幸村は部屋の障子を開け放ち、月を眺めていた。兼続を信用していないわけではないが、彼が左近とたまたま会えなかったかもしれない、会えたとしても左近の都合が合わなかったかもしれない。幸村は彼が来ることをそこまで信じてはいなかった。それが当然であるからだ。それに実際、夜になってしまった密談に憂鬱すら感じていた。
 兼続に言付けてもらった、以前と同じように、とは武田の頃の話である。武田という軍の雰囲気もあっただろう。何も二人に限ったことではないが、夜であっても大して気にとめず相手の屋敷を訪ねたものである。流石に深夜では家の者に迷惑がかかる、では右から何番目、上から何番目の戸を外しておくから、そちらからこっそりと入ってくれ、といつの間にやら約束事が出来上がっていた。あの頃が一番よかった、と幸村は思う。今の生活を苦に思っているわけではない、三成や兼続といった友人はとても頼もしい限りである。だが左近との関係だけは、武田の頃が一番良好だと言えただろう。己はまだ女子に成りきれておらず、娶られる嫁ぐといった言葉を漠然と受け止めていた頃である。今となってはどうだろうか。女子になりたくない、捨ててしまいたいと幸村は頑なに思い続けてはいるが、それでも女子としての身体の変化は否めない。身体の丸みを隠す為に、人知れず厚着をしているのもそのせいである。幸いにも幸村は、大名の姫君たちのように美しく煌びやかなものへの執着はほとんどなく、好んで着る衣の柄はどれも地味なものばかりだ。唯一華やかな赤を放つものと言えば、使い慣れた鎧ぐらいだろう。だからこそ余計に、この身体の丸みが憎たらしいのだ。
「月見には、ちょっと物々しい雰囲気じゃないですかね?」
 左近の声である。幸村ははっと顔を声のした方へ向けた。庭先に左近が立っている。月明かりが幸村を照らしていたのだろう、幸村の表情に、
「そんな驚くことじゃないだろう。」
 と左近は笑っている。まるで当然のことのように縁側へと腰掛けた左近は、そのまま部屋へと上がりこんだ。左近は幸村が女であることを知っていたが、遠慮などはなかった。幸村が望んだことであった。頑ななのは己である。幸村は左近の所作を眺めながら思う。左近は何事もなかったようにつくろおうとしている。だが幸村は、ただ目の前にいる島左近という存在を否定ばかりしている。それではいけない、彼と同じように、何もなかったのだと、そう知らん顔をしなければいけない、と、幸村は思うのだけれど、顔は強張ったままであった。

「ああそうだ幸村、お前が読みたいと言っていた本を持ってきた。」
 そう言って左近は本を何冊か畳に並べるが、幸村はそんな約束をした覚えはなかった。戸惑いを浮かべたのも一瞬で、左近の意図することを汲み取った幸村は、
「ありがとうございます。」
 とそれを頂戴した。
「それにしても今夜はちょいと冷えるな。閉めてもいいか?」
「どうぞどうぞ。粋の欠片もない庭ですから、見ていても何も面白味はありません。」
 静かに障子が閉められた。

 左近が持参した本は彼のちょっとした機転である。三成と幸村が昵懇の間柄であることは周知の事実であったが、その家臣の左近と幸村の距離は少々遠い。にも関わらず、夜、人目を忍んで会談をする二人である。不審に思う目がないとは言い切れない。いくら辺りに注意を払っていようが、人のすることである。何を失念しているか分からない。これはその時の口実である。

 幸村と左近は僅かな灯りをはさんで対峙した。正座をし、改まった幸村の姿に、これはただ事ではない、と左近も背筋を伸ばした。
「左近どの、此度はありがとうございます。」
「いや…。それにしても、人の記憶力ってのは案外馬鹿にならないな。まさか、あの戸の位置を今も覚えてるとはなあ。」
「覚えて、居たのですか。」
「だから俺はここに居るんだろうが。」
 左近はそう言って笑ったが、幸村は笑えなかった。この男と自分は、一度は切れた縁である。もう二度と会わぬだろう、会うこともないだろう、過去すら忘れてしまおう、そう思っていたのに、確実に自分たちは繋がっていたのだ。それが嬉しいことなのか、それとも悲しいことなのか、幸村には分からなかった。
「で、気まずい相手を呼び出してまで、あんたが打ち明けたい話ってのは一体なんだ?」
「はい、そのことなのですが、」
 左近の皮肉に少し顔を顰めながら、幸村は語り出した。


***


 幸村は出来るだけ主観を交えぬよう気を配りながら、一連のことを語った。段々と左近の顔が険しくなるのが見受けられたが、幸村は構わずに言葉を続けた。
「証拠は、」
「一切ありません。ですが私は、忍びの言を信用しています。悪戯に騒ぎ立てするつもりはありません。しかし、小田原の戦が終わってまだそこまで経ってはおりません。風魔の存在があまりに不穏を感じさせました。」
 幸村は真摯に左近を見つめる。幸村も一角の人物である。この時ばかりは気まずいと、女々しく顔を伏せるような愚行はしない。何より人の目にどれ程の力があるのかも知っている幸村である。己の言に偽りはないと証明する為であれば、何でもしただろう。左近も間が空いていたとはいえ、古い仲である。幸村の言葉に嘘偽りがないことは分かっていた。が、判断が難しい所である。幸村は当然のことのように左近に告げたが、その告げた裏にどんな事情があるのか、左近が読み取れぬわけではない。ここまでも純粋に豊臣のことを思っている人間の何を疑えというのだろうか。
「左近どの。ご面倒をおかけしていることは重々承知です。いかようにでもお叱り下さい。ですが、どうか三成どのへ取り次いで頂きたいのです。」
 決断をした幸村の意志は強い。左近は変わらないなあと心の中で呟きながら、
「分かりましたよ。」
 と返答をする。
「あんたの言葉に嘘はない。わかった、殿へとお知らせしておこう。だが、俺の証言だけじゃ信憑性に欠ける。いざとなったらあんたの名前を出す。許せ。」
「それは承知の上です。どうか、よろしくお願いします。」
 幸村は丁寧な動作で頭を下げた。思わず見惚れてしまうような、流れるような所作であった。左近は無意識に
「幸村、」
 と呼んでしまってから、この場の濃密な闇に気が付いた。会話に夢中で大して気にも留めていなかったが、薄明りでは相手の顔がぼんやりと浮かび上がるだけだ。まるでこの部屋が世界の全てであるように、この闇がどこまでも広がっているように錯覚する。幸村もまた、左近と同じように辺りの空気をようやく感じ取ったようだ。周りを確認するように、きょろきょろと視線をさ迷わせている。先程、左近を圧倒した人物とは思えなかった。

 左近はもう一度、
「幸村、」
 と名を呼んだ。幸村はその声に過剰に反応し、身体をびくりと震わせた。困惑したような顔をした幸村の横顔が、ぼんやりと灯りに照らされている。幸村はこんな表情をする娘だったろうか。どこか憂いを浮かべている幸村の横顔は、確かに女の顔をしていた。
「……―――。」
 左近は幸村の姿に、思わず口から飛び出しそうになった言葉を飲み込んだ。綺麗になったと告げたところで、彼女は喜ばないだろう。幸村が男の格好をし、男の中に埋もれている事実を、左近は左近なりに汲み取っている。小田原では鎧を着込み槍を握り、誰よりも見事な働きをしてのけた。武田の頃から変わってはいない。幸村は未だ、己が女子である事実を直視できないのだ。
 左近は一瞬の逡巡の後、
「背、伸びたな。」
 と当たり障りのないことを言い、幸村の髪を掻き回した。幸村は左近のその言葉は予想していなかったのだろう、幸村の反応は鈍かった。触れた瞬間、左近の鼻腔を仄かにかすめた匂いは、幸村の体臭であろうと知れた。武辺一徹の幸村である、香などは焚かぬ。けれども決して不快ではない、むしろ芳しい水のような匂いを放つ幸村は、間違いなく女子であった。女子独特の香りである。
「あれからそれなりの年月が経っておりますれば。それよりも、子ども扱いはやめてください。」
 突き放すような物言いだけは、以前のものとは違う。左近は多くの家を渡り歩き、新しく人間関係を作ることを自然とこなしてしまうのだが、幸村はそうではない。左近との距離に困惑している。どうやって距離をとったらいいのか、どれほど近付いても不自然ではないのか、どれほど離れなければならないのか、それを未だ掴みかねているのだ。違うものはそれだけではない。幸村は女である。まだ少女と呼べる頃、左近は幸村と出会った。お転婆な娘であり、当時から男さながら、むしろそれ以上の働きを見せていた。槍を持たせば敵はなく、軍略を語らせれば左近ですら唸らせる程であった。幸村はその頃から、思考の性質が男寄りであった。これもまた、幸村が女子である己を拒む要因の一つである。それは今も変わらないが、ふと浮かべる表情、何気なくこぼれる艶。幸村は女子であると左近は思わずにはいられない。だからこそ、このまま幸村は男として一生を終えてしまっていいのだろうか、女として生まれたのだその幸せを幸村は知るべきではないか、そう思うのだ。幸村が女としてどれ程魅力を持っているのか、幸村自身が知らなければならないことではないだろうか。そう思ったが、幸村に言ったとて通じぬだろう。幸村にもしその気があるのであれば、体形を隠すように着込む必要はないのだ。立花ァ千代の例もある。女だからとて戦場に立てぬわけではない。幸村は男でしか出来ぬことまでもを、その身に背負おうとしているのだ。

「髪は伸ばさないのか?」
 この言葉も唐突である。幸村は少し考えるように眉を寄せ、
「槍を振るうには邪魔になります。それに、そういったものの手入れを煩わしく思ってしまう性質ですので。」
 と語る。
「左近どのは、」
 幸村は顔を伏せる。幸村の顔に影が落ちる。におい立つそれは、幸村からのものだろうか。
「変わりませんね。とても羨ましいです。」
「変わったさ。あの頃は若かったが、今はお世辞にも若いとは言えん。」
「左近どの。」
 場を和ませようとした左近の言葉も、幸村が封じてしまう。左近は幸村の言葉のその先をじっと待った。
「私は、分からぬのです。あなたとどう向き合ったらいいのか、どうすればいいのか、分からない。昔のことは昔のこと、最早なかったものだと、縁がなかったのだと私は気持ちに整理をつけました。けれど、あなたは現れてしまった。また出会ってしまった。こうして言葉を交わしてしまった。私は、」
 左近と幸村は武田の軍ではそこそこに仲の良い二人であった。幸村は軍師としての才もあり、信玄もそれを感じ取っていたからこそ、左近と場を同じくすることはしばしばあった。幸村は昔から素直な性格である。才ある左近を慕っていた。その二人、実は武田のごくごく限られた者の間で密かに進められていたことなのだが、幸村を左近に嫁がせようという計画が持ち上がっていた。誰もが公にはしなかったし、幸村も当時から女子であることを隠していたこともあり、皆が皆知っていることではなかったが、左近も幸村もその話に反対はしなかった。夫婦となるというよりは、良き相棒を得るという意識が強かっただろう。二人とも若かったのだ。褥を共にすれば次第に情も湧いてこよう、好いたという感情も自然と伴ってくるだろう。二人は穏やかな関係であった。それが、信玄が亡くなったことによって、白紙になってしまった。悲劇だ人は言うだろうか。幸村はそうは思わなかったし、左近もそう思うことすらなかった。ただ縁がなかったのだ。二人の思いの行き先だけは共通していた。
「あなたの妻になりたかったのか、今となっては分かりません。見当もつきません。けれどあの時私は、縁がなかったとしっかりと線引きをしたのです。今思えば、女であることを忘れてしまったようです。私は慕情と共に、女である自分を捨てたのではないかと思うのです。」
 左近が侘びを入れるのは簡単だ。あの時、周りに何を言われようとも幸村と一緒になればよかったのだ。そうしなかったのは左近だが、責められるのは左近一人ではないだろう。何よりも互いにその縁を受け入れていた。今更幸村に謝ることこそ、左近の傲慢であろう。男女の仲は知らぬが、二人の間に力の優劣はなかったからだ。

 左近は言葉が見つからず、幸村の顔をじっと見つめた。この娘に、女であることを捨てさせたのは自分なのか、そう思うと、左近はかける言葉を失った。場の沈黙に限界を感じ取ったのだろうか、幸村が静かに立ち上がった。衣擦れの音が、妙に大きく場に響いた。
「そろそろお帰りになった方が良いでしょう。今宵は、本当にありがとうございます。感謝の言葉もございません。」
 幸村はそう平伏した。左近の顔を見たくはなかった。惨めな思いをしたくはなかった。それゆえの行動であった。
「何故、」
 左近がようやく言葉を発した。しぼり出したかのような、短い呟きであった。何に対しての"何故"であろうか。幸村も分からなければ、それを吐いた左近ですら分からなかった。幸村はゆっくりと顔を上げた。相も変わらず、難しい顔をしていた。
「くやしかったのです。あなたも私も、何もなかったことにしてしまっていることが、無性に、」
 切実であった。幸村の声は、左近の心に鈍い痛みをもたらした。幸村は、悲しいとは言わぬ。うらむとは尚言わぬ。ただくやしいと言った。左近には、その心の機微が分からなかった。それは、悲しいことだと思った。
「あんたはいっつも笑ってたよ。分からないとあんたは言ったな。なら、笑っててくれ。笑いながら甘味を食べて、笑いながら喧嘩をして、笑いながら戦術を語った。俺達は、そうだったろう。」
 左近はそう言って立ち上がった。
「殿にはちゃんと伝えておく。」
 と去り際に言った。幸村は左近の言葉には応えず、ただ無言で左近が去っていくのを見つめるのだった。




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