数日後、幸村は左近の部屋から、己の屋敷へと帰っていた。未だ毒が抜けきらず、指先が少々震えている。腹の傷は幾重にも重ねられた着物がその切っ先の鋭さを防いでくれたこともあり、出血ほどひどい傷ではなかった。戦場で負う怪我の方が余程重傷であったから、幸村は己が怪我人であることをほとんど自覚しなかった。家人の目を盗んでは槍を振り回しその傷口に血を滲ませているが、本人はとんと頓着せぬ。痛みには鈍感であった。
怪我人と思えぬ日々を送っていたが、噂が噂を呼び、幸村の許へ見舞いに訪れる客は後を絶たなかった。大坂では人望も集めていたのだからそれは当然のことであったが、幸村は訪れた客に会うことはほとんどなかった。体調が優れぬ、気分が悪いというわけではなかった。幸村は己を女子だという目線で見られることを嫌がったせいである。また、以前は出来る限りの厚着をし、己の体形を誤魔化していたが、怪我人であるということもあり、寝巻きに近い格好であった。肩や腰の線を見れば、一目瞭然であろう。
幸村は意識を取り戻してすぐに海野六郎から報告を受けていた。その隣りには、事が起こった日は上田へと遣われていた望月六郎も居た。幸村は二人を責める気など全くはないし、風魔忍びに対しても、それが忍びの人生を全うした結果だと受け止めており憤りはなかった。ただ、二人の六郎はひどく恐縮していた。己が不甲斐ないばかりに幸村に傷を負わせたと思うのは、仕方がないことだろう。幸村もその辺りの心中は察していたが、笑顔を見せただけで何も言わなかった。ここで彼らに謝れば、己の判断は間違っていたのだと言っているのと同じである。幸村はそう思ってはいなかったからだ。
風魔忍びのことは緘口令が布かれているが、既に大坂に滞在している者たちの間で広まっていた。噂の脚色は多種あったが、共通している点は、石田冶部を狙った風魔忍びを、幸村は刺し違える覚悟で討ち取り、ひどく手傷を負った、というなんとも勇ましい内容であった。その後、公には三成が、裏の始末では左近が、処理を請け負っているとのことであった。
だが、幸村はただ一つだけ六郎に訊ねなかったことがあった。己の性別が世間に露見してしまったか否か、ということである。三成が他人に噂をばらまくなど考えられぬことであったが、どこに人の目があるか分からぬ。また律義者の三成のことである。主君に嘘偽りの情報は与えられぬ、と、幸村のことも報告してしまっているかもしれぬ。真田家の次男という肩書きで人質として大坂に置かれている幸村の立場は、異なってきてしまう。よもや切腹せよ、とまではいかぬだろうが、主家を欺く不埒者として非難を受けるかもしれぬ。女子のくせにと侮られぬかもしれぬ。幸村はそういった目をひどく嫌った。
幸村が自重せぬものだから、腹の傷は中々治らなかった。その間、幸村は人とは会わず、鬱々とした生活を送っていた。幸村の話し相手と言えば、六郎たちや身の回りの世話をする侍女、例外に幸村と面会している兼続や慶次であった。兼続も最初は布団から抜けられぬ幸村に遠慮していたが、臥せってばかりで気を病んではと幸村の身を案じたのか、勧められるままに幸村の部屋で数刻を過ごしている。慶次はと言えば、怪我人であることを知っているはずなのだが、酒を持参して共に呑まないかと押しかけてきたのである。慶次もまた、兼続同様、幸村の性別を気にした風もなく接する、数少ない理解者であった。
そんな折であった。幸村の許を訊ねる一人の客があった。左近である。あの日以来姿を見せぬ左近を、幸村もまた気にしていたが、この格好では屋敷の外から出ることも出来ず、彼の来訪を待っていた。
左近は部屋へと通されるなり、手を突いて平伏した。幸村は布団の中から上半身を起こし、その姿を見やった。冷ややかな目であった。幸村は何ゆえこの男が自分に土下座をしているのか、その理由を見透かしていたが、己程度に見透かされる左近の浅はかさに嫌気が差してしまった。この男は、己とは違ったところで頑ななのである。
「すまなかった。」
案の定、である。幸村は左近から謝罪が欲しいなどとは、露ほどにも思っていない。それは左近も承知しているだろう。知っていながら、この言葉なのである。幸村の声は自然冷たいものになった。
「頭を上げてください。それとも、本当に謝罪が必要だと思っているのですか?」
「あの時の判断は間違ってなかった。だが、どんな理由であれ、女人の肌を無闇に晒したことには、謝罪が必要だろう。」
左近はもう一度、
「すまなかった。」
と更に頭を深く垂れた。幸村は今の今まで何に対しても怒っていなかったにも関わらず、彼の言動に腹を立てていた。唇がわなわなと震えている。
「あなたは勝手です。私がそんなことで怒っているとでも、」
「幸村。」
強い口調で呼ばれ、幸村も言葉を止めた。左近はゆっくりと顔を上げ、射抜くような視線で幸村を見据えた。
「あんたは女だ。忘れるな。捨てるな。その事実から顔をそむけるな。」
幸村は女扱いをする左近の言動が嫌だった。女だから何だという。女では何がいけぬ。男共がそうやって隔絶したがるがゆえに、己は女子であることに嫌気が差したのではないか。幸村は最早、何故己が女子である自分を厭うているのか思い出せぬ。だからこそ、その根は深かった。
「目をそむけてはいられない事情もできてしまいました。三成どのは、やはり怒っているのでしょう。」
幸村は、三成のあの驚愕した顔が今も脳裏から離れぬ。戦で怪我をすれば忙しい合間に見舞いにきたのが彼であったし、慣れぬ大坂暮らしで身体を壊した時も薬を届けてくれたのが彼であった。決して驕っているわけではないが、見舞いどころか文一つ届かぬ。幸村は三成に見限られてしまったのだと思っている。
「殿は怒ってはいませんよ。そこまで狭量じゃない。だが、戸惑っているようには見えたな。あれは、やっぱりあんたのことを女などと一度とて思ったことのない顔だった。」
「一言謝罪がしたいです。左近どの、取り次いで頂けないでしょうか。」
「ま、お安い御用ですがね。何を謝るのか、俺にはとんと見当がつかない。」
左近はそう言って、幸村の額に手をやった。幸村は何をしているのか分からず、一瞬身構えてしまったが、熱を計っていることに気付き、特に抵抗はしなかった。左近の手は冷たかった。微熱が出ているのかもしれない。
「幸村、あんたは綺麗になった。だから、女に戻れ。そろそろ潮時だろう。」
幸村は咄嗟に左近の手を振り払い、キッと睨み付けた。幸村にとって、その言葉は屈辱以外の何ものでもなかったからだ。左近は手をひらひらと振りながら苦笑し、そのまま退室して行った。幸村はどうすることも出来ず、手の平で顔を覆ってしまった。女子になりたくない、なりたくないと生きてきたが、ふと感情が滲み出す、その癇癪は女特有のものであった。幸村はそのどうしようもない衝動に泣きたい気分になってしまうのだった。
左近が去ってどれ程の時間が経っただろう。幸村はいつもならば、秘密に槍の鍛錬をしている時刻であったが、この日ばかりは槍を握る気になれず、時間を持て余していた。そこに、六郎の慌てた声がかかった。思わぬ来訪者であった。断ることも出来ぬ相手に、幸村も腹をくくった。来訪者とは、
「太閤さま、並びにお方さまがお見えです。」
豊臣秀吉とその妻、ねねであった。