幸村は秀吉に頼まれた書物を片付けた後、急いで自室へと戻った。左近との邂逅に動揺していたのだ。転がり込むように部屋へと入り、ぴしゃりと音を立てて襖を閉めてしまった。だが幸村は気にしなかった。どうして、どうして、とそればかりが頭の中で反響している。

 実際、今日交わされた会話は、小田原でこそ済ませていなければならないものである。久しぶりとはいつぞやのことだ。幸村は頭を抱えてしまった。
 幸村が左近を嫌っているという事では決してない。むしろ幸村は今も左近の才を好ましく思っているし、時間があれば再び以前のようにたくさんのことを語り合いたいとも思っている。だが、実際彼を目の前にした途端、空白の数年間がひどく重くのしかかるのだ。小田原で死人を見たようであった。幸村は左近が三成の家臣となっていることを知っていたのに、そう思ったのだ。切れた縁が繋がることなど、そうそうあるものではない。幸村はそう信じていた。信じていたからこその衝撃であった。


 どれ程考え込んでいただろう。幸村は、ふと鼻をかすめたにおいが気になって顔を上げた。これは、血のにおいである。幸村は辺りの気配を探るように目を閉じた。呼吸を止め、神経を研ぎ澄ますが、部屋の周りに人影は感じられなかった。
「六郎。」
 幸村は誰もいないはずの室内で、そう語りかける。
「控えております。何用で?」
 しかし幸村の頭上から声が降りてきた。幸村が自侭に使うことのできる忍びの一人、海野六郎である。
「下へ降りて来い。」
「どなたが訪ねてみえるか分かりません。ご容赦の程を。」
「手当てがまだだろう、早く。」
 幸村がそう言ってゆっくりと目を開けた。その時には既に音もなく六郎が姿を現していた。

 幸村は六郎の傷を見ながら、
「誰にやられた。」
 と問う。六郎ほどの腕の持ち主である。斬り合いになったとて遅れをとるようなことはない。それに、水面下ではどうであれ、秀吉の名の元統一された天下に、他の勢力とせめぎ合う必要はない。忍びは現在、諜報活動の為に各地を飛び回っているのだ。そこは同業者同士見て見ぬ振りをするのが普通である。それが、今回は手傷を負ったという。六郎は幸村が己の気配に気付き、更に傷を負っていることをいとも簡単に見抜いてしまった事実に感動を覚えていた。そして主自ら手当てを施している。六郎の胸は自然と熱くなった。幸村は会話の合間、傷を負った腕に包帯を巻きながら、
「きつくはないか?」
 と訊ねながら、慣れた手付きで処置を施していく。

「取り逃がしてしまいました故、はきとは言えませんが、」
「お前ほどの者が取り逃がしてしまったのか。余程の手練だろうな。」
「面目の次第もございません…。しかし、次は遅れを取るような真似は決して。」
「して、相手の忍びはどこの者だ?」
「術の片鱗を垣間見ましたが、私は風魔ではないかと思っています。しかも城内の地理にも明るく、 どこをどう逃げれば良いのかまで熟知している模様。数は分かりませんが、あの迷いのない行動は、目的があるように見受けられました。」

 元小田原城城主、北条氏の忍びとして風魔はあまりにも有名である。特に薬物に通じており、人に幻術を見せる手法は風魔の独壇場である。小田原の戦の後、その風魔がどうなってしまったか、幸村には知る手立てがない。秀吉が吸収してしまえばよかったのだが、本来秀吉は独自の忍び集団を有していない。大名たちが雇い入れている程度である。徳川や真田、伊達といった整備された忍びの体系が出来ていないのだ。
 そこに、風魔が大坂城で暗に活動していると憶測する六郎の話である。雇われの忍びが主の敵討ちをするなどとはおかしな話ではあるが、それに近いものが水面下で動いている可能性がある。この平和な大坂城に、風魔という存在そのものが不穏である。六郎の勘違いであるのならば、それでいい。だが、問題はその懸念が事実であった場合である。一騒動では済まぬであろう。

 幸村は瞑目した。己一人の問題ではないが、口外した場合、己は忍びを使ってこの大坂城を探らせているのだと言っているようなものだ。容易に判断をしてしまっていいことではない。だが、幸村はゆっくりと目を開け、決意したと口を開いた。
「…念の為、三成どのの耳へと入れておく。あの方ならばうまく対処してくれるだろう。それで、お前の傷は右腕だけか?毒は塗られていなかったか?」
「幸村さま!それでは幸村さまのお立場が悪くなります!私が探って参りますゆえ、しばしお待ちを!」
「六郎、お前の気遣いは嬉しいが、大事が起こっては遅いのだ。」
「ですが!」
「六郎。」
 幸村が静かに名を呼んだ。主に心酔している六郎である。その一言で激昂もおさまった。幸村はその様子に穏やかに笑った。六郎の胸の内に、嫌な予感がかすめる。
「父上へこのことを知らせてくれ。だが、つなぎは必要ない。しばらくは大坂城に立ち入らない方がいいだろう。上田で養生してくれ。」
「幸村さま!!」
 六郎の叫びに似た声が幸村の背にぶつかるが、
「文をしたためる、しばし一人にしてくれ。」
 と幸村が言い放ったものだから、六郎は何も言えなくなってしまった。
 幸村は文に筆を滑らせながら、今後のことをぼんやりと考えた。真っ先に三成に相談するのもいけないだろう。忙しい身である。杞憂の可能性も高い。あまり煩わしい想いをさせたくはなかった。幸村の中で一人の人物の名が浮かび上がる。その人物であれば、三成との距離も近い。相談にも乗ってくれるだろう。年の功に頼るつもりではないが、的確な判断を仰げそうでもあった。だが、人払いをし二人きりで話すのだと思うと、途端気が重くなった。その人とは、島左近であるからだ。




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