幸村はすぐに上田へと連絡をつけ、急ぎ海野六郎らを呼び戻した。彼と共に呼びつけたのは、望月六郎である。海野六郎は戦忍びである。戦場での働きを主とするが、諜報活動にも秀でており、咄嗟の判断は流石幸村が幼い頃より付き従っていただけのものがあり、経験が豊富である。望月六郎ももちろん戦忍びではあったが、どちらかというと新兵器の開発に精を出している。火薬の扱いに優れており、一日中硝石に塗れて何かを精製している。幸村の次に火薬が好きなのだと本人もそう喧伝している。
 左近の元へ送り出される忍びは、この二人を頭に数名である。他にも幸村が自由に扱える忍びは何名も居るのだが、いかんせん、気性が激しく、幸村の命令しか聞かぬという頑固者であった。幸村の父である昌幸の言葉も受け流すという程の徹底振りで、幸村も辟易している。が、頼りになる忍びではあった。
「佐助さんも才蔵さんも拗ねてましたよ。俺もあの二人を差し置いてこっちに来るの、結構心苦しかったですし。」
 そう望月六郎は言うが、顔は笑っている。間接的とは言え、幸村の元で仕事が出来ることが嬉しいのだろう。海野六郎は無口であったが、こちらの六郎は人懐っこいところがある。顔に愛嬌があるのだ。
「若の仰ることに反論しているのか、あの二人は。」
「海野さんのこともずるいって言ってましたよ。上田に戻った時がこわいですね。」
 幸村は二人のやり取りをにこやかに眺めていたが、
「早速だが、」
 と、言葉を告げた時には、既に表情が引き締まっていた。その幸村の様子に触発されたように、二人もまた笑みを消した。
「二人には左近どのの下で働いてもらう。あちらの忍びとの連携を乱さぬように。また、報告は左近どのにお伺いを立ててからにしてくれ。しばしの間、お前たちの主は左近どのだ。そのこと、肝に銘じておけ。」
「左近さま、島の左近さまのことで?」
「ああ。あの方ならば、お前たちのこともうまく使いこなしてくれるだろう。」
 幸村と左近の関係を知らぬ二人ではない。一瞬、複雑な表情を浮かべたが、結局は口に出すことはなかった。

 大体の打ち合わせも終わった頃である。部屋の外から幸村を呼ぶ声がした。
「幸村、少しいいか?」
 三成の声である。幸村は二人に目配せをして、潜むように合図をしてから、
「はい、どうぞ。今開けます。」
 と、襖を開けた。三成は激務が続いていたのだろう、疲れた顔をしていた。顔色はお世辞にも良いとは言えなかったし、髪も乱れていた。足元はどこかふらついていたし目は充血していたが、口調だけはしっかりしていた。幸村はおぼつかない足取りで部屋へと上がる三成を慌てて支え、
「随分お疲れのようですね、三成どの。呼んでくだされば、そちらに参りましたものを。」
 と、倒れこむように座った三成の横に、幸村も腰を下ろす。
「俺が来たくて来たのだ。気遣い無用。それよりも幸村、今宵は暇か?久々に酒でも呑まぬか?」
「そんなお疲れの様子で、酒を呑むのですか?身体に毒ですよ。」
「なに、俺はそんなには呑まん。兼続が置いていった酒をそろそろ片付けたいだけだ。左近が言うに、お前は相当の酒豪だそうだな。」
 兼続が持ってきた酒というのは、上杉からの持参品だろう。上杉家は雪国だけあって、酒も相当に強い。上杉家の人質として過ごしたことがある幸村は、それが身に沁みている。
 何度か三成とは酒を交わしたことがあるが、どうも三成は酒に弱いらしい。それに比べ幸村は、武田、そして上杉と、酒豪たちにもまれたせいもあり、相当に酒に強かった。盃一杯で顔を赤くするは三成だが、幸村はまるで水を飲んでいるようにするりと何杯飲み干しても、けろりとしている。
「では、幸村。今夜、俺の部屋に来い。左近も誘ってある。お前の飲みっぷり、楽しみにしているぞ。」
 そう言うや立ち上がり、またふらふらとした足取りで去っていく。幸村はその後ろ姿を心配そうに見送っていたが、突然にくるりと振り返った三成が、
「心配するな!慣れている。」
 と言うものだから、幸村は彼の後ろ姿を心配そうに眺めていたのだが、曲がり角で見えなくなると小さくため息をついて部屋へと戻って行ったのだった。


 幸村は月が顔を出したことを確認して、三成の部屋へと向かった。手には酒の肴にと、つまみがぶら下がっている。
 幸村が三成の部屋へと着いた頃、既に三成は眠りこけていた。相当疲れがたまっていたのだろう。最初の一杯でつぶれてしまったらしい。幸村はそう視線で説明する左近に苦笑を浮かべ、それから軽く会釈をした。
「つまみを持参しましたが、不要になってしまいましたか。」
「あんたと俺とで呑めばいいだろう。この酒を残しておいても、殿には強すぎるんでね。」
 そう言って左近はちらりと三成へ視線をやった。寝息を立ててぐっすり眠っている。起きている気配も、起きる様子もなかった。
「今日は悪かったな。早速あんたの手土産、頂きますよ。それにしても、ありがたい限りだ。」
 左近は幸村が持参した包みを解き、中に包まれていた煮物に手をつける。大袈裟だが、一見すればこのつまみの礼とも取れる。左近が幸村を見てにやりと笑った。幸村も一角の武将である。左近の言葉が何に対してのものか、瞬時に覚る。
「いえいえ、こちらこそ、お役に立てばよろしいのですが。塩気を加減しておりますので、食べやすくはしておりますが、少々物足りないかもしれません。」
 その切り替えしが面白かったのか、左近は声を上げて笑った。幸村が気遣わしげに三成を見たが、彼は未だ夢の中、反応すら示さなかった。

「それにしても、殿とあんたの縁も、中々不思議なものがあるなあ。」
「三成どのには、特に親切にして頂いております。何かとお世話になっていて。本当に優しい方です。」
 左近にしてみれば、あの石田三成が幸村を殊の外気にかける様子が不思議で仕方がない。主とは言え、この性格である。誰かと特別親しむことも馴染むことも出来ぬ性質ゆえ、同志と呼べる人間は少ない。また他人にあまり興味を抱かぬ三成である。人質として大坂へと参った幸村の何にそこまで興味を示しているのか、左近には分からぬ。もしくは、知らず幸村に惚れているのか。そう下世話なことを考えたりもするのだが、石田三成という主はそういった感情には疎いらしい。あの女官は器量が良い、どこそこの大名の娘御はお美しい、そういった話題を振ってはみたものの、短く、
『そうか。』
 と、返されるだけである。女子に注ぐべき情熱すら仕事に捧げている人間なのだろう。好いたはれたの感情にも鈍ければ、表情にも現れぬ。左近も、この気遣い方はもしや?と思うだけで、結局三成の心は分からず仕舞いだ。では真田幸村はどうであろう。大坂という見ず知らずの土地で、特に懇意にしている石田三成という存在は、本人の自覚している以上の支えになっていることだろう。三成は未だ幸村が女子であるとは知らぬようだが、幸村が三成を想っていると考えるのは野暮なことであろうか。親切にしている人間にいつしか情を抱くのは、人の性として在り得ぬことではない。
「私は三成どのの笑顔が好きです。もっとお笑いになられればよろしいのですが。そうすれば、おのずと印象も変わりましょう。」
 幸村は、喉が焼けるような酒を、まるで水を呑むように流し込む。流石の呑みっぷりだと思いながら、左近もぐいと杯を空けた。既に以前の親しさを取り戻している。他愛ない会話の合間に笑みがもれた。
「殿は敵を作りすぎなんだよ。まあそれが石田三成らしいところでもあるがな。それにしても、」
 左近は三成が起き出さぬのをしかと確認し、また幸村にちらりと視線をやった。灯りは心もとなかったが、その分月明かりがあった。相手の表情は読み取れる。
「殿には早く奥方を迎えて頂きたいものだ。そうすれば、もう少し人の心の機微にも聡くなるだろう。ああどこかに、殿のお心を穏やかにしてくれる女性はいないものか。」
 左近がその言葉から、表情から、幸村の想いを読み取ってやろうと顔色を伺っているが、幸村はその視線には気付かないのか、
「それは良いお考えですね!どこぞ、いらっしゃいませんかねえ。」
 と、微笑むばかりである。幸村は軍略や謀などの駆け引きには強いが、こういったものにはとことん鈍いらしい。良くも悪くも、三成と大差はなかった。左近としては少し鎌をかけたつもりなのだが、幸村はそれすら気付かない。こういった相手に遠回しの言葉は通じぬ。左近はひっそりとため息をついて、言葉を継いだ。
「あんたはどうなんだ?殿の花嫁候補。」
 幸村は左近の言葉に目を丸くした。そんなこと、考えにも及ばなかった、とその表情が物語っている。幸村は考えるように、視線を辺りに散らした。当然、三成へもその視線は向けられた。ぐっすりと眠っていることを確認した幸村は、
「そうですねえ、」
 と、口を開いたきり、言葉が続かない。
「歳も近い二人だ。冗談で言ってみたが、満更でもないんじゃないか?」
 婚約者であった、とも言えぬ関係であったが、左近の口から飛び出した言葉に、幸村は何を思ったのか。左近は分からぬ。ただこの時、幸村はたとえ表面上だけだったとしても、怒った素振りは一切見せなかった。左近の言葉に呆れて、言葉にならぬのかもしれぬ。それとも左近のように、昔は昔、今は今と割り切っているのかもしれぬ。戦乱の世だ。恋などというものは幻である。恋を経て夫婦になるのではなく、夫婦になって初めて愛が芽生える事の方が多いだろう。左近と幸村もそういった二人であった。だからこそ、左近に未練はない。だが、これは左近の思いである。幸村の心中は、左近には分からなかった。
「私なぞ、滅相もない限り。三成どのの方からお断りでしょうに。それに、私は戦しか知りません。そのような無骨者が、まさか三成どのと添い遂げたいなどと、口に出すのも恥ずかしいですよ。」
 幸村はいつの間に注いだのか、再び杯を空にしている。その焼けるような酒で喉を潤して、
「左近どのも、たまには冗談を外されるのですね。」
 と、左近の試すような言葉に取り合いもせぬ。左近は未だ、幸村が女子を自覚せぬ度合いを本当の意味で理解していないのであった。




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