左近は幸村に宛がわれている屋敷を訪れていた。以前のような夜の訪問ではない。私用とは言え主からの言付けもある。門から堂々と入ることができた。
 左近を出迎えたのは幸村であった。今まで槍の鍛錬をしていたのだろう、頬が上気している。髪も乱れていたし、額には汗が浮かんでいた。左近が声をかけると、少々息切れをした声で、
「どちらさまでっ。」
 と、笑顔で顔を覗かせたが、その目が左近を認めた途端、顔を強張らせた。
「殿からの伝言を、」
 そう左近が言うと幸村は強張った顔のまま、
「どうぞ奥へ。」
 と、左近を促した。

「殿には早速伝えておいた。だが、やはり証拠が足りん。とりあえず手勢の忍びに探らせておく。」
 人払いをし、すぐに左近は本題へと入った。こういった話をしている時だけ、幸村は以前と同じ目線で物事を語る。幸村も迅速な左近の対応に安堵しながら、
「それが良策でしょう。わざわざ、申し訳ありません。」
 と、丁寧な所作でお辞儀をした。流れるような動きである。
「それで、私の処分はいかようになりましたか?」
 大坂城内を忍びの者が行き来することは珍しいことではない。だが彼らが咎められぬのは、誰にも見つかってはいないからだ。秀吉もその辺りは黙認している。しかし今回の幸村の場合は違う。風魔忍びの件を報告するにあたって、己の忍びの存在をはきと認めたのだ。今が平和であればこそ、すわ反逆だ内応だとは言われぬが、時代が時代であれば謀叛の疑いをかけられても仕方のないことである。幸村はそれ相応の処分を既に覚悟していた。ゆえに忍びたちは本家に戻してしまったのだ。責任は己にあるのだと言外に表そうとしている。
 左近はそのことには何も触れぬ。幸村が、
「言いにくいことだとは思いますが。」
 と膝を進めれば、左近は渋々といった口調で口を開いた。
「ない。」
「え?」
「殿には言ってない。まあ、多少胡散臭そうにはしてましたが、とりあえずあんたの名前は出してない。」
 もし事実が発覚した場合、主に偽りの情報を流した左近はただでは済まぬであろう。三成はそういったことをひどく嫌う。潔癖でるとも言えるし、また融通が利かぬとも言う。
「いい、はずは、ありませんよね?あなたともあろうお人が、どうしてそんな真似を、」
「俺がいいと思ったからそうした。あんたの言葉は豊臣を思っての、心からのものだ。罰することになったら、それこそ豊臣家が痛手を受ける。あんたはこの件に関して何も知らない。そういうことにしておけ。」
「それでは私が納得はいきません!そうです、私の方から何人か忍びをお貸ししましょう。忍びの妙を極めた者たちです。必ずやお役に立てましょう。」
 礼に応えるが武士である。幸村は己の懐刀を左近に託すことで、この恩への言葉に出来ぬ感謝を表そうとしている。また、左近にとっても、幸村の申し出は思ってもみぬことであった。真田の忍びは決して数は多くないが、その質は目を見張るべきものがある。足手まといにはならぬどころか、率先しての仕事が望めるだろう。左近も武田の頃より、その優秀な忍びの術を目の当たりにしている。頼もしい限りであった。
「本当なら断るべきなんだろうが、今回ばかりはあんたの好意に甘えましょうかね。正直、人材不足が否めなくってね。助かる。」
 左近が肩をすくめた。内情を隠し立てせぬ左近の様子に、幸村から思わずくすくすと笑みがもれた。
「ようやく笑ったな。」
 左近がそう言って初めて幸村は少しだけ緊張が溶けていることに気付いた。幸村は笑ってしまったことが妙に気恥ずかしくなってしまい、顔が赤くなっていくのを隠すように顔を伏せた。武田の頃は軍略ばかり語り合っていたせいもあるだろう。こういった話の方が、昔の空気を思い出しやすかったのかもしれない。

 左近もそこそこに多忙である。長居はできぬ。用件を終えた左近が退室しようと腰を上げた。幸村もまた立ち上がる。その時、ようやく自分は茶の一つも左近に出していないことに気が付いた。思えば、昨夜も酒を振舞うべきを、何の気遣いも出来ていなかった。途端申し訳なく感じたが、ここで謝るのは何やらおかしな気がしてそのことには触れなかった。玄関まで送ろうと、まずは襖に手をかけた幸村に、左近は思い出したように声をかけた。幾分か気安くなっているような気がして、ほっとしたような呆れたような、なんとも言えぬ思いである。
「殿が思うに、あんたの平服は地味なんだと。赤とか橙とかそんな色が似合うだろうと言ってみえた。」
「、そ、れは、」
「殿はあんたのことを知ってるのか?」
 幸村が女子であるという事実のことである。しかし、幸村は未だ打ち明ける機会を逸してしまっている。
「いえ、打ち明ける機会がなく、未だに。ですが、もしや、」
「いや、あの鈍い殿のことだ。本当に思ったままを仰っただけかもしれない。むしろそうだろう。」
「そんな、三成どのに失礼ですよ。もしくは今回の件について、何かを含んで下さっているのかも、」
「それこそ有り得んな。殿は咄嗟にそんな言葉を吐ける程器用じゃないんでね。」
 歯に衣着せぬ物言いに幸村は呆れながらも笑みを漏らした。ああ私は、こんな風に彼と笑っていたのか。幸村の笑顔に、左近もまた笑ったのだった。




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