幸村は平伏して、二人の来訪を迎えた。畳に額を擦り付ける程頭を下げた幸村に、流石の秀吉とねねも驚いたようで、二人して顔を見合わせていた。
「まことに、申し訳ありませんでした。」
 そう幸村は言い、微動だにしない。幸村は知らぬが、ねねは三成に頼まれ幸村の手当てに携わっていた。当然幸村の怪我の様子も知っている。幸村は大したことがないと思っていたが、ねねからしてみれば決して軽い怪我ではなかった。この姿勢もかなり傷に負担をかけているだろう。ねねは顔色を変えて、
「幸村!なんて格好してるんだい!まだ安静にしてないと駄目だよ!」
 と声を張り上げたが、幸村はそんなねねの心配などよそに、静かな口調で言った。
「秀吉さま、おねねさまを初め、多くの方々を偽っていたこと、深く深く、お詫び申し上げます。ですが、これはわたくしが我を張った結果。真田家には何の責もございません。このような謝罪で許されるとは思いませぬゆえ、どうぞいかようにも処分を言い渡し下さい。ご命令とあれば、この腹かっさばく覚悟もできておりますれば。」
「幸村!」
 ねねが幸村に駆け寄ろうとしたが、それを秀吉が制した。ねねの青ざめた顔とは裏腹に、秀吉のそれは堂々としたものであり、天下人の威厳をもって幸村を見下ろしていた。幸村は未だ顔を上げていないが、注がれる視線の鋭さに覚悟を決めた。豊臣秀吉という存在は、やはり天下人であるのだ。
 ねねは不安そうに二人を見比べていたが、秀吉が任せろ、とでも言うように頷いたものだから、ねねは半歩下がった。この大坂の主は秀吉である。ねねではない。
「幸村、表を上げよ。」
「…。」
 幸村は顔を上げぬ。ただ無言で、早く処分を言い渡してください、と訴えているようであった。だが、秀吉は尚も命じた。
「面を上げよと言ったんじゃ。早よう顔を見せい。」
 そこは天下人の命令である。有無を言わさぬ威圧があった。幸村はゆっくりと顔を上げる。
 幸村の表情は堂々としていた。秀吉が鋭い視線を向けても、幸村は怯まなかった。幸村の様子に満足したのか、秀吉は真剣な顔のまま頷き、幸村に近寄った。秀吉の手が幸村へと伸ばされる。殴られるか、それともその指を突きつけられ非難されるか。幸村はぎゅっと目を瞑った、その時である。
「いやー、幸村、前々から思っとったんじゃが、なっかなかの別嬪じゃのう!どうじゃ、わしの側室にならんか?」
 え、と幸村が目を開ければ、人たらしの異名を取る、秀吉独特の人懐っこい笑みとぶつかった。彼の手は幸村の肩に置かれている。控えていたねねが安堵の息をついた。場の空気が和んだことにほっとしているようである。
「こら!お前さま!浮気は駄目だよ!それに、純真無垢な幸ちゃんをいやらしい目で見ないこと!ほら、その手も早くどけて!幸ちゃんが汚れちゃうでしょ!」
「ねねもひどいことを言うのう…。しっかし、わしは結構本気じゃぞ。こんなむさ苦しい所で埋もれさせるには勿体なくてのう…。いつ、どこの馬の骨に掻っ攫われるか分かったものではないぞ。」
「……。」
 いつの間にやら距離を詰めていたのか、ねねも秀吉の隣りに座っていた。無言の圧力に負けて、秀吉は渋々幸村の肩から手を退けている。二人のやり取りを何も言えずに見つめていた幸村だが、これでは駄目だと口を開いた。
「あ、あの、お二人は怒ってはいらっしゃらないのですか?」
 幸村の言葉に、二人は顔を見合わせ、同時に噴き出した。そう訊ねる幸村が情けない顔をしていたせいかもしれない。
「怒るも何も、むしろ大歓迎じゃ!」
「でも、あたしぐらいには教えて欲しかったな。ほら、お忍びで城下町とか行ってみたいじゃない。娘が出来たみたいで、きっと楽しいだろうし!そうだ、今度一緒に出掛けよっか。どうせ幸ちゃん、女物の着物なんて持ってないんでしょ?なら大丈夫。ちゃ〜んとあたしが全部用意してあげるから。ばれるようなことはないから安心して。そこはあたしにど〜んと任せてちょうだい!」
 どん、と己の胸を叩いたねねは、既に計画をどう実行しようか考えているようであった。幸村は展開の早さについていけず、曖昧に頷いただけであった。

「そうそうそう言えば、三成は見舞いに来た?」
 唐突であった。幸村はその言葉に表情を失くし、
「いいえ。」
 と顔を伏せた。大らかな性格である二人はこうして簡単に許してしまったが、三成は怒っているだろう、と幸村は思っているからだ。以前のように接してはくれぬだろう、と思うと、自然表情は暗くなった。
「いかんのう〜三成のやつは!女子が臥せっている時は、文なり歌なり送るもんじゃろう。」
「お前さまの言葉はどうかと思うけど、でも本当あの子も駄目ねぇ〜。今度会ったらおしおきだよ。」
「三成どのは悪くはありません。私が至らぬがゆえでございます。」
 幸村は声を震わせてそう言う。幸村は気を抜けば泣いてしまいそうで、唇を強く噛み締めた。不甲斐ない己と、優しい二人の言葉が身に沁みたのだ。ねねはそんな幸村の手を取った。大坂の母は幸村の心など見透かしているのか、幸村が驚いて目を向ければ穏やかに微笑んだ。
「三成はお前を嫌いになったわけじゃないよ。ただ、突然のことにびっくりしただけなんだよ。ほら、あの子は融通が利かないし、妙なところで堅物だから。お前は何も恥ずべきことをしていないよ。でも、騙していたことは確かだから、それは謝らないといけないね。」
 ねねの言葉に、とうとう幸村の目から涙が零れた。ねねは優しくその様を見つめ、何度も幸村の頭を撫でた。
「こら、お前さま。女の子の涙をそうまじまじと見つめるもんじゃないよ!こっからは女の子同士の話だから、お前さまはもう帰っておくれよ。」
 母と化したねねは強い。秀吉は目の保養とばかりに幸村を眺めていたが、ねねの視線に耐えられなくなり、すごすごと退室した。ねねは再び襖が閉まるのを確認して、幸村の手をぎゅっと握り締めた。
「お前は三成のことを本当に大切に思ってくれているんだね。あたしとしては本当に嬉しいよ。ねぇ、幸村。お前がどうして男として振舞っているのか、あたしには分からない。けど、そろそろ女の子に戻ってもいいんじゃないかい?綺麗な着物着て、化粧もして、恋い慕う相手と添い遂げたいと思わないかい?そりゃあみんな、最初はびっくりするだろうけど、案外受け入れてくれると思うよ。清正も正則もお前のことを気に入っててね。お前がいっつも見舞いを断ってしまうから、最近しょぼくれてるよ。」
 幸村は涙を拭いながら、首を振った。それは確かに、女子の幸せであろう。だが、幸村にはとんと見当がつかぬ幸せであった。綺麗な着物も化粧も、己を着飾ることも、幸村の興味から程遠かった。
「私は男になりたかったのです。けれどそれも叶いませぬゆえ、槍をとって武の道に進みました。」
「それなら、もし、あの人の命令で誰かと結婚しろって言われたら、お前はどうするんだい?」
 従う以外の選択があるだろうか。しかし、幸村は穏やかな外見とは異なり、激情の持ち主である。嫁ぐその前日に、頑なな姿勢で腹を召すかもしれぬ。幸村はそれ程に、己が女子であることを知らぬのである。幸村は返答に困ったが、
「ご命令とあらば。」
 と綴った。従う従わぬの問題ではなかった。従えぬのである。ねねは幸村の言葉に含まれた感情を悟ったのか、
「お前も強情だねぇ。」
 と肩をすくめた。
「そうだ、幸村。お前には好いたお人が居るかい?過去にそういった経験もないのかい?」
 特定の人物を好きになる、ということは、己が女子になると同義である。幸村にはその経験すらなかった。そう素直に答えようと思った幸村だが、期待するように見上げるねねの視線とぶつかり、口ごもってしまった。そのような経験など…、と思案していると、ふと、思いついたようにその言葉が飛び出した。
「昔、武田の頃の話ですが、その当時、婚儀の話が出ました。しかし、武田が滅びた今、その話もなきものになりました。私もそのように受け止めています。」
「お前はその人の為に今も操を立てているんだね!」
 ねねの言葉に、幸村は驚いて顔を上げた。そう考えたことは一度とてなかったし、そもそも自分たちには恋などという言葉すら存在していなかったからである。だが、ねねの言葉の通りに考えると、自分は何と健気なのだ、と人事のような感想が飛び出した。同時に、左近の目にそのように映っているのでは、と思うとどうしようもなく恥ずかしくなってしまい、頬が赤くなるのが感じられた。敏感に幸村の表情の変化を感じ取ったねねは、
「初々しいねぇ!やっぱり若いって羨ましいよ。もう、幸ちゃんったら可愛い!」
 と幸村を抱き締めた。幸村はその誤解をどう解こうか四苦八苦していたが、その悩ましげな様すらねねの目には相手を想ってのことのように映り、勘違いを更に悪化させていた。これが、相手は左近どのです、とでも口を滑らせていたら、あれよあれよと言う間に婚約が決まり、いつの間にやら結納であろうと思えて、幸村はほっとする反面、内心顔を青くするのであった。




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