草木も眠る丑三つ時。頭からすっぽりと布を被り、月の光すら避けているように闇の中に佇む影一人。待ち合わせをしていたのか、同じような姿をした影がもう一人駆け寄る。
『悪い、待たせてしまったか?』
『いえ、わたしも今来たところです。それよりも、大丈夫でしたか?』
『ああ、家の者には見つからなかった。そっちはどうだ?』
『忍びたちは本家の方に帰していますから、誰にも気付かれなかったと思いますよ。』
 二人は短く会話を重ねながら、人目がないことを素早く確認する。持ち上げた布から覗いた顔を、薄っすらと月明かりが照らす。
『では、行こうか幸村。』
『はい、三成どの。』
 二人は寄り添いながら、闇の中を行く。まるでそれは、彼らの背後に聳え立つ大坂城から逃れるようであった。









月 と 甘 い 涙









 時は数日前にさかのぼる。
 関ヶ原の戦から一年が経とうとしていた。豊臣の宰相・石田三成は戦後の処理に未だ追われ、多忙な毎日を送っていた。関ヶ原では徳川についた大名家の処置も既に終わっていたが、配置換えから起こる諸々の問題が三成の頭を悩ませていた。
 そんな中、どうにか時間を捻り出した三成は、幸村との逢瀬の最中であった。関ヶ原の戦いと呼ばれる戦が本格的に始まる前に、三成は思いきって幸村に想いを告げている。当たって砕ける思いで挑んだ告白だったが、三成の想いは見事幸村に届き二人は結ばれた。二人を一番近くで見ていた兼続に言わせれば、二人が両思いであることは誰の目にも明らかであった。気付いていなかったのは当人同士だけだ。そうして、晴れて恋人同士となった二人だが、世情は都合良くいってはくれなかった。折角お互いの想いが通じ合ったのだが、戦が二人の距離を引き裂いた。二人共、豊臣政権においてなくてはならない人物であり、要所を護る武将であった。三成は関ヶ原で、幸村は上田で、豊臣の為に戦った。血生臭い戦も終結し、各地の情勢も落ち着きつつあった。ようやく二人の時間が訪れるはずであったが、そこは豊臣重鎮の三成だ。平和が訪れれば、その平和を護る為に仕事が次から次へと飛び込んでくる。幸村は幸村で今までの武勇を認められ、豊臣直属の馬廻衆の指南役となっている。三成ほどとは言わずとも、幸村も自儘に町へ降りて買い食いなど気楽に出来ぬ立場となってしまった。当然、二人きりで会う機会も少なくなっていた。
 今日は久しぶりの逢瀬。三成の心には余裕がなかった。幸村に会う約束をしていた数刻前に、いらぬ男から余計な入れ知恵をされていたからだ。くだらない、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てたものの、正直な話、その入れ知恵には心惹かれている。いいや、己一人の問題ではない、駄目もとで幸村に伝えてみよう、幸村が了承してくれればそれでよし。断られたら冗談だと誤魔化してしまえばいい、などと逃げを打ってる時点で情けないのだが、三成は己の短所を自覚している分、今後改良の余地は期待できないだろう。
 気が急いているのだろう、約束より早い時刻に幸村の部屋へと顔を出せば、幸村は思いつめた表情で庭を睨み付けていた。声をかけるにも躊躇って、幸村の横顔を見つめている。久しぶりに見る愛しい人の横顔は、ここ一年分の疲労が刻まれているような気がした。記憶の中の幸村より、幾分か輪郭すら細くなったように思う。無理を無理だと知らぬ男ゆえ、人に求められる以上のことを返そうとしてしまうようだ。目の届く範囲に居ない分、三成は不安でたまらない。
 ついつい幸村の横顔に見入ってしまった三成だが、唐突に幸村が振り返ったおかげで、何とかその呪縛から脱出した。顔が合った瞬間きょとんした幸村だが、すぐに笑みを作って、三成どの、と柔らかく名を呼んだ。染み入るような幸村の笑顔が懐かしく、三成もつられて笑みを浮かべた。
「時刻より、少し早かったか?」
「そちらの方がうれしいです。何だか、こうして会話するのも久々な気がします。」
「それは…すまない。」
「いえ、そういう意味ではなくて。三成どのは、大坂には無くてはならぬお人ですから。」
 立ち話も何ですから、どうぞ。
 幸村は三成の反論を塞いで、素早く座をすすめた。縁側に腰掛けていた幸村の隣りに座り、ゆったりとした時が流れる庭を一瞥する。二人は決して口数が多い方ではなかったし、こうして無言で時を共有し合うことの方が多かった。それで満足であったし、そういう時間がこれからも続いていくのだと漠然と思っていたからだ。だが、現実はそうではなかった。三成は空いていた時間を埋める言葉を告ごうと何度か口を開こうとしたものの、結局は言葉にならず口を閉ざした。少しだけ居心地の悪い静寂を感じながら、三成の脳裏に、ふとあの男の言葉が過ぎる。秀吉の友でありながら、何の権力も囚われていない男。雑賀衆の頭領・雑賀孫市がふらりと大坂城へ立ち寄ったのは、つい先程のことだった。言おう、言ってしまえ。そう決意して、重い口をようやく開けた。

「幸村!」
「三成どの!」

 しかし、三成が何とか声を絞り出したと同時に、幸村も同じような思いで、同じように切実さを感じさせる声音で、三成の名を呼んだ。二人は顔を見合わせ一瞬の沈黙の後、何だ幸村、三成どのこそ、いや俺はいいんだお前は、わたしも大したことではありませんから、何だそうやって人に譲ってばかりではいかんぞ幸村、本当に他愛ないことですから三成どのどうぞ!いやいや幸村!などと繰り返している内に白熱して、互いの意固地の強さも手伝い、しまいには二人して息を荒げる始末。先に音をあげた三成が、降参だと両手を上げれば、幸村は正座をして、さあ!どうぞ!と意気込む。
「あー、その、だな、幸村。」
「はい。」
「えっと、あー、うん。急にこんなことを言い出すのはおかしいと思ったらおかしいといって欲しいし、嫌だったら嫌だとはっきり言って欲しい。遠慮はするな。」
「はい。」
 幸村は真摯に三成を見つめている。三成の言葉にも怯んだ様子も、構えた様子もない。まるで三成の発言が何であれ、全部を受け止める覚悟が感じられて、三成の心も軽くなった。

「俺と、出奔してくれないか。」



 そして、冒頭に至る。















 

09/01/11