左近と幸村の静かな密談から、一夜が明けていた。左近は僅かな睡眠を摂り、早速三成の許を訪ねていた。三成は機嫌の悪いそうな顔で左近を部屋へと入れた。眉に皺が何本も寄っているのは、何も機嫌が悪いせいではない。朝が弱い男なのだ。
「おはようございます。」
 と、まず左近が切り出す。三成は短く、
「ああ。」
 と、応える。何度も繰り返してきたやり取りである。
「早速ですがお話が、」
 左近は言葉を続けるが、三成が左近の声を遮った。不機嫌そうな声で左近の名を呼んだのだ。それが本当に機嫌を損ねているわけではないと分かっている左近は、
「何ですか?」
 と、常と変わらぬ口調で訊ねた。
「昨夜は屋敷に居なかっただろう。兼続が置いていった酒がやはり強くてな。俺では呑みきれん。」
「では近いうちにでもお付き合い致しますよ。」
「ああ。幸村も呼ぼうと思う。兼続にも言われたからな。だが、強い酒だ。三人でも呑み切れるだろうか。」
 左近は昨夜のことをおくびにも出さない。三成の口から遠慮なく幸村の名が出始めたのは、つい最近のことであったが、その名に動揺はしなかった。その辺りは左近の得意なところである。
「幸村はああみえて酒豪ですよ。心配いりません。」
 武田の頃の話である。左近は、幸村がとことん酔っ払った所を見たことがない。皆に可愛がられていた幸村である、そこここから酒をなみなみと注がれては、見事な呑みっぷりを披露していた。
「そうか意外だな。」
 と、三成は笑っている。これでは中々本題に入れない、と早々にその話題を切り上げた。左近が朝から三成の部屋へと訪れた目的は、幸村の些細な過去の暴露ではない。
「それで殿、左近から一つ内密な話があるんですが。」
 表情は笑っているが、目の奥は真剣であった。三成はふん、と鼻を鳴らし、手にしていた扇を開閉させる仕草をした。三成は人の感情の機微には疎いが、政で関して彼の右に出る者はいない。左近の表情から、大坂に関わる"何か"を読み取ったのだろう、すぐに反応を示した。
「人払いをしろ。だが、あまり時間は取れんぞ。」
「はい、ありがとうございます。」

『忍びからの報告によりますれば、』
 左近はそう話を切り出した。石田家にも少なからず忍びは存在しているが、体系も優れたものとは言えず、また忍びの質も良くはない。三成は秀吉の台頭と共に成り上がった者である。そういった裏社会でのコネが今一つであった。また、秀吉の右腕として政務に忙しい三成に、忍びの報告を聞き、更にそれを適切に処理できるだけの時間はなかった。自然、武田の頃より忍びの重要性を学んできた左近が、その役目を引き受けることとなった。

 左近が一通りを語り終える。三成は左近の目をじっと見つめ、左近の思考をそこから読み取ろうとしているようだった。
「殿、」
 と、呼びかけるものの、三成が無言の重圧をかけてくる。三成がどこまで忍び世界のことを知っているか左近はわからなかったが、世に聞こえた風魔と対等に渡り合える程の実力を、未だ石田の忍び達は有していない。追求されたら、これは中々骨である。
「それは真か。」
 三成は意外に冷静であった。戦の最中よりもその前後にこそ己の力を発揮する人物である。戦の後処理と思えば、さして驚くことではないのかもしれない。
「左近が嘘を言うとでも?」
「報告は間違いはないだろう。だが、お前の言う忍びとはどこの者だ。」
「殿がお作りになった忍びですよ。何名か名を挙げましょうか?」
 三成が睨み付けるような視線を左近に送っている。妙なところで鋭い人である。話の内容に一つだけ偽ったその部分を的確に突いてくる。だが、ここで少しでも動揺すれば、隠し事をしていると言っていることになる。左近は主をだますことに胸を痛ませながら、何食わぬ顔でその視線を耐える。こればかりは言葉では繕えぬ。ただ真摯に三成の出方を待つしかないのだ。
 三成の問い詰めるような目にも動揺一つ見せなかった左近に、これ以上は無駄だと判断したのだろうか、三成は、
「まあいい。」
 と、幾分か視線を和らげた。それでも慣れぬ人物が見れば、自分は疑われている、と思っても仕方がない程、三成の表情は機嫌が悪いように見えた。女に見紛うごとき美貌が、余計に三成の顔に浮かぶ不機嫌を壮絶に見せているのだ。
「お前の言葉は信じよう。だが、お前も言った通り、証拠がなさ過ぎる。忍びに、もうしばらく様子を見ろと伝えろ。詳しい情報が欲しい。」
「はい、御意に。」
 左近が一礼をする。三成はそれをつまらなさそうに見やり、
「それで、だ。左近。」
 と、今度は左近が驚くほど柔らかな口調で三成は言った。これほど頑なな人物が、その者のことを口にするだけでこれほどまでに印象が変わるとは、流石の左近も初めての体験であった。
「幸村に会う機会はないか?俺はこれから数日は手が空かんからな。ふと思い出したのだが、」
 話をした矢先のことである。左近の語った内容から、その忍びが幸村の手の者であると判断する材料はなかったはずである。では、偶然だろう。偶然ほど心ノ臓に悪いものはない。咄嗟に反応できなかった左近の様子を了解だと受け取ったのだろう、三成は言葉を続けた。その言葉に、またしても左近の心ノ臓が飛び上がらんばかりに驚いた。鈍いが、どこか妙なところで聡い人物であることを失念していたのだ。
「先日、町で幸村を見かけたのだが、着物の柄が地味すぎる。幸村に会ったら、お前には鮮やかな色、たとえば、赤だとか橙だな、そちらの方が合うと思うと伝えてくれ。」
 もしや殿は幸村が女だと知っているのでは?そう思ったが、まさか本人に訊くわけにはいかぬ。左近が呆けていると、
「分かったのか分からぬのかどっちだ。」
 と、三成が問うものだから、左近はいつもの癖で、
「はいはい分かりましたよ、殿。」
 と、返事をしてしまったのだった。




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