時代はあっと言う間に流れ、高虎は今、大坂城攻めの陣所の中に居た。幸村の兄とも二言三言交わしたが、他人である高虎からも憔悴が見て取れた。弟の幸村が大坂城に入城していることは、城攻めの誰もが知るところだ。兄弟の情が篤い二人だ。兄の説得ならばこちらに寝返るのでは、という提案に、信之は力なく首を振った。

『幸村は決して私の手を取りません。私の手を取ってくれはしません。
 あの子は抗うでしょう。最後の一兵になったとしても、槍を手にする腕がある限り、走り続ける足がある限り。
 誰もあの子を止められない。
 ならば、せめて私の手で。それが兄である私の責務です。
 あの子が徳川に降ることなど在り得ません。
 この戦が終わるということは、あの子が死ぬということです。
 ならばせめて、私の手で』

 信之は顔を青くしながら、そう独白した。信之の悲壮な覚悟に胸を打たれた者たちが嘆息の声を吐いたが、高虎はその様を冷めた目で見ていた。散開した軍議の場を抜け出す。思わず漏れた溜め息は、同時に隣りからも聞こえた。政宗であった。
「兄があのように諦めておっては、いかんじゃろう」
 政宗は、幸村を生かしたい人間の筆頭だ。もののふの生き様を刻むなどと、夢物語のようなことを望む幸村に、行くな行くなと必死になって引き止めようとしている。直江兼続や上杉景勝、信之の妻・稲も同様だ。高虎は、彼らのように思うことができない。もちろん、死ぬよりも生きている方が何倍もいい。けれども、彼らのように、幸村の意思を無視してまで思うことができないのだ。どうして、幸村の望む唯一を知っていながら、それを諦めろと言ってしまえるのか。幸村を好いているからか、愛しているからか、真田幸村という男を大事に思っているからか。高虎は、どうだろうか。あの男を抱いたが、それは果たして好意であっただろうか。高虎にとって幸村という男は、未だに得体の知れぬ存在だ。


 のちに大坂冬の陣と言われる戦も終わり、一旦は平和が訪れた。直に再び開戦するとは分かっていたが、敵味方が馴れ合う唯一の空白だった。
 高虎は、その歴史の空白に、幸村の許を訪ねた。幸村に乱暴を働いた日から、幸村には会っていない。関ヶ原では同じ戦場に立つこともなく、また、先の戦では直接の交戦はなかった。政宗は蟄居処分を受けた幸村の許にも行ったようだったが、高虎は同じようにはしなかった。

 この手が、吉継をころした。三成が死ぬ原因を作った。その事実に後悔はない。ただ、幸村は何を思うだろうか。流され続けた幸村は、その事実も風が吹いただけだと気にもしないだろうか。その眸を見るのが嫌だった。友の死を前にしても、あの何の感情も映さない眸を向けられるのだけは、我慢がならなかった。己でころしておきながら、お前は悲しむこともできないのか、と掴みかかってしまいそうだった。
 薄氷の上を歩いている。高虎はその中で、己が最善と思う道を常に選んできた。その自負がある。もしもあの時ああしていたら、などという妄想はしないし、できないし、意味がない。俺が今生きているということは、誰かを傷付け踏み倒し、地を汚し命を奪い。そういった行為の果ての成果だ。屍の上に立つ己が、そのようにぐらついていてどうする。あの時ころした男に、それでは示しがつかない。

 幸村は変わらず、高虎を穏やかに見るだけだった。少し、やつれただろうか。それでも浮かべる表情に変化はなく、高虎に対する感情も彼の屋敷を訪ねたあの日々と同じように見えた。
「吉継も三成も死んだ。俺が、ころした」
 幸村はぴくりとも反応せず、高虎の言葉を聞いている。幸村の反応の悪さに、焦れた高虎は乱暴に言葉を連ねた。
「お前は俺を罵る理由がある。殊勝に罵倒を受け入れるつもりなどないが、それとこれとは別物だろう。お前が抱えているだろう怒りは正当であり、真っ当だ」
 そっと幸村の指先が、高虎の頬に触れる。まるで泣いている子どもをあやすように、幸村は殊更丁寧な仕草で高虎の頬を包み込んで、親指の腹で高虎の目元を撫でる。もちろん、そこには少しの湿り気も帯びていなかったが、幸村は機嫌を取るようににこりと微笑んでいた。
「あなたは、後悔などしていないのでしょう。それでしたら、わたしが言うべきことは何一つありませんよ。何一つ、」
 幸村は、あの日と同じことを言う。幸村は高虎に罰を与えない。無体を働いた高虎に、これといった感情を抱いていないようだった。
 高虎は、幸村が言うように、本当に、強がりでもなく、片意地になっているわけでもなく、後悔はしていないのだ。あの日のあの決断を、あの日吉継と決別したことを、交わした言葉の選択を、本当に一欠片とて悔恨しているわけではない。それをしてしまったら、仕舞いなのだ。己は何の為にここにいるのか、立っていられるのか、息をしていていられるのか。あの時、長政と共に死ななかったのか、仕えていた主家を飛び出したのか、秀長の追腹を切らなかったのか。そのもしもの重みに潰されてしまう。一つ、たった一つでも、自分を悔いてしまったら、それらは怒涛のように高虎を追い詰めることだろう。だからこそ、後悔はしない、してはいけないのだ。
 ただ、だからと言って苦しくないわけではない。どれほど苦楽を共にしただろう。そういう相手だった。そういう相手をころしてしまった。それでも後悔がないと言える己は、冷血な人間に見えることだろう。ああけれども、苦しい。―――哀しい。

 ぐいと幸村の腕を引き寄せて、腕の中に閉じ込める。幸村が何を思い高虎の目の前にいるのか、高虎にはとんと見当がつかない。けれども、幸村が抵抗しないことだけは知っていた。幸村はそっと高虎の背に手を回す。誰かに許されたいと思ったことはない。罪悪は己の中だけで始末をつけるものだ。幸村に対しての懺悔は自己完結の為であり、己の中でけじめをつける為だけのものだ。彼の言葉が本当に欲しかったわけではない。ましてや、正当化してほしかったわけではない。彼に、許容してほしかったわけではない。高虎の心を見透かす気すらない男は、それなのに、穏やかだった。相も変わらず、この男は優しい。それがたとえ、仮面であったとしても、だ。
「わたしは本当に、彼らを大事に思っていました。あなたと同様に、彼らを好いていました。けれど、わたしはあなたを憎く思いません。怒りません、嫌悪しません。そんなわたしを、あなたは、人でなしだと思いますか。己の意地と意地をぶつけて戦ったあなた方を、わたし如きが罵る理由などないと思うのです。この考え方は、非情でしょうか」

 そっと幸村から身体を離す。幸村はこんな時までされるがままだった。流れるまま流され続けた男は、最後の最期で己の為に槍を振るう。最初で最後の我儘は、あまりにも傲慢だった。幸村は、この戦が片付く頃には死んでいる。政宗が嘆いたように、幸村は己が不幸だとは思わないだろう。自分が死ぬことで誰かを不幸にさせる事実に、気付いてはいない。高虎と同じだ。それに気付いてしまえば、足元からがらがらと崩れてしまう。最後の一瞬の為に、今まで生きてきたと言っても過言ではない男だ。その事実を突き付けて、息もできなくさせるのは憚られた。ああそれでも、この男が死んでしまう、死んで――、

「政宗が、」
 この期に及んで、他人の名を出す自分が厭わしかった。俺は一体、この男の視線の先をどう思っているのだろう。確かに、この男を見殺しにするのは惜しい。悲しい、死んで欲しくはない、何であれ生きていてくれ、そう思うのではなく、惜しい、という感情しか抱けない己はなんとさもしいことだろうか。だが、仕方がないことだ。俺は、そう思ってしまうのだから。政宗のように、あるいは三成のように見っともなく声を張り上げ、縋り付いてまで幸村を引き止めようとするだろうか。できるだろうか。答えは否やだ。この男のやりたいようにやればいい。そう言ってしまうのは薄情だろうか。死ぬその瞬間に美しくありたいと願う男に、俺のように地べたを這い、泥水を啜り、ありとあらゆる手を使って醜く生きる道を強要するのは、それこそ死ぬことと同義ではないだろうか。生きてさえくれれば、と思うのは高虎の、そして彼と親しい人間の勝手で、幸村はそう思うまい。そんな結末の中に放り込まれたら、舌を噛み切って、もしくは得物を腹に突き立てて息絶えるかもしれない。そんな最期を迎えるぐらいならば、幸村の望む道で華々しくころしてやるのが人情ではないだろうか。醜く生を紡ぐ為だけに息をしていると、彼は思うに違いない。散る時に散り切れず、何故わたしは生きているのだろう、生き延びてしまったのだろう。そう呪いながら生きるのは、この男の心を殺すことに他ならない。

 幸村は一旦切られた高虎の言葉の先を促すように、
「政宗様がどうかなさいましたか?」
 と、訊く。どれほど時間を共有しようとも、この男は読めない。眸の中に感情が宿らぬように初めからできているかのようだった。びぃどろのように澄んでいるのに、折角のその器は意味を成さない。既に何かで満ちていて、他が入り込む余裕など一縷もない。高虎は、どれだけ幸村の眸を見つめても、その考えを覚ることができなかった。その眸から感情が零れることはなかった。
「死ぬな、と。あいつは酔うと、そればかりだ。家康様に嘆願しても良い。なんなら自分の処で匿っても良い、と。お前も随分と愛されているじゃないか」
 政宗は本当に分かりやすく、幸村を愛している。それは決して、恋だとか、情欲だとかに分類されるものではなく、一種の神聖視だ。あれは幸村に憧れている。政宗特有の若い感性を思わせる憧憬の眼差しは眩しく、綺羅綺羅と輝くその眼は、狡猾な奥州の覇者らしからぬものだ。俺には真似できん。そも、政宗が幸村に抱いている感情は純粋過ぎて、高虎のものとはあまりに異なる。では、高虎が幸村に抱く感情とは?己は何を思って、幸村の意思を無視してまで、己らしからぬ言葉を紡いでいるのだろう。死にたければ、死ねばいいだけではなかったか。
「あの方は誰にでも優しいですよ。高虎どのがわたしと同じ立場にあれば、同じようになさいますよ」
「俺は分の悪い方につくようなヘマはせん」
「そうですね、あなたは聡明な方ですから」
「正直にずる賢いと言ったらどうだ」
 幸村は穏やかな表情のまま、少しだけ顔を伏せた。そうすると、顔に落ちる陰影のせいで、余計に感情の起伏が読めなくなる。笑っているような、静かに怒っているような、呆れているような、失望しているような。その全てのようにも思え、そのどれにも該当していないようにも見えた。幸村の表情は常に穏やかだが、感情の起伏は少ない。
「わたしは十分、あなたの優しさを知っていますよ」
 幸村は、温かい優しさで包まれることを望まない。三成のような政宗のような、彼らが持っている甘ったれた想いを、彼は終ぞ受け取ることはしなかった。たくさんの人が手を伸ばしているにも関わらず、彼はその手を掴まない。高虎はそれを知っている。それだけを、知っている。











薄暗い話になりました。これがうちの高幸です。
で、ですが、雰囲気ぶち壊しのおまけ話があります。
幸村討死してますが、ぶっちゃけ一番明るいです。
高虎と幸村ファンがわっちゃわっちゃしてる話。
よければどうぞ。
15/01/18