釣られる
生憎、海はあまり見たことがありません




 武田は同盟者を求めて四国まで手を伸ばしていた。長曾我部が抱えている、南蛮の兵器に目をつけたのだ。使者には幸村が選ばれていた。これは以前からの決定事項だったらしく、既に佐助が準備を済ませていた。港に出向き、用意していた船に乗り込めば、後は船に揺られるままに四国へ到着するだろう。幸村は舳先から海を見下ろしながら、隣りに佇む佐助に話を振った。
「長曾我部どのと、こちらの私は顔見知りだったか?」
「困ったことにそう。物分りのいい人だから、話せば分かってもらえると思うけど、どうする?」
「確かに、長曾我部どのならばそうだろう。出来れば穏便にやり過ごしたいところだが、」
「いっそ、信幸さまの振りしてみたら? 旦那は珍しく病気で出られないから、代わりに〜って。」
 幸村は佐助の提案を受け考え込む。確かに、それが一番簡単な方法だろう。元々、幸村は元親とはあまり親しくはない。政宗のように、察知される可能性は低かった。
「佐助の案で行こう。あまり嘘はつきたくはないが、こればかりは仕方がないだろう。」
「じゃあそういうことで。俺は他の奴らに徹底してくるから。」
「ああ、頼む。」
 幸村は佐助が走り去るのを眺めてから、ふと、佐助に訊こうと思ってそのままにしていたことを思い出した。
「どうしてこちらの私は、女子のような、赤の着物ばかりしかないのだろうか。」

 真田幸村という男は、赤が似合う男だ。燃えるような破壊力で、敵兵を問答無用で踏み潰す、慈悲の欠片もない戦をする幸村であるからこそ、それは当然のことのようにも見えた。しかし、実際、幸村は赤が好きではなかった。さもしい色だ。命を燃やす色だ。そうしなければ、輝くことすらできぬ色だ。そして、そうでもしなければ、私は戦場に立つことすら出来ぬのだ。だが、反面、幸村は赤の持つ鮮やかさを好いていた。このように、鮮やかに散りたい。そういう思いが込められていたかは定かではないが、幸村は、赤を好いているようでもあり、心底憎んでもいた。
(私に赤が似合うと言った方たちは、きっと私のような邪推をしなかっただろう。)
 そう考えれば、余計に思うのだ。ああ、さもしい色だ、と。
 はあ、と気だるげにため息をついた。随分と遠くへ来てしまった。幸村が遠出した範囲と言えば、精々小田原までだ。大坂では何度か船に乗せてはもらったが、数日間を船で過ごすのは初めてだった。

 そろそろ船も到着すると聞き、幸村は再び舳先へと顔を出した。数日は海を眺めていたが、変わらぬ景色に飽きてしまい、船酔いをしている家臣たちの介抱へと回っていたのだ。
「ようやく船旅も終わりだねぇ。」
「これは、いささか退屈だな。」
「船酔いしなくてよかった、って喜べばいいのに。長旅は初めてですよね?」
 それにしても、と佐助は幸村の姿を上から下まで見下ろした。何だ、何か不満でも?と幸村は視線で問い詰める。
「旦那はその着物でよかったけど、若が着ると、な〜んか、傾奇者っぽく見える。」
 女子が着るような、艶やかな赤だ。当然そう見えるのだが、それ以上に、陰間の太夫にも見える、と佐助は思った。もちろん、口に出すような軽挙はしない。と言っても、色がある、というのみの意味で、幸村自身からは欲のよの字も窺がえない。彼のことであるから、男色の気は塵ほどもないだろうが、どこか影のある様子に色を感じるのだ。男という生き物は身勝手だ。本人にしてみれば、不幸があっただろう過去を背負っている様子も、こちらを誘っているように見えてしまうのだから。清廉にある様もひどく男心をくすぐるものだ。気高い心を手折ってしまいたい、と、そんな醜い欲がむくりと顔を出す。誰かに奪われるぐらいなら、いっそ己が。裏切り者の烙印を押されてもいい、それもまた甘美であろう。どうにかしてやりたい、どうにかしてしまいたい。そう思わせるこの幸村も、中々の食わせ者だ。当の本人はそんな気はまったくないだろうけれど。
「いっそのこと、女装してみません?弟たちの代わりに村松姫が来ました、って、」
「佐助。流石に私とて怒るぞ。」
「面白いと思うんだけどねぇ。」
 流石に冗談である。佐助も本気にはしていない。幸村はその一言でへそを曲げてしまったようで、ぷいと顔を背けてしまった。だが、そこは佐助だ。幸村の機嫌取りは御手の物。
「そう言えば、頼まれてたこれ、出来ましたよ。六文銭の鉢巻。」
 佐助が差し出せば、幸村も仕方なさそうに視線を向けた。戦場では常に額にあったものだ。手許にあるだけでも気まぐれになるだろうと思い、幸村が佐助に頼んでおいたのだ。幸村が使っていた物とは布の色は違うものの、遜色はない。やはり、布地は赤と統一されていたけれど。
「ああすまぬな、佐助。」
「どういたしまして。」
 佐助の手から幸村へと渡る。が、その時唐突に強い風が吹き、驚いた幸村は思わず鉢巻を手から離してしまった。慌てても時既に遅し。二人の視界を漂い、海へと飛ばされてしまった。
「あーこりゃ、見事に飛んでったものだねぇ。」
 忍びの視力では、遠くを漂う鉢巻がはっきりと映っているようだが、幸村の目では追い切れない。泳いで取ってくる、と船に手をかけた幸村を、佐助が慌てて引き止める。
「ちょっと、鉢巻一つで何考えてんの?!」
「しかし、折角佐助が繕ってくれたものだ。」
「あの程度、すぐにでもできるから。新しいの作ってあげるから!今は我慢して頂戴。」
 幸村は名残惜しそうに鉢巻が消えていった先を眺めていたが、船が到着した、という報告を聞いて、仕方なく船から下りる準備にかかったのだった。

 連絡がついていたのだろう、長曾我部の家臣たちに迎えられ、幸村たちは城へと入った。身なりは大名の家臣、というよりは、海賊と似たようなものだ。少々荒っぽい彼らだが、気さくな雰囲気には好感が持てた。ただ、幸村の記憶にある元親がこのような家臣たちをまとめているのか、と思えば、違和感を感じずにはいられない。どちらかと言えば線の細い、物静かなお人だった、と幸村が思っている間にもあれよあれよと話は進み、今は元親が待っている部屋へ向かっている。
(分かってると思いますけど、若は今、信幸さまだからね、間違えないようにね。)
 相手に悟られぬ、忍び特有の話術である。幸村は佐助にだけ見えるように頷いた。本来ならば、佐助のような身分を持たぬ人間はこの場に並ぶことはできないのだが、今では幸村の一家臣のように常に幸村の背後にぴたりとつけていた。念の為、偽りの名も与えてあるのだが、おそらくは必要ないだろう。

「アニキィ!入りますぜ!」
 そこに、大名家らしい礼節はない。おかしい、これはおかしい、と幸村は表情には出さないが、ぐるぐると同じことを思っている。おう!と短い了承の声。果たして、この声が長曾我部どのなのか。あまりに記憶の元親と違っているではないか。
「真田源二郎幸村の代理として参りました、源二郎の兄、源三郎信幸にございます。」
「堅ッ苦しい挨拶は抜きだ。入りな。」
「はい、失礼いたします。」
 幸村は一礼をして、襖に手をかけた。ゆっくりと襖を開け、中の様子を窺がうよりも早くに深々と頭を下げた。
「そういう面倒なのはなしで頼むわ。幸村の兄ちゃんだって?遠慮すんなって、ほれ、入れ入れ。おめぇら!下がっていいぜ!」
 幸村はどうして良いのか分からず、そのままの体勢を貫いたが、そんな幸村の様子にじれたのか、あろうことか元親が上座から立ち上がり、幸村の側に寄った。そして、平伏している幸村の腕を掴み、そういうのはいいからさ、と強引に立ち上がらせてしまった。幸村は驚いて咄嗟に元親へ視線を向けた。偶然にも目が合った。元親はにかりと笑いながら、似てねぇ兄弟だなあ!と幸村から手を離した。
「此度は弟が急に病に伏した為、僭越ながらわたくしがまかり越した次第に御座います。」
 堅い言葉は言っても直らない、と悟ったのか、元親はそれ以上は言ってこなかった。
「病って、大丈夫なのか、幸村は。」
「はい。ただの風邪なのですが、慣れぬ身ゆえ、高熱を出しまして。流石に船旅は堪えるだろうと、わたくしめが、」
「お抱えの忍びがいい薬煎じてくれるとは思うが、こっちにはこっちで良い薬がある。土産に持ってってくれや。」
「お心遣い、痛み入ります。」
 幸村は更に居住まいを正す。上座に戻っていたはずの元親が、またしても幸村に近付き、その正面にしゃがみ込んだ。幸村の顔を物色しているようであった。幸村もまた、これ幸いと元親の顔を凝視した。家臣に慕われているのは、流石元親、と言うべきだったろうが、あまりにも幸村の知る元親と違いすぎて、どう接して良いのか分からない。元から元親との接し方が分からなかった幸村であるから、この場ではあまり経験はあてにならなかっただろう。
 気が済んだのか、元親は幸村から顔をそらし、腰を上げた。そして部屋の隅から何かを取り出し、もう一度上座に腰掛けた。
「これ、見覚えねぇか?」
 元親が掲げるそれに、幸村は思わず、「あっ!」と声を発した。品が良いとは言えぬその声量に幸村は慌てて口を押さえたが、元親は構わねぇよと笑っている。手招きをして、近くに寄るように言っている。
「六文銭が縫い付けてあったもんだからよぅ、もしかして、あんたらの落し物じゃねぇかと思ったんだが。」
 当たったか?と幸村に言葉を振る。
「は、はい。船の上で飛ばされてしまったもので、もう諦めていたのですが…。」
「ほら、持ってきな。潮で多少色落ちしちまったが、まだ使えるだろ?」
 ほら、と元親が鉢巻を差し出す。確かに、確かに、幸村が受け取り損なった鉢巻だ。赤い、私の好きな憎ましい色だ。
「よろしいのですか?」
「いいも何も、あんたのだろう?受け取りなよ。」
「はい、ありがとうございます!」
 幸村は満面の笑みで、それを受け取った。大事そうに両手に抱き、もう一度、元親に頭を下げた。花が綻ぶような笑みとはまさにこのことだろう。先ほどまで、堅苦しい言葉を告いでいた男に、もやもやとしたものを抱く。元親はその感情を確認しようと幸村に手を伸ばしたが、当の本人は、よかったよかった、と手の内の鉢巻を大切に見つめるばかりで、元親も手を引っ込めなければならなかった。
「あんた、食えねぇヤツだな。」
「はい?」
 言われている意味が分からない、と幸村は首を傾げたが、元親は後は豪快に笑うばかりで、幸村に答えてはくれなかった。