半兵衛様、戦が迫っております。半兵衛様のお力を借りたいのです」
「俺がいなくても、官兵衛殿が居るでしょ」
「その官兵衛様からも是非にと」
ふぅん、と半兵衛が二人をゆっくりと一瞥した。何を考えているのか、清正には分からない。分からないが、清正と三成越しに二人の思いどころか秀吉や官兵衛の思惑までも見透かしていそうな半兵衛の目に、やはり居心地の悪さを感じた。
「まぁ、結構のんびりさせてもらったし、いいかな。このところ調子も良いし」
もう少しごねると思っていた二人は少々拍子抜けしたものの、戸惑ったのはほんの一瞬のことだ。それは重畳とばかりに、では、早く出立しましょう、と揃って腰を上げかけた。その時だ。閉じた襖の向こう側から声がかかった。先の女性の声だろう。二人は腰を浮かした中途半端な体勢でその声を聞いた。
「半兵衛様、お連れしました」
「分かった、ありがと。入っておいで、二人に紹介したいんだ」
半兵衛の言を受けて返事をしたのは、また別の人物だった。女と男の声を聞き間違えるはずはない。決して大きな声ではなかったが、不思議とその場によく響いた。張りのある声は若竹の瑞々しさを思わせた。まるで初夏の頃、心地良い風が一陣、通り過ぎて行ったような心地良さだった。
すっと襖が開けられ、その向こうには深々と垂れる頭があった。男はすぐに立ち上がり、一歩部屋へと足を踏み出し、再び手をつく。彼の背後で静かに襖が閉められた。その一連の流れはまったくの作法通りで、一点の乱れもない。清正や三成が最近になってようやく慣れてきた動作の一つだが、自分たちに比べると随分と洗練されて見えた。
「面を上げて、三歩進んだところで座って」
半兵衛の言葉通り、男は本当に三歩だけ進んでその場に正座した。中々に上背がある、まだ若い男だ。この寂れた庵には不釣合いに映るだろうに、彼が纏っている着物の色は若隠居を思わせて、これといった違和感は抱かなかった。むしろ、彼がこの庵の主だと言われても納得してしまいそうな程、彼はこの風景によく映えていた。それよりも、清正を驚かせたのはその顔に巻かれている包帯だ。白い清潔な包帯がぐるぐると目を覆っている。これでは視覚もままならない筈だ。だから先程、半兵衛はあのように言ったのだろう。
「真田源二郎幸村です。半兵衛様の許で学ばさせて頂いております。以後、よしなにお願いします」
そう言って、畳に手をついて深く一礼した。三人が初めて顔を合わせた日のことだった。